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2週間ぐらい間を開けつつ、とはいっても実際にはいろいろ書けなくて苦労したけれども、ネイションシリーズの第4回。

一応おさらいしておくと、発端になったのは日本のナ ショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説という考察から。第一回は国家民族に再フォーカスし、鎖国によって日本の良さを守る、超効率エコ社会を訴える「現代に おいて鎖国が現実味を帯びる時 ー 日本第一百科事典財団構想」、その次は経済と企業システムの再興を宗教改革になぞらえた「意義の ある「労道」がしたいー21世紀の日本で宗教改革の波が」。そして第3回は日本文化シンパを増やそうぜ!という「日本」”JAPAN”から”NIPPON”へ・・・経済は停滞しても文化浸透は止めない

で、第4回で考えるのは国家という枠組みを維持しつつも、超国家組織によりより大きな共同体を実現する「インターリージョナリズム」である。

実はこのような形態の失敗例は多数ある。国際連盟と国際連合は代表例で、結局のところ「国連のため」に何かをする国家はほとんどない。むしろ国家のために国連を利用する連中ばかりである。しかし、さすがに、これは純粋に今の世界に国連サイズの共同体を運営できる準備ができていないと見るべきであろう。いつの日かこれが実現する日は来るかもしれない。しかし、ここでいうインターリージョナリズムは、そのような世界規模のものではない。大きめの国家規模、ロシア・アメリカ・中国等の大国に対抗しうる程度の規模の話である。

現状をひもとくと、代表的な実装例はEUであり、多大な成果を収めているのは事実であるが、同時に経済的なものを中心に多数の問題点も抱えているのはニュースの通りである。ただし、L.starは個人的にはヨーロッパにはEU以外の選択肢は無かったと考えている。それは歴史的に小さく分裂した封建制度の下にあった時期が長く、文化および言語で隔絶していて、お互いにわだかまりを抱えている割に覇権国家といえるほどの圧倒的な実力のある国家が居ない横並びのヨーロッパには、ほかに共同体の大きさを広げる方法はなかった。

翻って日本、ひいてはアジアで同様の枠組みになるのはなんだろう。歴史的に見れば、幕末から明治政府までの一連の流れにおいて、それに近いものがあっただろうと考えられる。また、現在民主党政権というか鳩山総理は「東アジア共同体」という構想を打ち出しているが、これもまさにインターリージョナリズムである。もう一つはASEANである。EUほど緊密ではないが、しかし中国やインドに対抗できる程度の大きさの経済圏になっている。東亜共栄圏もこのたぐいに見えるが、インターリージョナリズムが対等な国家連合であるのに対して、大東亜共栄圏は所詮日本帝国を言い換えたものに過ぎない、という重要な違いがある。

ここでL.starの勝手な仮説を又持ってくるが、インターリージョナリズムを形成可能な国家群には、以下のような条件が必要とされると考えている。

  1. 文化的な同質性や、物流・経済などの結びつきが強いこと

  2. インターリージョナリズムによって初めて実現できる高い理想を共有できること

  3. 国家間の役割が対等かそれに近いこと。援助する国とされる国に分裂したりして、不公平感を作らない。


こと(1)に関して、鳩山総理が日中韓を共同体基盤に選ぶのは彼の経験からだろうということは、外国である程度の期間を過ごしていると簡単に理解できる。この3国は、他の国家に比べてずっと文化的に近いのだ。中国人の英語は彼らが中国訛りであるにもかかわらず聞き取りやすい。体調的につらくて欧州の料理を食べたくないようなときにも、ビビンバのようなあまり辛くない韓国料理はまだ食べやすい。西欧社会はもちろん、インド、南米、アフリカ、いずれも日本人とはかなり大きな文化的差異をもっている。アジア人だから信用できる、というのはない。しかし、信用できないアジア人を見分けるのは、信用できないスロバキア人を見分けるよりなんとなく簡単だろうと思う。ここは重要である。

(2)は言い換えると、インターリージョナリズムという技術的な枠組みに対してどのような「ネイション」を与えるかである。EUは環境保護主義を強く打ち出して、長期的な視野に立った文明存続という困難な目標に立ち向かおうとしている。また、経済についても全体の足並みを何とかそろえて、世界規模経済の時代にそぐうような枠組みを作ることに腐心している。ここが今、日本を中心とした国家連合に欠けている。(3)も、アジアの諸国家では一位中国がダントツ、二位日本(ただし下降中)、3位以下が韓国台湾シンガポール等が追い上げている、という感じでけっこう差が大きい。途上国も大きく、当初のEUほど対等でもない。ここは問題だ。

逆に言うと、日本とインターリージョナリズムが結びつくためには(2)と(3)の条件を満たすような連合体があればいい、と言うことになる。(3)については、中国は外して日本・韓国・台湾・シンガポール(と香港か)あたりの経済都市が中心になれば実現しやすいだろうか。そして(2)になるような理想で、環境保護主義と並んでたてるのはネットを駆使した新しい社会形態ではないか、と思う。電脳都市である。技術的にはGoogleを超えるような凄いブレークスルーが必要になるかもしれないが、何もこれはアジア人だけで実現する必要はない。彼らを呼んでくるだけでもいいのである。ポイントは1国では成し遂げられないほどの効率での電脳化で、住んでいるアジア人が幸せになれると信じられればいいのである。ここで思いついたのはどっちかというとサイバーパンクに近い世界だが、糾合できるだけの力を持てる目標はいろいろ考えられるだろう。エコだって良いわけだ。

このようなインターリージョナリズムが成功する場合、日本にもたらす利益は莫大だが、変化も巨大である。道には日本人だけでなくアジア人もあふれ、事実上の第一公用語も日本語ではなくなり、同質的な「アジア文化」が支配的になるだろう。そういう意味で、インターリージョナリズムは文化と強く影響し合うのではないだろうか、と漠然と思う。まあ、それよりなにより一番大切なのは、そういう理念や諸条件を持った国家群をうまくくっつけ続ける政治技術である。統合する理由はあって、長期的にはペイするかもしれない。しかし、短期的にしないほうがいい理由などいくらでも思いつく。ここをうまくコントロールできる世界的なリーダーシップがないと、簡単に崩壊するだろう。

参考文献:

アクセス数を見る限り全く持って人気がないが、L.star当人がもう考え出したら止まらないので、引き続き日本の「ネイション」を問うシリーズ第3回。第一回は国家民族に再フォーカスし、鎖国によって日本の良さを守る、超効率エコ社会を訴える「現代に おいて鎖国が現実味を帯びる時 ー 日本第一百科事典財団構想」、その次は経済と企業システムの再興を宗教改革になぞらえた「意義の ある「労道」がしたいー21世紀の日本で宗教改革の波が」。

第3の仮説は「創造の共同体」の望ましい規模が、日本国(=民族=宗教)より大きいならどうなる?と言う考えに基づく。たとえ ば「資本主義」イデオロギーは日本国よりずっと大きい。アメリカ合衆国も大きい。中国もロシアも、である。歴史的に見ると、巨大な共同体は強大だ が、それを維持するためのコストも増大するため、長期的に存続するのは難しい。しかし小さすぎると逆にスケールメリットが得られずじり貧となる。このちょうど良いサイズを求めるのが正解であろう、という考えに基づいてだ。もちろん、 この大きさを客観的に評価するのはそもそも不可能で、説明すら困難である。しかし、「日本」において、日本国土より大きくなりうるものと は何か、という問いに3つの答えがあった。「企業」「文化」「経済」である。

経済と企業については前回語った。だから、3番目の話は「文化圏」である。

日本文化は、すでに日本人という枠を超えて広がっている。だ。これは現実にオランダのスーパーマーケットでSUSHIがパックで売られていたり、デュッセルドルフのラーメン屋でドイツ人がラーメンを食うのに四苦八苦しているのを見ると感じずには居られないものである。異なる文化圏において、日本文化は確かに一定の勝利を収めている。「開かれた日本は素晴らしい。 しかし、なぜそう思うようになったのか。」でも指摘したが、これはまごうことなき事実だ。

この「文化ネイション」は、日本文化の価値を高め、世界に広め、より多くの人にその良さを理解してもらう。その上で日本は文化の発信者としての地位を得る、という活動を信じる人の共同体である。日本文化が何であるかはここでは定義しない。食、芸術、観光、歴史、漫画アニメカラオケ・・・実に多彩である。そのどれもが日本文化たり得る。日本文化からの受益者はもちろん日本人と、日本文化によって精神的、物質的な利益を得る非日本人の両方である。

繰り返すが、そのようにして拡大された日本は、すでに世界のあちこちに登場しはじめている。そこかしこにある寿司バーから始まって、デュッセルドルフ、パリ、ロンドン、ニューヨーク、バンコクといった大都市には日本人街といえるものすらある。これらは日本人が何人もいると言うこと以外どのような意味でも日本国家や民族の一部ではない。しかし、誰がどう見ても日本文化圏の一部であることは間違いない。

残念ながら今、日本文化が一定の成果を出しているとはいえ、それは日本からの輸出によってなされたものばかりではない。むしろ日本のコンテンツ産業などは、優良なコンテンツを持ちながらあまり外貨を稼げているとは言い難い。個人的に日本人が文化を売る能力がないとは思わないが、

・日本は文化的に隔絶していた時期が長いため、他の文化と差異が大きい。
・特に欧米には異文化に対して、自分たちの文化を浸透させるノウハウがある。

という2つは非常に大きく、どうしても外国に対して出遅れがちである。ここを何とかしなければならないだろう。

それゆえ、非日本人で、日本文化圏に共感を抱く人たちの立場が重要になる。彼らは日本と日本でないものの差をよく知っているのであり、その知識は文化を広める上で大 変に役に立つものである。

また、日本人としてできることとすれば、お互いの文化をより深く研究したり、プレゼンテーション手法を研究したりするなどして、日本文化をより良く説明できるようにすること。観光推進や発信方法の改善により、日本文化を世界の人に発信して知ってもらうこと。そして、それを経済と結びつけることによって、文化を広めることによって発生する互恵的な正のフィードバックループ(あるいはエコシステムと言うべきか)を作ることである。ただし経済的には「黒字である」を是としても「飽くなき利潤の追求」からは一歩下がることになる。この仮説では、あくまで経済は文化浸透に対する従属要素であるべきだからだ。

そして何より重要なのは、日本文化と称するものに絶え間なき改善を加え、良いものは外国からどんどん取り入れることである。例えばみんな大好きカレーライスとハンバーグだが、これらはいずれも西洋発祥であり、我々が取り入れた結果である。また悪い側面があるなら、注意深く除いていくことも当然必要である。そうやって「日本文化」を魅力的なものにしつづけなければならない。ただし、改善を加えていくと言うことは、時代にそぐわない古き良きものをなくすと言うことではない。そういったものは古いものとして認識し、日本人だけのところでそのまま残しておけばいい。日本文化圏の非日本人だって、別に自分たちの民族や国家の有り様を捨てるわけではない。

だから今回、題名として「日本」(日本の日本語表現)”JAPAN"(日本の英語表記)から”NIPPON"という、日本語だが、世界のデファクト スタンダードになりつつあるローマ字表記で書く、という表記にした.それは、いまある我々から見た日本を尊重しながらも、世界 に対しても自ら歩み寄っていき、高次のよりよい文化を世界に提示しよう、と言う意味である。

文化圏というのは、文化が健全なら自然に発展していくものであり、敵は少なくない。すでにアメリカがこの点ではリードしているし、中国も韓国も追い上げている。しかし、アメリカ文化はまさにアメリカそのものであり、イスラム圏社会では反発も受けた。その点日本の文化は特に明治以降あらゆるところからどん欲に取り入れた、すでに少なくともアメリカよりは折衷型に近いものになっている。特に食文化については本当に節操がないぐらいであり。西洋と東洋の中間という絶好のポジションにいる。日本で非日本人が重要になるように、世界で重要な位置を占めているのではないか。

鎖国を真剣に考えるような人にとっては、これは荒唐無稽かもしれない。しかし、長い歴史の中で、われわれは間違いなくそれに相当することを成し遂げてきた。戦国時代の日本人に、20世紀を想像することはとうてい無理なように、一見無理に見えるだけである。ただ、少し急いだ方が良いかもしれない、とは思う。日本はようやく日本人街をぽつぽつと作ってきたが、中華街は世界中どこにでもある。うかうかしていると、世界が全部中国かアメリカ文化圏になってしまってガラパゴス日本は消えゆくのみになってしまうかもしれないのだ。

日本のナ ショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説

から始まった「ネイション」追求の第二回。第一回では「鎖国」に焦点を当てたが、今回は逆に既存の「ネイション」であったとした企業、ひいては資本主義経済が引き続きその役割をつとめる、と言う仮定に基づいて考えたい。今は激動の時代だとは思うが、だからといって既存の枠組みが極端に変化するとは限らない。それに短期的には、引き続き資本主義市場経済は優勢で、鎖国が必要になるほど壊れるとは考えづらい。だから、これはきわめて現実的な選択肢である。

さてその企業ネイションだが、俗にナショナリズムを「宗教のようなもの」と翻訳するからには、やはり企業も宗教のようなものである。L.starは昔某有名大企業で半年間ほど派遣されていたことがあるが、正直「きもい」「宗教のようだ」と感じた。今にして思うのは、それが「ネイション」であったのだろう、ということだ。しかし一方で労働組合的なものの正義も信じることができなかった。やりたいことは好きなだけやりたかったし、時にはそれが仕事と重なることもあった。そのようなときには、一律で長時間労働を禁止するような規則は邪魔者以外の何もでもなかった。そして、あれもある種宗教じみていたと感じていた。

そこでちょうど良いことに海外ニート氏のエントリで日本で は「労働」が「労道」になっている。と言う、これなどまさに労働を宗教と考えているそのままの名フレーズがあるので、「労道」という単語を拝借させてもらいつつ話を進めることにしよう。しかしL.starはここではこれを再び中核に据える、つまり日本人がまたがむしゃらに働くことによって社会を再興しようというのだから、海外ニート氏のように完全につぶす(と表向き主張する)ことは考えられない。代わりに必要なのは「改革」である。

個人的に思っているのは、人間は誰だって有意義なことがしたいということだ。有意義の定義はもちろん人それぞれで、でかい夢を持った人もあれば小さい夢をこつこつやったりする人もいて千差万別である。しかし戦後の高度成長期において、多数の社員が家族から何から全部なげうってでも「有意義なことをした」と信じて自分のなすべき事をなしたのだ。

このような100%自発的な労働形態を否定する人はさすがに誰もいないと信じたい。なにしろ、いま企業社会が否定されているのは、このような労働形態になってないどころが「自発的」に行動することを強制され、それによって搾取されていることにあるのだ。だから旧世代と新世代の温度差は大きい。旧世代は自分たちのやったことの有意義さ、すなわち「労道」を信じているか、無理矢理信じ込もうとしている。ところが新世代はその基盤は一切存在しないから、そもそも「労道」を信じる以前に感じることすらできない。

このようなケースにおいて選択肢は大まかに2つである。労道を否定し、普通の労働形態に戻すこと。逆に労道を肯定し、再び労働者が有意義な仕事をしていると信じられるようになること。L.starはここでこの2つの両方をミックスすることを提案したい。現在の、ぐちゃぐちゃになった労働階級を再編し、完全に2つに分けることである。それは「労働者」と「労道者」だ。

「労道者」は、それこそ過労死するほど働くジャパニーズビジネスマンの再来である。あるいは欧米のエグゼクティブといっていいだろう。仕事量は無限大。常に過酷なチャレンジ。それをやりがいをもってこなし続けることが求められる。もちろん報酬も高額であるべきだし、無能ならびしばし切られて当たり前。それに対して「労働者」はただの人。たいして刺激がない内容の仕事で、普通に働き普通に休み(ここでの普通は日本の普通ではない。欧州とかの、平然と2週間の夏のバカンスを取るような「普通」である)、ほどほどの報酬を手にする。パレートの法則によるなら、この配分率は20:80になるだろう。仕事量が「労道者」で報酬とやりがいが「労働者」の「社畜」はもう認められない。その逆の「給料泥棒」もだ。

このためにどのような「改革」が必要になるかというのは、あえて語る必要はないだろう。封建的な下請け制度、解雇規制の撤廃、有給消化の徹底、サービス残業などの過酷な労働条件の廃止。むしろ「労働三法を遵守しよう」はルターの「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。」という言葉とだぶって聞こえる。法律は聖書ではないから変えることはできる。でも現状をそのまま明文化することはできまい。このあたりは改革派の意図する「社畜」追放に関して、ひとまずの突破点となるだろう。

もう一方の「やりがい」のほうは難しい。しかし試みとしては現れてきているようだ。例えばカンブリア宮殿で紹介されていた株式会社21だが、ここの会社システムは実にユニークであるようだ。株式会社21の実態は知らないので詳細なコメントは控えるが、それに近いルールを採用していたソフトハウスに勤務していたことがある。いろいろ問題を抱えつつも、そのシステム自体は評価に値するものであったと思うし、自分がもし同様の企業をするなら、あのシステムは参考にするだろう。このような新しい「やりがい」のために作られたシステムなら、昭和的な大企業よりずっと良く動作するだろう。それが動作し、金を集め、人を動かせるようになることが何よりの改革である。

また、このような外部からの「宗教改革」が発生するなら、「対抗宗教改革」も同様に期待できるであろう。日本の大企業は確かに苦しんでいるが、曲がりなりにも競争を生き抜いた産物であり、やわではない。何処かの段階で誰かが気づいて、やりがいを再興することは十分考えられることである。ただし、再興できない、あるいはやるつもりはないという企業は消えるべきであり、むしろ積極的に消すことを支援すべきである。

と言うわけで今回は「宗教改革」に範を得て日本の企業ナショナリズムの再興について考察した。読んで分かるように独創的でない。それは、改革が現在進行中で、十分に議論されてきていて、しかも成果まで現れつつあるからだ。そういう意味でも非常に現実的な、というか全く妥当な選択肢だったといえるだろう。しかしナショナリズムの観点から一番重要なのは何かというと、そのために必死で頑張りたくなるような「やりがい」の創出だろう、ということを述べたかった。若者が喜んで自発的に働く社会ができれば、日本は必ずや大回復を遂げるだろう。長い道のりだ。

日本のナ ショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説


は個人的な追求の結果として書いたものだが、それに対する反響として「じゃあ日本の新しいネイションとは何ですか」という新たな問いが発生する。「ネイション」が決定するのは勢力争いの結果であり、それを予測するのは大変困難を極める。それゆえ、喪失したことを指摘するのと、その次は何かを予測するのには、きわめて大きな溝がある。しかし当然、最初にこの仮説を出した以上、そこに踏み込まざるを得ない。実際それに苦しみつついろいろ草稿をしたためたりしていたのだが、実際にいくつか自分なりに積み上がったものができてきたので、一つ一つ時間を設けて書き記してみたい。

まずは一番簡単な、民族(=国家=日本宗教)がナショナリズムの勝者となるケースである。L.starが「鎖国派」と称するものであるが、今回はそれを肯定的にとらえ、それが有効になるような状況を仮定して、どういう社会になるべきか、その一端を考えたい。

日本民族と国土が再びナショナリズムの中心になる、という場合、他国との関わりを最小化する方向に当然向かうだろう。しかし中国が、ロシアが、アメリカがEUが健在な間は、日本を放っておかない。最小化することが最適解になるのは、個人的には「大国が全部崩壊した」ケースになるだろうと考える。つまり「暗黒時代の到来」である。アメリカ帝国が崩壊すると同時に近代西洋社会はついに終焉を迎え、その礎であった世界規模経済に支えられていた文明も崩壊する。技術も文化も多数が失われるのは間違いない。そのような状態においては、グローバリズムに背を向けることは正解である。

その点「中国が脅威だから」というのは鎖国の理由にならないだろう。本当に強ければ日本を踏みつぶすだけだから。そのようなときに世界規模経済という現在最強の武器を手放すのは愚行である。むしろ中国が弱いときこそ、本当の意味の 鎖国と向き合うことになる。崩壊の確率算定はL.starの手には当然余る・・・しかし0ではないだろう。むしろ20%はあるのではないかと感じている。もちろんすぐではない。

そのような時に日本を残すための「鎖国」いやここはあえて「ネオ鎖国」と呼ぶが、世界規模経済に依存できない以上、日本で手に入る限られたリソース中心で成立する社会である必要がある。閉じた社会であるため、長期的に存続するためには当然低成長であるべきである。環境保護主義、つまり「エコ」なのだ。高効率低成長超エコ社会というとこれは当然江戸時代が思い浮かぶが、現代の技術で江戸時代を再現することこそが「ネオ鎖国」である。地球温暖化に疑問を抱く必要など無い。自分たちが生きられるだけの高効率を得られるかどうかは最重要課題になり、寒冷化していようがCO2がどうかなど、一切関係なくなる。人口は当然科学技術がどれだけのアシストができるかに掛かっているが、もちろん江戸時代の4000万はクリアする。しかし1億2000万はまず無理だろう。7-8000万が妥当な数字であろうか。産児制限のようなものは当然行われるであろう。

社会そのものは当然管理社会的になる。効率を維持するための監視社会になり、プライバシーに関する考えも今とずいぶん異なる形になるだろう。適正配分のためには政府の権力は強化され、下手をすると配給制にまでなりうる。身分制度などは分からない。封建主義的な固定身分制度も有効だろうし、社会主義的平等が実現できるなら、ベーシックインカムのような強力なセーフティネットによって後押しするだろう。

しかし個人的に疑問なのは、このような社会がいったいどのようなナショナリズムを持ちうると言うのか、である。しばしばSFで描かれる近未来の管理社会は、たいていの場合効率を重視しすぎて味気ない社会であり、あまりうれしいようなものに思われない。漠然と楽しく生きた江戸時代は、素晴らしい社会となったのは確かだろうが、その後の西洋との戦いの第一ステージは惨敗も良いところであった。まあもちろんそれもいいのだが、しかし一つ提唱したいものがある。タイトルでぴんと来た人にはもう分かっているだろう。「世界規模経済社会の復興」である。

このアイデアの軸になったのは「ファウンデーション(アイザック・アシモフ)」である。だからタイトルは日本をターミナスに見立て、(第一)ファウンデーションにする。そして科学技術や歴史と言った過去に伝えるべき要素を守る役目を担わせ、また復興の基点にしよう、ということだ。この点、大陸辺境部にあり資源に乏しい日本は、ターミナスと見事一致している。そして実際に鎖国経験の歴史を持つ文化になら、まさに適任だろう。当然「第一」とわざわざ銘打っているだけに、「第二」の方は、帝国として成り立つときに必要なものであるし、正直それに類するものの考察すら不可能な存在であるからして、考慮外とするしかない。

まとめると、「ネオ鎖国」が妥当になるケースは世界秩序が崩壊に向かうときであり、その方法をとるに当たって重要なのは「高効率」「低成長」「環境保護主義」といった要素である。ファウンデーションが必要な状況にまでならなくとも、世界に動きが少なく、全体的に閉鎖気味になり、その小康状態で長期間安定するようなケースでは相性は良いであろう。そのような状況になりうるかどうかはよくわからない。個人的にはあってほしくない、避けるべき未来であると思う。

最後に、世界が崩壊しなくても同様に鎖国にならざるを得ないケースが一つあることを指摘しておきたい。それは世界経済が拡大して、単一ネイションが完全に世界全体を覆ってしまうときである。このときには地球全体が鎖国であることを余儀なくされ、しかも確実に周りに交易相手は居ないのだ。主に地球温暖化と切り離してエコの必要性を論じている人の多くは、このような状態に将来行き着くことを認識して発言していることが多い。今崩壊しても、今後成長しきってもどっちにしても問題に直面するのなら、エコを推進することは正しい帰結だろう。

個人的に、どうも話が合わない、と思うことは多々ある。

外国人 参政権なんかよりずっと重要な話をしないか – あなたは開国派?それとも鎖国派?


において、論点を2つに分けて議論をすればいい、と考えたが、合意点がそれなりにあるのに不思議と大きな壁を感じる。議論をする姿勢のない人ともそうだが、まじめな人にも似たものが感じられるのだ。まるで違い宗教を信仰していて、お互いに聖典についての終わりない罵声の投げつけあいをやっているかのよう。彼らとL.starの間には、どっちが悪いか、ということを抜きにしてきわめて大きい壁が広がっていると言っていいのではなかろうか。それを果たして議論のベースにして正しかったのか?という考えがある。

また「日本とオランダの違い」を列挙するに当たり「もし日本の外国人参政権問題とオランダのイスラム教徒問題を同じに扱う場合、それは何を持ってくくれるのか」という逆説的な問いが頭の中に思い浮かんだ。実はこの2つに共通しそうな概念が一つ思い浮かんだ。

ナショナリズム。

L.starが毎度のように使うマクニールの「世界史」では、今の欧州と中東の問題を「宗教的ナショナリズム」という単語で説明している。ナショナリズムとは「ネイション」という曰く説明しがたいが民族のようなものを中心に、エネルギーやリソースの集約的な利用を可能にしている何かである。そこで考えたのがネトウヨさんたちは「民族的ナショナリズム」に退行しているのではないのか、ということだ。退行?しかし何から?退行と言うからには、日本には民族的でないナショナリズムが存在していたことになる。

その問いに答えるために、ここから「ナショナリズム」という単語を拡大解釈して歴史をひもとき、L.starの一つの独自解釈を述べたい。独自解釈なので用語等のぶれがひどかったり、既存の用法と異なっている可能性が高いが容赦されたい。どのみちまだ近似値的なものであり、具体的に定量化されて示されているものではない。

かつて日本が一枚岩だった、そしてその幻想が失われつつある、いうことはあちこちで言われて久しく、改めて示す必要はないだろう。しかしその一枚岩とは何だっただろうというので、以下のようなものが思い浮かんだ。

  • マスコニュニケーションによるブロードキャスト化した議論

  • 親米資本主義

  • 大企業中心の年功序列終身雇用


一番上は典型的な国民国家の戦略であるからのぞくとして、しかし2番目と3番目も大企業中心と資本主義は相反しない類似した概念といえなくもない。そこで独自研究だが、戦後日本は「民族ナショナリズムによる国民国家である戦前から国民国家である部分を、大企業と官僚がそのまま継承した」というのをぶちまけてみたい。誰か同じ言説をしている人がいるといいのだが。しかしこれによって、大企業が日本で果たしてきた役割の多くを解釈可能なのではないかと思う。出世システムと社会的地位の一致、会社への強い服従の要求、そして転職の少ない新卒採用終身雇用などである。またマスコミや政府に対して大企業が強い支配/発言力を持っているといわれるのも、このような社会形態であれば全く納得のいく話である。

しかし大企業が日本の「ネイション」であったとするならば、それがやはり崩壊の危機に瀕しているのもまた事実なのではなかろうか。企業が「ネイション」であったかどうかはともかく、大企業が従前の能力を果たせなくなったことはわざわざL.starが指摘するまでもなくいくつかそういう説があるし、納得できる部分が多かろう。そこで大企業に代わるネイションを、と考えると

  • 大企業:経済面から精神面までをカバー、国際化しており世界中に存在。

  • 言語:日本国土以上の発展は望めない。

  • 領土:海洋国家であるため国境はほぼ不変。一部の島の領有権問題ぐらい。

  • 民族:日本民族はこれ以上の規模発展は望むべくもない。○○系日本人として増やせるのは移民程度。

  • 宗教:神道は日本民族以外に信者なし。仏教国は連携があまりない。

  • 文化:寿司・アニメ等を中心に現在拡大中。


となり、企業より明確に広いネイションを提示することができない。ここで欧米や中東では国家より民族や宗教が大きいケースがあるため、それらが受け皿になるのだ。しかし日本にはそれがないのが状況を難しくしている。文明は拡大するか崩壊するか停滞するかの3種類かしかありえないため、拡大が難しいということは停滞か崩壊か、ということになるからだ。通常勝者になるのは現在の状況にもっとも合理的な説明をできるものであり、現在のネイションに納得できない人がなにかを発見して新しい支持基盤に移動する、というのはすでに多数起こっており、それによって多数の少数派が生じている。以下にL.starが認識している例を挙げよう。

資本主義のありように疑問を感じた人たち


かつての新左翼である。彼らは60-70年代に安保運動を通じて活躍したが、結局多数派となってネイションを確立するまでの大きさを維持することはできなかった。今となっては、ソ連崩壊もあって共産主義はネイションたり得ないだろうと思う。

民族主義と宗教に再び関心を寄せた人たち


L.starは嫌韓ネトウヨをこのカテゴリーに入れているし、そういう意味で過去の自分がこのカテゴリーに属していたことを認める。彼らはマスコミや左翼の報道、隣国のありよう(反日)に疑問を抱き、それよりもずっと説得力のあるモデルを「発見」した。ネットに散見される愛国的なコピペがそれである。おもしろいのは麻生元総理の立場であり、彼はもともとそういう主張に近く、しかもマスコミから強い(しかも不当と思われる)弾圧を受けることによって民族主義的なヒーローの地位を手に入れていたと言ってよいだろう。おもしろいのは、その麻生を叩いたマスコミや民主党は敵、と見なされていることである。彼らが反日にいらだちを覚える中、民族をネイションの中心におくことで自説の強化に走ることは全く妥当な行動と思う。世界規模が民族の中に収まっていられないほど拡大し続ける中で、彼らが「民族」に退行しているのは、L.starとしては叩かずにいられない点である。いや、過去の自分と同じものを見て嫌悪を覚えているだけだ、といわれるとその通りかもしれないのだが。

民族と宗教の分離が明確ではない日本では、神道への回帰もこのカテゴリに入るのかもしれない。しかし、仏教という枠組みは見たことがない。宗教として、現在それだけの求心力を有していないと言うことだろうか。

国家連合など、国家ナショナリズムの拡大に求める人たち


現在のEUがとった道はこれである。また鳩山総理の「東アジア共同体」はここに分類されるべきであろう。他民族とのいざこざを棚に上げて併合しようというのであるから、当然民族ネイションの方々とはきわめて仲が悪い。個人的にはかつてのパクス・アメリカーナこそ拡大された国家(と資本主義)ナショナリズムの頂点であり、世界的にはこの点で新しい枠組みを必要としているのではないかと思う。しかしそれは日本だけでは決められない問題である。世界的な落としどころとして正しいが、日本としてこれを基盤とするのは難しいのではなかろうか。むしろ東アジアより、ミクロネシアの島国とのほうが理解を得やすいのでは(ただし経済的な問題は大きかろう)

現在の企業のありように疑問を感じた人たち


城繁幸の「若者はなぜ3年で会社を辞めるか」や梅田のシリコンバレー礼賛などが典型例であろう、現在の企業の主に非効率なところに焦点を当て、ネイションとして引き続き企業の役割を重視するが、その改善を促す勢力である。ただし、大企業システムは良くも悪くも非効率な部分とも強く結びついて存在しており、これの改善=現在の大企業社会を直接否定すること、それゆえに大きな反発もある。今頃蒸し返すのもどうかと思うが梅田の失敗は結局のところ自分の言説が他のネイションに対する不快感を巻き起こすことに気づけなかったからだと解釈可能である。

国民国家の実現母体としての企業に疑問を感じた人たち


労働運動の人たちや、反社畜、大企業の労働体制を批判するのはこのたぐいである。企業を直接否定しないが、しかし企業が不当に取り分を求めることをやめさせ、自分らしい生活をというものだ。これは当初上と同じものだろうと考えていた、しかし今日まとめていく上で違うものだろう、ということに気づいた。しかし現在の体制批判と改善を求めている点は同じであり、親和度は高いし、両方に同意する人すらいるだろう。ただ、ここから新しいネイションは見えてこないため、そういう意味では「反現在の企業」でまとめてしまっていいのかもしれない。

日本文化の発展に期待を寄せる人たち


世界に広まっている日本文化そのものをネイションと見なし、それの拡大を持って日本拡大と見なす考えである。ちなみに文化をネイションとなりうると見なすのは、さすがにL.starの新説というか珍説だろうと思う。問題はこういうもののうちどれがもっとも説得力を有するか、なので一人支持しても何一つ意味がない。そもそも寿司食うやつが日本の仲間、と単に見なすのは強引に過ぎる、というのは認めなければならないだろう。

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さてこのように考えると、大きな差異を感じるのはお互いに認識している「ネイション」が異なるからだ、ということになる。ちなみにL.starが開国派鎖国派と読んだのは、ネイションのサイズを現在より大きくとるか小さくとるか、ということでもある。

かつて外国人参政権のことを「アイデンティティの問題だ」と言われて頭をかしげたことがあって、それがずっとひっかかっていたが、なるほど確かにこれならアイデンティティの問題である。であるなら、なおさら彼らに対して「No」と堂々といえる。また「想像の共同体」で済ませられるものじゃない、と同様にコメントで指摘されたが、まさに「想像の共同体」の問題そのものであると堂々と反論できる。これは同時にL.starが探していた「救済の言葉」の理解に役立つものでもある。救済とは「ネイション」の確立によってもたらされる。これが分裂している間は、日本の閉塞感も続いていくのだろう。しかし、もっとも説得力と求心力を持ったものが次世代の日本を支える礎になるのだ。「ネイション」が先か、個別政策が先かは難しいところだろう。しかし少なくとも個人レベルでは「ネイション」を念頭に置いて行動でき、それが説得力を持つ結果をもたらしたなら追従者も増えるだろう。

この仮説は、あるいみ去年から参政権問題で、シリコンバレーに関する考えで、日本の今後のありようについて考え抜いたことの集大成だと考えている。むろんおおざっぱで、理論的裏付けにかけるのはその通りだろう。ただこれを文章にできたことで、自分の中にあったもやもやをずいぶんはき出せた。問題はこの仮説を元にどのような行動をとるべきかということで、そこはまあいろいろ考えているのだが次回以降と言うことで。

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