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三月十一日、あの日Twitterを見ていて日本に希望を感じた。そこには本当に「目の前の惨事を、懸命にみんなで助け合って乗り越えよう」というはっきりとした力があった。

しかし、その「力」はいつの間にか無くなってしまったようだ。日本はまた日常の分裂に戻り、平時のように政局が繰り返され、TLは反原発と原発推進が乱れ合うようになった。最近極端な意見ばかりを尊重する人をだいぶん切ったので私のTLだけはやや平時に戻ったが、Togetterとか見る限り、未だにそうでもないらしい。

しかしこの「反原発(or脱原発)vs原発推進」という論争は全く不思議だ。L.starの立場だけからみてもこんな感じである。

  • L.starを含む穏健的脱原発派(当面継続はやむなしだが時間をかけて脱原発)と言う意見がなぜか「推進派」あつかい
  • 反原発派の科学技術的に明らかな間違いを意見の問題点を指摘したら推進派扱い
  • 穏健的脱原発派と反原発派の言う「自然エネルギーへの移行」が何故か全然別物に見える
  • 今まで同じような意見だと思ってた人が何人も「転向」した(なぜかL.starの周りでは全員40歳以上)

といってもなにやら前もそういえばあったな、と言う気がしないわけでもないのだが。もちろんこれは一方的な意見であり、反原発派から見ると別の「不思議」があるのだろう。とにかくしかし個人的には尊敬までしていた人たちがあっさり転向したのを見て、「はていったいこれは何が起こっているのだろう」と頭をかしげるに至った。

で、考えた結果とりあえず辻褄が合う解釈が見つかった。そしてそれは結局また「ネイション」の問題に行き着いた。だから今回のエントリは如何にして日本が分断されたか、ということとその意味を論じることになる、「ネイションシリーズ」の最新作になってしまった。

相反しないのに対立する2つの意見

それをはっきりさせてくれた「反原発」と「穏健的脱原発」の意見を一つづつ出してこよう。

「反原発」のほうは村上春樹のカタルーニャ国際賞でのスピーチだ(翻訳は例えばここ)。ちなみに、村上春樹は確かに好きな作家だが、別に「転向者」の例ではない。昔からそういう、何というか「文明の持つ危うさ」というところにずっとフォーカスしている作家である。今回も(意見の相違を持つファンとしてはちょっと悲しいが)ごく当然の行動だと言えよう。

「穏健的脱原発」のほうはそれに対する馬場正博の反論文

村上春樹氏への手紙に代えて

だ。この文章は「イースター島」という単語と内容だけで、「文明崩壊」で著者ジャレド・ダイアモンド氏が開陳した彼のエネルギー・環境問題観をベースにしていると分かる人には一発で分かる代物で、L.starの価値観もそれをベースにしている。(本の)著者は環境問題については非常に熱心であり、彼がこの本を通じて投げかける価値観は1行で要約すると「資源の不足が急激な文明崩壊を招く。だからこそ我々は今ある資源を出来るだけ大事に使い、破滅を避けなければならない」というものだ。

この意見は反原発派の主張する「自然エネルギーの実現」と中期的(今後100年以内ぐらいか)には目標を同じくする。しかしこれが目標が同じであるにもかかわらず「原発推進」と言われることに、問題の本質がある。

じゃあこの意見の違いは何だろう。一つは原発を否定しているかしていないか。もう一つは文明の効率を否定しているかしていないか。大事なのは原発ではない。文明の効率だ。

村上春樹氏はおそらく全部分かった上で、そこであえて「非現実的な理想家として」文明を否定しに掛かったのだろう。その結果として、彼は原子力を否定した。有名な壁と卵の比喩で言うと、壁は「原発」などというつまらないものではなく、我々が恩恵に浴している「文明」であった。馬場氏はそれに乗って文明を肯定したのだ。

急性反原発症候群=屠殺場を見たショックでベジタリアンになる

これを手がかりにL.starは反原発に転向した人たちを「単に原発の恐ろしさに気付いた」と言うだけでなく、「原発事故の被害を見て科学を肯定し続けることに怖じ気づいた」と推測した。

科学による文明の進歩は、きれい事だけじゃない、という一言では生ぬるいほど罪深い。まさに馬場氏が指摘するとおり「血で汚れている」。その文明の血塗られた手が、同時に恩恵を施してきたのだ。こういうきつい現実に思い至ったとき、取るべき選択肢は「開き直る」「逃避する」「罪を意識しつつも辞めない」のだいたい3つである。卑近な、例えば「動物を殺して食べて生きる」と言う例で言えばこの選択肢は

  • 開き直って肉をがんがん食うどころが、道楽のためだけに殺しはじめたりする。
  • 自分の罪にうちひしがれ、ベジタリアンになる
  • 罪を自覚しつつも、殺された動物に感謝しつつ肉を食べる

となる。ちなみに上から「強硬的原発推進派」「反原発派」「穏健的脱原発派」である。分かってみれば何のことはない、突然反原発に転向した人たちの心理とは、と殺場を見学してその凄惨さにショックで肉を食べれなくなることと枠組み的には同じなのだろう。ただし、これらは思想的には基本的に等価で、そこには善悪も優劣もない。ここに行き着くと残りはわかりやすかった。

律儀なベジタリアンに「今野菜等が少ないからとりあえずあまっている肉を食べて、そのあと野菜の調達が出来たら野菜を食べればいいよね」という理屈は通用しない。

そしてこのような経緯を経てベジタリアンになったのであれば、野菜を食べるのは今まで肉を食ってきた償いとしてである。穏健的脱原発派は来る自然エネルギーを単に技術進化の結果として淡々と食べて文明が滅亡しなかったことに感謝するだけなのに対し、反原発派は自分たちの贖罪が神に認められた結果のように、楽園の到来のようにとらえるであろう。

科学文明を肯定する難しさ

この宗教的価値観のデメリットは、その「罪」が自分の思考の中に絶対的なポジションを占めてしまうことにより、客観的な思考を妨げることだ。他方メリットは、精神的救済をもたらすことである。科学文明が要求する、あるいはグローバル化がと言い換えても良いが、その本質は、絶え間ない闘争である。それは我々の生活を便利にしてくれるが、心を満たしてはくれない。

これは別に今回の原発事故に限ったものではなく、例えば医療界隈でもしばしば見られる行動で、西洋医学を信用せず代わりに代替医療に走ったりするのと同じことだ。また一概に全部科学不信になるわけでもなく、特定の分野(一般に専門でない分野が多い)だけ不信になる。

L.starは「科学」も「宗教」も、「自分にとってブラックボックスとしか言いようのないものをどうやって理解するか」という命題に答えるものである、と言う点で同じだと考えている。今は神だの精霊だのを使わないと正しさを担保できない宗教より、単純に数式と概念だけで説明できる科学の方が優勢であるが、2000年前にはそうではなかった。神だのなんだのという補助的概念を導入しない限り理解するは難しかっただろう。

しかし宗教はもっと包括的なシステムであり、宗教的救済という形で文明の罪を「許す」ことができる。科学はより理解に特化しているため、罪をそのまま受け止め続けるしか方法がない。それゆえ、科学の欠陥(常にどこかしこに存在している)は、宗教への道しるべになることがある。それをとどめることは出来ないのだ。

我々は科学の進歩に飽いて、心の救済を望んでいるのか

この「科学流思考」と「宗教的思考」の分裂は文明に依存して生きている我々にとって恐ろしい問題の一つである。科学重視という暗黙の合意こそが、我々の文明の進歩の鍵であり、分裂はその崩壊を意味するからだ。

先に紹介した「文明崩壊」では、食糧資源の不足が引き金となって文明崩壊を起こし、そのときには共食いのような恐ろしい行為まで行われ、規模としては激減、あるいは完全に滅亡して後生からは「栄華を誇っていたのに忽然と消えた」と評されることになる。このときに「精神的な支柱」という資源については何も語られていない(し、理論に乗せることも難しいだろう)が、ある種の相関があるだろうとは想像している。

例えばローマ帝国末期には蛮族との力関係の逆転等により国力が大きく乱れたが、内部では同時にキリスト教が勃興し、最後には帝国はキリスト教に乗っ取られた。理性的なローマ人は、キリスト教的な日本人の思うような宗教的価値観に勝つことは出来なかったのだ。そしてヨーロッパは暗黒時代になった。

科学を肯定できない人が増えるということは、それが原因にせよ結果にせよ、現状の文明の衰退のサインなのではないのだろうか。

追伸:

なお、これをみた反原発派の人は「お前(ら)の方がよっぽど宗教だ」と反論してくるのは想定の範囲内だが、L.starは反原発派以外も同様になにがしかの宗教観を持っていることは認める。なんとなれば、「殺された動物に感謝しつつ肉を食べる」こと自体を説く宗教もある。

ただ、自分の属する原発許容派をここまで客観的に見つめるのは困難だし、推進派に至っては最近はなりを潜めている。ために、その宗教観がどのようなものかという分析は難しい。やるのであればそういう派閥を客観視できる他芝の人におまかせしたい。。ただ、推進派の中にはオイルショック時に「このまま火力偏重していると国が滅ぶ」というショックを受けて「転向」した人が少なくないだろう、ということは何となく分かる。

そして本当は選択肢は4つあって「自覚した罪を誰かになすりつける」というのがある。ただこれはそもそも下劣な行動であるので、選択肢としては理解するがそれ以上の詮索はしない。

忙しくてブログも書く暇があまりなかったのだが、中国の脅威が日本を席巻していた。今更だがこれをネイションシリーズで料理してみたい。

日本では中国脅威論が優勢で、デモが行われたり、中国人観光客が襲われたり、一方中国の側も反日デモが激化したりしているようだ。L.starは基本的にグローバル主義者なので中国に関しては脅威論をそんなに支持していない(というか日本にとって本格的な脅威になる前に中国は崩壊するだろうと踏んでいる)が、ひとまず彼らが重大な脅威であるということを受け入れてみよう。

残念なことに、日本での反応を見るに脅威論に突き動かされている人たちは、その中国の脅威を偏狭なナショナリズム、排外主義やジンゴイズムで受け止めようとしている。これはもちろん一つのあり方である。しかし、およそ間違った解答に感じられる。

単刀直入に言おう。中国が言われているように中央集権で一枚岩の、世界最大のならず者国家だというのなら、その脅威から身を守るには日本を国際化するしかない。そんな強烈な国家は、おそらく日本どころがアジア全体を占領するに足る実力の持ち主だろうから、対抗するにはアジアだけじゃなく世界全体で当たる必要がある。

であるからして、中国が危険であればあるほど、日本だけで対抗できる敵ではないのだから外国のことを考えないといけない。ここで言う外国とは中国のことじゃない。韓国、台湾、ASEAN諸国、オーストラリアとニュージーランド、インド、中東、そして米ロといった国全部のことを指す。これらの大半または全部と良好以上の関係を維持し、中国包囲網を形成しなければ勝ち目はない。

このような強国の脅威に対抗して周りの国が連合を形成する、というのはインターリージョナリズムの一形態であり、珍しくはない。最近では戦争の脅威でこそ無いが、EUもアメリカ経済に押されて誕生した共同体である。今までのネイションの規模を大きく越える共同体が形成される要因は決して多くはないが、強い外敵はそれたりえる。もっとも他にも必要な要因はいっぱいある。上記で挙げたような国は米国を除けば覇権国家といえるだけの品格もリーダーシップも持ち合わせていない。頼みの米国は衰退する一方。正直に言って、日本ぐらいしか糾合できる主体がないようにすら思えるのである。

一方で日本がこれらの国を糾合するにはいろいろと問題がある。結局のところ日本は先の大戦の敗戦国で、恨まれているところには恨まれている。領土問題も存在している。そういうわだかまりを抱えている国は、どれほど中国が怖くても、なかなか日本がリードを取ることを了承はしないだろう。

これは逆に考えてみたらすぐ分かる。もし韓国の大統領が「中国の脅威に対抗するために日韓は協力が必要だ」と言い出したとして「でも独島は韓国領土だ」と次に付け加えるなら、納得できる日本人はまず居ない。韓国を日本側に加えるなら、竹島を放棄する覚悟が必要だろう。そうでなくても、そういう理由をわざと持ち出して、日本に様々な譲歩を求めるのは考えられる。

誤解しないでほしいのは、こう言うのは弱腰とは言わない。あくまで反中大連合の指導的地位という領土問題より遙かに大きな実質的な利益のために、些細な領土問題や歴史問題で譲歩するという、名目的な敗北を受け入れることだ。そうでないなら、そんな犠牲を払う必要はない。

例えば同じように第二次大戦の敗戦国でありながらEUで指導的な地位を維持しているドイツを見てみよう。彼らはナチスの肯定やホロコーストに対する反論を「法律で」禁じている。あるいは歴史的に見て北方領土や竹島よりも遙かに明確にドイツ領と見なせるはずの東プロイセンを放棄している。彼らは国家そのものが優れているのももちろんだろうが、それだけの犠牲を払っているからこそ、今の指導的な地位を得ているのである。そうでなければ英仏が「反省しないドイツの台頭」にさぞかし難色を示したことだろうし、EU樹立すら危うかったかもしれない。

そして、同じことは今まで日本だって歯を食いしばってやってきたのだ。それを今「弱腰だ」と近視眼的に非難せずに、そこから得られる利益がなんなのかという、もっと実務的な点に目を向けられないのだろうか。「でも民主党は」「でも管内閣は」という反論が目に浮かぶが、私は政府の話をしているのではない。あなた方一人一人の心構えを話しているのだ。

これは単にナショナリズムに傾倒しているネトウヨだけの話でもない。そもそもこういった国際化の構想は別に昔から珍しくもなく、最近では自由と繁栄の弧構想も、東アジア共同体もそのたぐいである。センセーショナルな問題ばかりに目がいって、そういう構想を支持し続けられなかったのは、結局のところ国民全員なのだから。

 

まとめると、反中という脅威が本物であるならば、それをナショナリズムで消化するのではなく、インターリージョナリズムに昇華しなければ対抗できない。だからこそ、今ばらばらになっているアジアをまとめる役を日本が果たす必要がある。そのためには、日本そのもの(国家および民族)がさらなる国際化を果たすとともに、いかにも不安定なアジアの国家群に対して日本が進んで譲歩しなければならないだろう。極端な話竹島を韓国に、北方領土をロシアに、尖閣諸島を「台湾」に譲るぐらいの覚悟が必要である。

国家どころがアジア100年の計のために日本が骨を折ってまとめあげる、それにはもちろん他にもたくさんの条件がある。圧倒的なリーダーや強固な基盤、軍事力などがあげられるだろう。一筋縄ではいかない大事業である。

しかしそれに踏み込む前に改めて問いたい。我々に、それを背負う用意ができているだろうか?それに「はい」と答えられることが、最初の第一歩だ。

いろいろ日本についてつらつら考えているけど、国際人たちに聞いてほしいこと。そして排外主義者の人たちにもっと聞いてほしいこと。でもやったとおり、結局日本人に足りないのは自信、とかそういう結論に落ち着きつつある。まず自信を持つためには自己暗示が必要なのだが、それが不足している。

やれ移民だのなんだの、と具体的に日本を強化するような政策アイデアはいろいろ出てきているから、それを実行すればいいのだ。どんな政策にもメリットとデメリットがある。とにかくメリットを重視してデメリットと戦い、もう駄目だと思ったらさっさとその政策は捨てる。

そういう果断さが求められているのだが、局所解にはまってしまっている日本にはそれができない。確かに日本は素晴らしい文化を持っていて安住できる地かもしれないが、そこから変われなければ沈むだけである。まあそんなことを言っても、みんな自信が無いから実行できない。これは政治家だけの問題じゃなくて、全員の問題だ。

たぶんそんな状態を脱するために必要だったのは、理論でもばらまきでも経済復興でもグローバリズムでもなく、自信の裏付けになるものなのだ。果たしてそんな都合の良い銀の弾丸があるのか、というとあるのである。イデオロギー、あるいは宗教。イデオロギーさえ確立されれば、あとのものは、経済も社会改革も自然とついてくるだろう。

イデオロギーが世界を席巻した例は何度もある。イスラム教やキリスト教は、いずれも世界的な役割を果たした。精神論とバカにする事なかれ。日本版シリコンバレーが成功しないたった一つの致命的な問題ではマクニールの独特の考察の話をしたが、彼は別に武器防具の話だけをしたのではない。宗教やイデオロギーも又、決定的なテクノロジーとして作用したと述べている。第一次世界大戦の集結を決定づけたのは、民族自決と共産主義の2つだったとまで言い切っている。

そんなことを「自信」と結びつけてエントリにしようと思ったのは最近ドイツのトリアーにいって、ローマ時代の遺跡とともにカール・マルクスの家にいってきたからなのだが、戦後という時代からの変化に戸惑っている今こそ、多数の迷える民衆の空白を埋めるイデオロギーの時代ではなかろうか。そして、イデオロギーを伝える役目としては、強力なコミュニケーションツールであるインターネットがある。

これは排外主義者としての「ネトウヨ」の成立過程を考えたときに興味深く思った点から来ている。彼らはネット上から自然発生し、判で押したように均質な発言ができる勢力を作り上げた。これは驚くべきことで、他の国では、排外主義にせよ宗教にせよ何にせよ、思想勢力が隆盛するにはそれを糾合できる指導層が不可欠である。ところがこのケースではそれがない。にもかかわらずある程度統率された行動力まで有しているのは驚く限りである。

実は黒幕が居るとか、未だ議席も持たないんだから隆盛の前段階に過ぎない、と言う可能性はある。でもネットによって新しい形のイデオロギーが発生しうることを示唆していると思うと興味深い。そうするともっと極端になると、例えばTwitterで運びうる140文字程度の計算され尽くした言葉が、Retweetによって伝搬して新しいイデオロギーの中心にさえなるのではないか、と思えるのである。

もちろんそうやって生み出されるのは殆どゴミなのだが、しかし人類の、あるいは地球の歴史などと言うのはそういうゴミのようなものまで含めての大量な挑戦の中から生み出されてきたのである。打率1厘なら大成功も良いところである。

そして、もしも本当にそんな言葉が現れるなら、それはもはや聖書やコーラン、「共産党宣言」に匹敵するような影響力を持つだろう。だから、以下のような特徴を備えているだろうと予言できる。

  • 個人の自信の礎になること。そのまま信じて実践することが、自分の成功の元であると確信できるようになること。
  • 現状と未来を説明できる。読んで「なるほど!」と思い、さらに「こうすべきである」という目標が明確になること。
  • 「中庸」を定義できること。「文化」と「文明」の関係にしろ、進歩のスピードにしろ、自分と個人の関係にしろ、極端にならず、現状の一番良い状態になるような形を説明できること。
  • より大きな「想像の共同体」を定義できること。多国籍企業の例などを見れば分かるが、もはや世界は国家の枠組みを超えたところで進行している。今の経済のありように合致した共同体を提案できること。
  • 悪者になるのができるだけすくないこと。以前の悪行はある程度リセットできること。「これから頑張ればまだ勝ち目はある」という思いを確認できること。

果たしてそこまで徹底的に研ぎ澄まされた内容を140文字にできるか?という問題はあるかもしれない。しかし思い返せば、かつての宗教とて、原理原則とて長い文章ではなく、民衆に記憶されたのは短いスローガンにすぎなかった。140字のスローガンなんて、長すぎるではないか。もちろんその言葉がスローガンにすぎないなら、その裏には膨大な思想が隠されているということでもある。

まあそういう意味ではタイトルは言い過ぎかもしれない。しかし、かつて出版が宗教革命に大きな役割を果たしたように、21世紀には21世紀のやり方で新しいイデオロギーが示されるのではないか、とは漠然と思う。その上でもしTwitterが有望な役目を果たすのなら、140字のスローガンが登場する、ということだ。

Twitterは200億tweetを達成したそうだが、逆に言うと200億回そういう試みがなされたとも言える。中にはどうしようもないのが99.99%だろうが、それでも200万は超えるのである。この100万回では効果が無かったが、次の1億回では何かそういう言葉が生まれないとも限らないのでは。そう考えると、今我々は本当に凄い時代に生きているのだな、ということを実感できるのではないだろうか。

久々にまたオピニオン系というか日本のありようについての内容に戻るけど、今日のお題はここから。

プログラミングが出来ないSE(システムエンジニア)がソフトウェア開発を指揮している?

いやべつによくあることだけど、でかい現場に行くと泣けてくるのも又事実。何故かというとソフトウェア業界はまだ未成熟で、設計や製造、見積もり技術が成熟していないからと言うのが一番大きい。その次に進歩が早すぎて、成熟する以前に先に行ってしまうこと。それらが相まって、この状況が悲劇になる。

L.starは、個人的にはプログラムができないSEが駄目とは思わない。もちろん自称プログラムが分かっているSEとかはたちが悪いが、SEに要求されるのはやはり違う能力であり、プログラマから叩き上げて良いものになるとは必ずしもいえない。というか「彼は技術は素晴らしいが管理は全然」というカウボーイプログラマのほうをむしろたくさん見てきた。SEとして駄目なやつは駄目、それだけのことだ。

しかしそれ以前に何かおかしい、と思わないだろうか。しきりに「ゼネコン化」や「多重下請け構造」という言葉が出てくる。

というのも、我々が信じていた年功序列終身雇用モデルというのは、平社員から主任、管理職、課長部長を経て最後は社長になることではなかったか。確かにコンピューター業界にはそれがない。孫請けソフトハウスは永遠にコーディングであり、天下の大手SIer様は永遠に設計や工程管理である。これでは就職した時点で職能が決まる、企業カースト制度である。

というわけでネイションシリーズの第6回である。最初は軽く「終身雇用って叩き上げ重視じゃなく、系列関係を固定するカースト制度だよね」という話で終わらせようとしたら、どんどん考察が深くなって、最後にはとんでもないところまで言ってしまった。

振り返ると、戦後日本社会は元々そうであった。系列と呼ばれる構造化した企業体があり、士農工商下請けとまで揶揄された。(高いカーストの)大企業に入るために、必死に受験勉強して良い大学に入る。

年功序列における「出世」をこの枠に当てはめようとすると、「年功カースト」というものも存在したに違いない。つまるところはカースト内カーストだが、何らかの評価制度により、同年代でより高い序列を占めることが重要なことになる。出世レースに乗り続けることで、どんどん企業カーストの中の枠組みの中の、さらに高いカーストを占めることができる。高い企業カーストのさらに高い地位、例えば銀行の頭取や新聞社の社長などは、それこそ神に等しい存在になる。

家族のカーストは家長のカーストで決まるため、出世をないがしろにして家庭を顧みる必要などない。全てを犠牲にしてでもやる価値のあるものだ。

そして企業カースト制度を成り立たせるのに必要なのが、新卒重視・年功序列・終身雇用である。新卒重視は生まれのカーストを決めることである。学歴と、受験勉強を勝ち抜いたと言うことが、その基礎となる。次に年功序列は序列カーストを明確にするために必須である。厳格に決められたレールを、決められたタイミングで上っていくことを強調することが必要だ。例えば定年間際の課長と、同期一番乗りの課長は、一見同じに見えて全く違うカーストでなくてはならない。そして終身雇用は、カーストの固定化を明示するためにも必須である。芸能人やスポーツ選手、転職をくりかえすような輩は不可触賤民である。

元々のインドのカースト制は生まれてから死ぬまでだが、この企業カースト制度は、人生の節目節目において、カーストの選択が目に見えて行われるところが優れている。このイテレーションを通じて現世利益を得られることで、誰もが信じることができるだろう。敢えてソフトウェア業界の用語を当てはめるなら、「アジャイル輪廻」である。入学、入社、出世・・・すべてカーストというかインド的宗教観における「輪廻転生」なのだ。

改めて考えてみると、

日本のナショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説

にて、日本の企業ネイションは国民国家をそのまま引き継いだもの、と言う仮説をしたが、訂正する。企業ネイションは存在したが、それは戦前のような半端なものじゃない。こいつはカーストによる分業制度を確立し、あらゆるリソースを企業のために喜んで継続的につぎ込むような巨大なシステムだった。

しかも、かつて日本で、特に江戸時代に定着していた、士農工商身分制度や儒教は、これを後押しするような形で働いた。つまり、日本の古いシステムとも合致したわけだから、定着も用意だろう。

この企業カースト制度というのは恐ろしいほど効率が高い。あらゆる生産活動を企業の利潤に結びつける強烈なインセンティブがある。こんなのが相手だったら、たとえ覇権国家でも客観的に見て勝てる気がしない。

そして、これを崩壊させたのは不況ではなく好況だろう。教育にコストをかけられるようになり、能力より学歴を重視するような教育がはやることによってカーストの意義が薄れ、大企業が求人を増やすことでバランスを崩した。生活が豊かになることで女性の社会進出が起こり、男性に育児や家事の分担を求められるとともに、社内カースト競争につぎ込めるリソースは減った。

これらは全て国民の生活が向上した必然の結果でありながら、その母体である企業カースト制度を弱める方向に強く働くから、日本は崩壊した。思えばバブルは単なる経済破綻だけではない。企業カースト制度の崩壊のクライマックスだ。新卒採用システムが狂ったことで、誰もが努力して偉くなれる企業序列カーストは成り立たなくなったのは言うまでもない。

そして今我々は、その残滓として残ったカースト制度に苦しんでいる。苦しんでも苦しんでも、非効率になってしまった制度は救済をもたらさない。

再び以前のエントリに戻って

意義のある「労道」がしたいー21世紀の日本で宗教改革の波が

は、「労道」の宗教性を指摘したまでは良かったが、その宗教性の本質を指摘できてなかった部分が片手落ちであろう。しかし、この企業序列カースト制度を踏まえれば、もう少し踏み込んだ分析ができるだろうと思う。ポイントはカーストを再興するか、崩壊させるかというところだ。

さて書いている間に長くなってしまったので、ひとまず前編としてここで筆を置きたい。後編では企業系列カースト制度がもたらした人生バランスを考察しつつ、解雇規制や既卒差別禁止による「カースト制度崩壊」と、そして逆にカーストの枠組みを温存しつつ新しいカーストを根付かせるということについて検討したい。

書き始めたら自分だけが止まらない「ネイション」シリーズの第5回。思いついた中でL.starが肯定的に考える「ネイション」は全部紹介し終わったと思うので、最後にこれはだめだ、採用したくないなと思っていた重要なものを紹介したい。それは「反○○」である。 これをナショナリズムと呼んで良いかは疑問があるが、実際ナショナリズムのように働くからそのように扱いたい。

このメカニズムはごくシンプルで「○○憎し」がそのまま共有されて共同体の原則になるものである。○○は好きなものを入れていただきたい。代表的なのは「反米」「反日」「反中」などの国家民族に対するもの、「反共」「反資本主義」のようなイデオロギー、「反キリスト」「反イスラム」の宗教、「反民主」「反マスコミ」のような具体的権力に対するもの、いろいろである。

しばしば「共同体は敵がいなければ団結できない」というような言い方がされるが、それがこの「反○○」である。反証は孤立した文化が安定して存在し続けられた例がいくつも簡単に見つかる。鎖国時代の江戸時代にいったいどんな敵がいたのだろうか。むろん理論上は存在しているが、そんなのを民衆が認識できていたとはおよそ考えづらい。このようなケースでは民族、経済、文化などがその共同体全体を支えるだけの十分な力を持っていたためである。ただあまりにも歩みが遅く、一見その進歩や効力が分かりづらいものである。

しかし憎悪は違う。憎悪は明確な感情のため、共有がきわめて簡単である。簡単に燃え上がって、遙かに巨大な勢力に成長する。他のネイションとも補完的に働き、その勢いを増幅する。 欠点はもっと巨大である。中心にあるものが憎悪であるが故に簡単に暴走するのである。近代以降でナショナリズムが最初に現れたのはフランスの市民革命であることはすでに一致を見ているが、そのフランス革命からして、憎悪故の暴走から免れることはできなかった。

例えば「反社畜」と「労道再興」という2つの勢力は、どっちも現在のあまりよろしくない大企業の労働形態の問題について共闘することが可能だ。しかし企業との戦いに勝利したあとはどうなるだろう。「やる気のある人が本当に自発的に死ぬほど働く」という命題で対決することになるだろう。さらに「反権力」も上記2つと共闘が可能であるが、これはもっとやっかいで、勝利した「反社畜」と「労道再興」は、勝利した時点で権力に変わる。一見強力な「反○○連合」は、このようにあっさり瓦解する。

日本でこの種の図式が一番よく見られるのはマスコミで、彼らは(常にではないが)反権力的な行動を取る。だから野党にしろ若手にしろ、権力のまだ無い人なり団体を持ち上げ、上昇するのを助ける。しかしその人なり団体が権力者になるともうそれは反対する相手、権力の対象である。だからあの特有の「持ち上げて落とす」という、一見すると徹底しない奇妙な行動は、反権力という明確な、一貫した行動軸がある。 こんな感じなので、暴走例はあまりにも多いし、それがどれだけの悲劇をもたらしたか説明は必要ないだろう。

そもそも、敵がいなくなるとどうなるか?巨大な敵を倒した連合勢力がその後空中分解した例は反ナポレオンで一致して戦ったヨーロッパにしろ、反ペルシアで戦ったギリシャ連合軍にしろ、歴史の常連である。あるいはその力を維持するために別の敵を探し出す。

長期にわたって成功した文明というのは、どれも成功するだけの要素を多数併せ持っていて、且つ欠点は非常に少なかったはずなのである。それは芸術的とでも言うべき代物であり、偶然だけで作り出せるほど簡単なものではない。簡単に暴走をするような旗印では、そのような微妙な着地点を見いだすための精密さを致命的に欠くのだ。だから長続きもまず期待できない。

我々は、「ナショナリズム」の力を利用するときに、同時にこのような暗黒面とも向き合わないとならないと言うことを心すべきである。L.starがその避け方を教えられるほど良くできた人間だとは全く思わないが、個人的には常に何も「否定」せずに、何かを肯定するだけで正しい道筋を一つ以上示すことができるか、と言うことに指針をおいている。前4回のどれも、その点は注意深く考えたつもりである。

否定と言う行為は駄目だ、という否定行為を行う逆説的なエントリに見えるが、言いたいのは実は「何かを肯定しよう」ということである。他人を否定するのは簡単だし、理由なんていくらでも見つかる。でもそれは罠だ。何かをなしたいと思うなら、それを廃して自分の道を見つけなければならない。失敗しても良い、気付いた時点で戻ればいいのだ。

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