三月十一日、あの日Twitterを見ていて日本に希望を感じた。そこには本当に「目の前の惨事を、懸命にみんなで助け合って乗り越えよう」というはっきりとした力があった。
しかし、その「力」はいつの間にか無くなってしまったようだ。日本はまた日常の分裂に戻り、平時のように政局が繰り返され、TLは反原発と原発推進が乱れ合うようになった。最近極端な意見ばかりを尊重する人をだいぶん切ったので私のTLだけはやや平時に戻ったが、Togetterとか見る限り、未だにそうでもないらしい。
しかしこの「反原発(or脱原発)vs原発推進」という論争は全く不思議だ。L.starの立場だけからみてもこんな感じである。
- L.starを含む穏健的脱原発派(当面継続はやむなしだが時間をかけて脱原発)と言う意見がなぜか「推進派」あつかい
- 反原発派の科学技術的に明らかな間違いを意見の問題点を指摘したら推進派扱い
- 穏健的脱原発派と反原発派の言う「自然エネルギーへの移行」が何故か全然別物に見える
- 今まで同じような意見だと思ってた人が何人も「転向」した(なぜかL.starの周りでは全員40歳以上)
といってもなにやら前もそういえばあったな、と言う気がしないわけでもないのだが。もちろんこれは一方的な意見であり、反原発派から見ると別の「不思議」があるのだろう。とにかくしかし個人的には尊敬までしていた人たちがあっさり転向したのを見て、「はていったいこれは何が起こっているのだろう」と頭をかしげるに至った。
で、考えた結果とりあえず辻褄が合う解釈が見つかった。そしてそれは結局また「ネイション」の問題に行き着いた。だから今回のエントリは如何にして日本が分断されたか、ということとその意味を論じることになる、「ネイションシリーズ」の最新作になってしまった。
相反しないのに対立する2つの意見
それをはっきりさせてくれた「反原発」と「穏健的脱原発」の意見を一つづつ出してこよう。
「反原発」のほうは村上春樹のカタルーニャ国際賞でのスピーチだ(翻訳は例えばここ)。ちなみに、村上春樹は確かに好きな作家だが、別に「転向者」の例ではない。昔からそういう、何というか「文明の持つ危うさ」というところにずっとフォーカスしている作家である。今回も(意見の相違を持つファンとしてはちょっと悲しいが)ごく当然の行動だと言えよう。
「穏健的脱原発」のほうはそれに対する馬場正博の反論文
村上春樹氏への手紙に代えて
だ。この文章は「イースター島」という単語と内容だけで、「文明崩壊」で著者ジャレド・ダイアモンド氏が開陳した彼のエネルギー・環境問題観をベースにしていると分かる人には一発で分かる代物で、L.starの価値観もそれをベースにしている。(本の)著者は環境問題については非常に熱心であり、彼がこの本を通じて投げかける価値観は1行で要約すると「資源の不足が急激な文明崩壊を招く。だからこそ我々は今ある資源を出来るだけ大事に使い、破滅を避けなければならない」というものだ。
この意見は反原発派の主張する「自然エネルギーの実現」と中期的(今後100年以内ぐらいか)には目標を同じくする。しかしこれが目標が同じであるにもかかわらず「原発推進」と言われることに、問題の本質がある。
じゃあこの意見の違いは何だろう。一つは原発を否定しているかしていないか。もう一つは文明の効率を否定しているかしていないか。大事なのは原発ではない。文明の効率だ。
村上春樹氏はおそらく全部分かった上で、そこであえて「非現実的な理想家として」文明を否定しに掛かったのだろう。その結果として、彼は原子力を否定した。有名な壁と卵の比喩で言うと、壁は「原発」などというつまらないものではなく、我々が恩恵に浴している「文明」であった。馬場氏はそれに乗って文明を肯定したのだ。
急性反原発症候群=屠殺場を見たショックでベジタリアンになる
これを手がかりにL.starは反原発に転向した人たちを「単に原発の恐ろしさに気付いた」と言うだけでなく、「原発事故の被害を見て科学を肯定し続けることに怖じ気づいた」と推測した。
科学による文明の進歩は、きれい事だけじゃない、という一言では生ぬるいほど罪深い。まさに馬場氏が指摘するとおり「血で汚れている」。その文明の血塗られた手が、同時に恩恵を施してきたのだ。こういうきつい現実に思い至ったとき、取るべき選択肢は「開き直る」「逃避する」「罪を意識しつつも辞めない」のだいたい3つである。卑近な、例えば「動物を殺して食べて生きる」と言う例で言えばこの選択肢は
- 開き直って肉をがんがん食うどころが、道楽のためだけに殺しはじめたりする。
- 自分の罪にうちひしがれ、ベジタリアンになる
- 罪を自覚しつつも、殺された動物に感謝しつつ肉を食べる
となる。ちなみに上から「強硬的原発推進派」「反原発派」「穏健的脱原発派」である。分かってみれば何のことはない、突然反原発に転向した人たちの心理とは、と殺場を見学してその凄惨さにショックで肉を食べれなくなることと枠組み的には同じなのだろう。ただし、これらは思想的には基本的に等価で、そこには善悪も優劣もない。ここに行き着くと残りはわかりやすかった。
律儀なベジタリアンに「今野菜等が少ないからとりあえずあまっている肉を食べて、そのあと野菜の調達が出来たら野菜を食べればいいよね」という理屈は通用しない。
そしてこのような経緯を経てベジタリアンになったのであれば、野菜を食べるのは今まで肉を食ってきた償いとしてである。穏健的脱原発派は来る自然エネルギーを単に技術進化の結果として淡々と食べて文明が滅亡しなかったことに感謝するだけなのに対し、反原発派は自分たちの贖罪が神に認められた結果のように、楽園の到来のようにとらえるであろう。
科学文明を肯定する難しさ
この宗教的価値観のデメリットは、その「罪」が自分の思考の中に絶対的なポジションを占めてしまうことにより、客観的な思考を妨げることだ。他方メリットは、精神的救済をもたらすことである。科学文明が要求する、あるいはグローバル化がと言い換えても良いが、その本質は、絶え間ない闘争である。それは我々の生活を便利にしてくれるが、心を満たしてはくれない。
これは別に今回の原発事故に限ったものではなく、例えば医療界隈でもしばしば見られる行動で、西洋医学を信用せず代わりに代替医療に走ったりするのと同じことだ。また一概に全部科学不信になるわけでもなく、特定の分野(一般に専門でない分野が多い)だけ不信になる。
L.starは「科学」も「宗教」も、「自分にとってブラックボックスとしか言いようのないものをどうやって理解するか」という命題に答えるものである、と言う点で同じだと考えている。今は神だの精霊だのを使わないと正しさを担保できない宗教より、単純に数式と概念だけで説明できる科学の方が優勢であるが、2000年前にはそうではなかった。神だのなんだのという補助的概念を導入しない限り理解するは難しかっただろう。
しかし宗教はもっと包括的なシステムであり、宗教的救済という形で文明の罪を「許す」ことができる。科学はより理解に特化しているため、罪をそのまま受け止め続けるしか方法がない。それゆえ、科学の欠陥(常にどこかしこに存在している)は、宗教への道しるべになることがある。それをとどめることは出来ないのだ。
我々は科学の進歩に飽いて、心の救済を望んでいるのか
この「科学流思考」と「宗教的思考」の分裂は文明に依存して生きている我々にとって恐ろしい問題の一つである。科学重視という暗黙の合意こそが、我々の文明の進歩の鍵であり、分裂はその崩壊を意味するからだ。
先に紹介した「文明崩壊」では、食糧資源の不足が引き金となって文明崩壊を起こし、そのときには共食いのような恐ろしい行為まで行われ、規模としては激減、あるいは完全に滅亡して後生からは「栄華を誇っていたのに忽然と消えた」と評されることになる。このときに「精神的な支柱」という資源については何も語られていない(し、理論に乗せることも難しいだろう)が、ある種の相関があるだろうとは想像している。
例えばローマ帝国末期には蛮族との力関係の逆転等により国力が大きく乱れたが、内部では同時にキリスト教が勃興し、最後には帝国はキリスト教に乗っ取られた。理性的なローマ人は、キリスト教的な日本人の思うような宗教的価値観に勝つことは出来なかったのだ。そしてヨーロッパは暗黒時代になった。
科学を肯定できない人が増えるということは、それが原因にせよ結果にせよ、現状の文明の衰退のサインなのではないのだろうか。
追伸:
なお、これをみた反原発派の人は「お前(ら)の方がよっぽど宗教だ」と反論してくるのは想定の範囲内だが、L.starは反原発派以外も同様になにがしかの宗教観を持っていることは認める。なんとなれば、「殺された動物に感謝しつつ肉を食べる」こと自体を説く宗教もある。
ただ、自分の属する原発許容派をここまで客観的に見つめるのは困難だし、推進派に至っては最近はなりを潜めている。ために、その宗教観がどのようなものかという分析は難しい。やるのであればそういう派閥を客観視できる他芝の人におまかせしたい。。ただ、推進派の中にはオイルショック時に「このまま火力偏重していると国が滅ぶ」というショックを受けて「転向」した人が少なくないだろう、ということは何となく分かる。
そして本当は選択肢は4つあって「自覚した罪を誰かになすりつける」というのがある。ただこれはそもそも下劣な行動であるので、選択肢としては理解するがそれ以上の詮索はしない。