失われた20年で日本人が失ったのは「余裕」


久々に@Koshianに援護をもらったが、本文と微妙な引用部分はさておき、余裕のないのが今の日本人の問題点である、という指摘は全くそのとおりであるとL.starも思う。日本人は決して劣っているわけではない。決して他人に冷たいわけでもない。

しかし例えばベビーカー談義で「ベビーカーは都心に来るな」などと欧米なら確実に問題発現になって共同体から排除されかねないような暴言も、東京の混み具合を見れば霞んでしまう。あの大量の人ごみでは、どれだけ子供が尊かろうがそれを気遣うのは不可能だ。そんな余裕はどこにも無いのだから。金銭的なものにしてもこのデフレである。皆が途方に暮れてしまうのも宜なるかなである。

 

さてそんな日本人に余裕をもたらすことのできるものとは何なのか?という答えは、マクロにはいくつかある。全体のパイを増やす(例えば侵略とか)のもひとつだが、現在ではまともな選択肢とはいいがたい。では他には?というところだが、ここでは寓話的に同様に余裕がなくなって崩壊したが、それを乗り越えたあるテクノロジーの話をしてみたい。コンピューターのCPUの話だ。

15年ほどさかのぼって、Pentium時代から始めてみようか。思えばこの時代はまだまだ牧歌的であった。競合もいくつかいたが、動作周波数もせいぜい66-200MHzと今では考えられない低さである。実際、このころまでは比較的低消費電力で、当時のハイエンドデスクトップのCPUですら、今のノートPCに及ばないぐらいであった。この様相が変化するのが、次のPentiumII(andIII)-Athlon時代だ。スーパーパイプライン構造を武器に、どんどん動作周波数は伸びていき、ついには1GHz にまで達した。それとともにどんどん消費電力も増した。そして動作周波数はどんどん独り歩きを始め、次第にメガヘルツとは性能の指標となり、さらにはマーケティングのためにも重要な指標となった。メガヘルツバブルの到来である。

メガヘルツバブルの頂点にたったのがIntelのPentium4だ。20段という当時にしてはとんでもないパイプラインの深さを武器に、圧倒的に高い動作周波数を誇った。当初1.4GHzで登場したが、次第に動作周波数を高め、第二世代のNorthwoodでは3GHzに届かんばかりであった。そして第三世代のPrescottが登場する。

Prescottはそれはそれで素晴らしいCPUであり美点もあったのだが、この頃から問題になったリーク電流に対処しきれず、消費電力の著しく高いCPUになってしまった。最終的には4GHzを目指し、さらにその次の世代で5GHzを目指すとしていたその野心的な試みは、あまりに高い消費電力に耐え切れず崩壊した。

そして、メガヘルツバブルは崩壊した。対抗馬だったK8=Athlon64は、そこまで高周波数狙いではなく、すでに「モデルナンバー」とやらいうそれっぽい、たまたま動作周波数のPentium4と似たような性能になるように選ばれた数字で表されていたので、崩壊を免れた。このあとのしばらくはAMDの輝かしい時代、Intel冬の時代になる。

この教訓は「高消費電力、高動作周波数」というメガヘルツバブルモデルは、結局のところ長期的にはうまく行かなかったということだ。そのあとはそこそこの消費電力、バランスの良い動作周波数でまずまずの性能、というところに落とし所が動いた。別にリーク電流の話だけではなかった。PCの集積密度の高いデータセンターでは排熱の問題を生み出しており、十分に集積できない課題があった。だから、IntelがPrescottをうまく作っていたとしても、それは時間の問題だったのだ。

でもそれでもあの時、みんなメガヘルツという指標を信じていた。わずかでも高い動作周波数を誇るCPUに大枚をはたいた。血眼になって定格より高い動作クロックで安定するロットを調べあげたりした。あのとき、メガヘルツは幸せの指標と思われていたのだ。

翻って我々の生活を見てみよう。とにかく努力しろ、金稼げと功成り遂げた人は言う。若いころの苦労は買ってでもしろ、無駄にならないから、という。しかし、努力の量は、稼いだお金は、本当に幸せの指標なのだろうか。それらは確かに一定の幸せを手に入れる役に立つし、疎かにすべきものではない。でも一方で、それはメガヘルツのようなまやかしの指標ではないか、と感じずにはいられない。

それどころが、今となってはメガヘルツはコンピューターマニアにとってもそれほどのものではなくなってきている。利用できる携帯が多様化し、携帯性とバッテリーの持ちなど、使うための指標が変わってきたためだ。4GHzで動作するCPUを積んだ古いデスクトップと、1GHz(推定)のCPUを積んだiPhone5とでは、どちらが幸せだろうか?そこではメガヘルツはもう何の役にも立たない。

ちなみに、メガヘルツバブルの崩壊後、CPU業界はかなりトレンドを変えた。消費電力とクロックのほどほどのバランスはすでにあげたが、マルチコア化、GPUの統合といった、単独CPUだけでは計れない方向に舵をとっている。マルチコア化は夫婦共働きを想起させる。例えばこれは現代でも、同じ年収600万円なら夫が年収600万の仕事を見つけるより、夫婦で300万円づつ稼ぐほうが難易度が低い、といった形で適用可能である。あるいはGPUを始めとする単機能ユニットの活用は、ワークシェアリングに似ている。

長くなってしまったが総括すると、結局全体的な効率を上げるために、個人個人がより効率の高い行動を取ること、という解決策が重要だ、ということが言いたかった。その上でより全体負荷の低いモデルを採用することということだが、それ以上に我々の心のなかにある間違った指標を取り除くことが大切だ、と言いたかった。我々の心のなかにあるメガヘルツ、それは我々が失われた20年で捨てられなかった古い価値観なのだ。