グーグルで最も出世した日本人が吠えた!国籍、人種は無関係。真に戦えるグローバル人材の必要条件はこれだ!
という記事。もちろん村上氏はいろいろ良いことを言っていて非常に参考になるし事実なのだが、一点だけ「なんでこういう成功者はいつも同じ間違いを口にするのだろう」と思うことがある。
今の日本の大学生の多くは日本の教育制度の犠牲者である。人口減少で大学は全入時代を迎え、“極度の詰め込みによる受験戦争を勝ち抜くと言う”経験をしたものが昔に比べて極端に少なくなっている。知識が詰め込まれていないところに創造力も個性もない。芸術や音楽やスポーツだって知識の詰め込みが脳や肉体にないといいパフォーマンスはできないし、いいものかどうかの評価さえできない。
ここだ。
脱ゆとり?とんでもない!ゆとり教育はこれから大成功する ― 日本の教育に効率と多様性を
などでも論じたが、フォアグラのように単に知識を詰め込むだけの20世紀型詰め込み教育など、もはや何の価値もないと信じている。
もちろん彼の文章には正しいところもいくらもある。いつも10000時間の法則などを例にとって言うとおり、継続的な、しかも半端でない量の努力の必要性は間違いない。努力無いところに成功はない。しかしその努力の源が詰め込み教育だろうか。もし本当にそう信じているのなら、村上氏はたぶん何も分かってないのだろう。重要なのは詰め込まれる事実ではない。
強制的に詰め込むのはいろいろな弊害もある。それ自体が悪い体験になり得ると言うことだ。そうなるとせっかく詰め込んだ経験も「封印したい過去」になってしまい、全くの無駄になる。今の悩める若者を見ていると、フォアグラのように詰め込まれた知識を持ちながらも、詰め込みに対するトラウマに悩んでいるようにしか見えないのである。
教育は単に詰め込んで身につくものではない。詰め込むだけならフォアグラを作るときのように流し込むだけ。それで作れるのはせいぜい脂肪肝。それを咀嚼し、消化し、吸収していくことで初めて力になり、筋肉になる。その詰め込んだ知識を咀嚼する力こそ、自分の心の中からわき出る「やる気」である。これ無しにはどんな詰め込みも無駄である。
そう、本当に力のある人材とは、自らやる気を発揮できる人材である。以下の文章は、そういう人材の有り様をもっと端的に表している。
優秀なプログラマを見分ける方法
良い指標:
- 技術への情熱
- 趣味としてのプログラム
- お勧めしたい技術的なテーマについて話したがる
- 意義深い(そしてしばしばたくさんの)個人的な長い期間のプロジェクト
- 独学で新技術を学ぶ
- 様々な使い道において、どの技術が良いか意見してくる
- 「正しい」と彼が信じてない技術で働くというアイデアをひどく嫌がる
- 明らかな賢さ 様々な話題ですごい会話ができるような
- 大学や仕事以前にプログラミングを始めていた
- 履歴書レーダーにひっかからない隠れた「氷山」(大きな個人的なプロジェクト)がある
- 関連性のない技術への幅広い知識(たぶん履歴書には載らない)
自ら率先して学び、実践し、成長する様が見事に表現されている。これはL.starが自らそうなることを望み、かつ自分に課している技術者像そのものである。実践できていると信じたいが。
村上氏がそういう「やる気のある人材」であったことは、彼の経歴その他から見ればほぼ疑いのない事実である。にもかかわらず彼のような名実ともに成功した人材の多くが「やる気」の存在を知覚できてないのは何故なのか、というのはいつも疑問に思う。
たぶ一つにんやる気というものが彼らには当たり前すぎるのだろう。しかし世の中の大半の人たちは「やる気」を持つのにすら四苦八苦する有様である。そのようなずれを認識せずになされるアドバイスは「たまたまやる気を持ち得た人材だけが成功する」というモデルにしかなりえない。そりゃ「努力しろ」という言葉が届くはずはない。
もう一つは「努力」と「苦労」を同一視したがる風潮だろうか。つらかった「苦労」の正当化のために「結果」を用いるとするなら、それはつまり苦労が無ければ努力はない、ということになる。昔koshianが
■自分と同じ苦労をしなくていい人を見るとキレる人々
なんてのを書いていたが、まさにそういうことだろう。
努力することは、もちろん誰でも出来ることではあるが、必ずしも誰もが同じ方法で出来るものではない。
でも書いたが、人それぞれ努力出来ない背景や環境や事情があり、それらが阻害要因として立ちふさがる。だからこそ、努力の成果を最大化するためには、そのような事情を勘案したより最適化された手法が必要となるのだ。単純な、画一化された詰め込みなどでは断じて無く。そもそもそんなに画一化した訓練を大量にこなすことが重要なら、セ・リーグは毎年広島東洋カープが優勝しているはずじゃないか。
最近「努力しないと駄目」というのはノマド批判の文脈で頻繁に使われるが、実際に大抵のノマド批判者よりノマドと呼ばれる人たちのほうが努力しているのは、個人的には何ら驚きではない。なぜならノマドにとって、ノマドであることとは自分に最適化された努力手法を実践する場だからだ。それが本当に適切か、万人に通用するかとかいうのは別の話だし議論の余地も大きいだろうが、少なくともその試みは賞賛されてしかるべきだろう、と思うのだが。
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