最近もてあます土日は美術館に出向いたりしている。日本ではあまり行かなかったが、ヨーロッパに来てから旅行ついでに行く機会が増えた。良くできた美術館に行くのは楽しいもので、そこには「作品」という芸術があり、そしてそれ以上のものがある。それは巧妙な配置だ。

巧妙に配置された作品群は、単なる作品の枠を越え、そこに流れる例えば歴史の流れであるとか、作品が成立した時代の持つバックグラウンドであるとか、作者の感情や意図を肌で感じさせてくれる。もちろんそれらは机上で学べるものだろうが、やはり感じるのはまた違う。

個人的に一番感心したのはオランダにあるクレーラー・ミュラー美術館で、あそこは写実主義が唐突に印象派に移行する、素人には全く理解できない流れを巧妙に見せてくれる。それは偉大な芸術家の単独の作品だけでは決して分からない、編集という隠れたいぶし銀の仕事である。

 

編集と言えば、ネット界隈でも2つの編集芸術が流行っている。2chまとめサイトとTogetter。

最近とくに2chまとめ系は偏向で嫌われ(アフィによる金儲けも言われるがそっちはとりあえず置いておく)叩かれることも多い。しかし、そういう意見を見ていていつも馬鹿馬鹿しいと思う。編集とはそれ自体が主体を持った芸術表現であり、芸術表現とはすべからく偏向しているのだから。そういえばマスコミはもっと偏向報道しろなんてのも書いたが。

まあたしかに管理人自体が「これは単なる編集ですから意見ではありません」と言い訳しているのは実際見苦しい。彼らが有名管理人として認められているのは、その編集の腕を世に認められているからであり、そのテクニックの本質を知らないはずがない。いや本当に理解していないのかも知れないが、だとすれば驚くべき純粋無垢さである。まあそれを言うと「偏向だ!」と叫ぶ人たちの純粋さも驚くべきだが。

そうやって純粋であるふりを装うのは本当は良いことではない。そういう感情はだいたい善悪二元論に偏り、他人に悪のレッテルを貼り結論を強要する。ところが、現実の落としどころはだいたいにして二元論ではなく、泥臭い合意形成の結果である。それをうまくやるのはむしろ純粋な善人ではなく、複雑な偽悪主義者である。実際善人はつきあってつまらないが、偽悪趣味は現実的で面白いのが多い。

 

いずれにしても、様々な表現形態が増えることは、個人的にはとても良いことだと思っている。もちろんそれによって粗悪な表現が増えたことも確かだ。しかし底辺層はフィルタリングすれば良い話である。TwitterのRT数にしろはてブにしろ、そういうメカニズムを利用すれば、変なのは全部ではないがそれなりに排除できるわけだし。最近はcrowsnestが気に入っている。間違っているが人気、というものはそれはそれでネタとしてありがたいものでもあるし。

あいつは気にいらんというまえに、気に要らない意見の存在を認める、という多様性も良いものだと考えてみませんか。