TL眺めてたら突然目に付いたこんなニュース。なんと読売巨人軍の内紛劇
巨人:清武代表が渡辺会長を告発「人事介入は人権侵害」
【清武巨人代表が告発】渡辺氏独断「コーチは江川氏」 声明全文1
【清武巨人代表が告発】プロ野球の私物化許せぬ 声明全文2止
たかが内紛劇で偉い騒ぎようだな、とか「それはコンプライアンスじゃなくてガバナンス?」といった冷静な意見がある一方、周りのコメントの多くが「そんなの教えてくれなくても知ってたよ」だったのが面白い。
なぜか?
事実はどうであるかもちろん部外者には知るよしもないが、にもかかわらずナベツネこと渡辺恒雄氏が「球団を私物化している」のは一般人にとっては当たり前の空気のようなものとなっていたことを如実に示しているからだ。同じような話は島田紳助引退(これは明確にコンプライアンス問題だろう)のときもそうで、(誰も事実は知らないが)彼が暴力団のようなものとつきあいがあっても当たり前だろ?何が問題?と言うような空気は関西人中心にあった。実際「は?何今更言ってるの?」と思った。
どっちの事件も、その「空気」は破られた。法令やルールのほうが重要だという「建前」で。もちろんこれらの事件にも「本音」はあって、そっちは陰謀論並みにどす黒いのかも知れない。しかしその「空気」を打ち壊す「建前」が、権力者の方を向いてきたことが実に印象的なのだ。
よりによって、ナベツネほどの大物がこんな形で攻撃されるとは意外だった。
こういった空気よりルールを重んじる傾向は、出来ることならもっと加速してほしいものである、というかしていくだろう。最近ではオリンパスの話も近いあたりにいる。それは時代が求める本質と、空気が提供している本質の差を埋める行為である。ルールを変えるのはもちろん難しいが、空気を変えるよりずっと簡単である。それゆえ、古い空気よりは法律のほうがまだ時代に即すのが簡単である。それゆえ、コンプライアンスだのガバナンスだのは、日本の空気入れ替えのための強い武器になるだろう。
もちろん、だからといって法令遵守が絶対善では決してない。我々の業界にこんなことわざがある。
まず、C言語使いはgotoを使うことを覚える。次に、gotoを使わないことを覚える。そして最後に、gotoを使うべき時だけ使うことを覚える。
これは一応補足すると、gotoはあまりにも便利な使い方ができすぎて乱用するとC言語の基本原則を乱すため、一般に使わない方が良いのだ。しかしいろいろとgotoを使うことで良くなることもあるため、真のC言語使いはgotoを有効なところでだけ使う。
ところが日本の大抵のプロジェクトでは、gotoは「絶対に使うな」でとどまる。上手に使う奴はアウトサイダー。
ナベツネも島田紳助も、「gotoを上手に使う」優秀な人物だっただろうことも、その能力で日本に貢献してきたことも、もちろん間違いない事実である。彼らが非難されるとすれば「gotoの使い方が一線を越えてしまった」であり、単に「gotoを使った」ではないはずである。
ただでさえ日本人はルールを守りすぎるきらいがある。そこははき違えないように、ある程度は柔軟な運用が要求されるのは注意しないといけないだろう。
今後この風潮が浸透してやり玉に挙がるのは、いやあげるべきは、一線を越えたかどうかどころが俺様の居るところが正しい側だと言わんばかりのワンマンブラック企業経営者と予想している。「ルールより結果」というゴール指向は、いけいけの高度成長期をリードした素晴らしいものだった。しかし、それが時代に即していない「古い空気」だということは多くの人が感じているとおりだ。それと強い会社内序列が、ブラック企業が社員を労働三法無視でこき使うのを許してきた。これはナベツネの専横を社会が黙認してきた空気と同じものだ。
しかし、あれだけの権力を誇ったナベツネすら安全でないとなると、その壁を「私も」と乗り越えてくるのは出てくるだろう。空気とは「勢い」でもある。一度破れた勢いは、戻すのはさらに難しい。「法令や社内の命令系統を守らないワンマン経営者はもう要らない」という流れが確定して謀反を起こされないうちに、わずかでも悔い改めた方が良いだろう。
コメント
コメント一覧 (1)
まあ、読売の内紛は笑っちゃいます^^