「反就活デモ」の話題がTLで熱い。「非シューカツ生たちのポータルサイト」プロジェクトby terrakeiさんはじめ、書評人で一緒にレビュアーやってるいつもの面々とか、どうみても「反就活」「反社畜」クラスタに属しているので、まあ身近な話題といえる。

もちろん就活や年功序列をそのまんま肯定する若者はほとんど居ない。問題になるのは「デモを肯定するか」で、ここで大きく意見が割れている。L.star自身は海外ニート氏退場に思うことでもやったとおり、彼らの過激な行動とは距離を置いているし、「就活が抱える問題点の根本解決法としてのデモ」は否定している。しかしながらこんなことで「若者の未来を良くしようと思っているみんな」が分裂するのはそれよりもさらに馬鹿らしい。

なので、ちょっとエントリを起こして仲裁に立ってみることにする。

セオリーとしての反就活デモ?


まず最初に評価すべきは、「反就活デモ」をなんのために行い、求めるべき目標は何なのかを明らかにすることだろう。そもそも本来我々が目標とすべきはかつての新左翼時代のデモとは一線を期している。「就活断固粉砕!」などでゲバ文字でプラカードを書く時代ではない。若者が求めるのは「安心して働ける環境」であり、就活は単なる象徴にしか過ぎない。

であるからして素直に評価すると「反就活デモ」はいきおい「労働環境改善デモ」の一バリエーションになる。この文脈で解釈すると「甘えるな。自分の環境は自分で血を流して勝ち取れ」とか、「デモをやっても何も変わらない」という反論が当然出てくる。これは所謂反就活デモ反対派の論理だ。

個人的にはこの点には完全に賛成する。就活という象徴を倒すためには、デモはあまりにも無力だ。正面から攻撃すれば、まさに猛反撃を受ける。そして、よしんば勝てるとしても、就活は腐った日本のシステムの重要な一部分であっても、鍵となるような重要なところではない。力はもっと別のところ、効果的なボトルネックに注ぐべきだ。

日本を変革する力として、デモは全く十分ではない。

セラピーとしての反就活デモ!


ところが信じただけでは救われないが、信じなければ救えない ― 人の内側と外側のバランスを考えるでも論じたとおり、このようなセオリーだけでは、社会全体を語るには片手落ちなのだ。セラピー、心の問題が残っている。セオリーだけでは、心を満たすことは出来ない。若者の心は怒り、傷付いているのだ。これは癒されなければならない。この点においてデモは有益である。多数の人数が集い、大きな声を上げ、統一した行動を取るのは一種の集団セラピーである。集団セラピーとしてのデモは、セオリーとしての反就活デモのような攻撃色は弱め、若者たちのための祭りのようなものになるだろう。

これはともかく重視されなければならない点で、今まではいろんな形で傷付いた若者を癒す役目は、大企業の研修と厳しい初年度の仕事がを担ってきた(だからこそ社二病などという単語が発明されたのだろう)が、就活と従来型労道モデルが否定され破壊されていくなら、何処かでこの心の傷を吸収するクッションが必要である。もちろん長期的には別のロールがそれを満たすだろうが、短期にはデモがその役目を果たすかも知れない。

この考えを補強する最大の理由として、反就活デモ反対派は精神的に強そうなのが多いことがあげられる。かれらはそういうひずみを、一般人に用意された画一化された仕組み無しに乗り越えられるほど強いのだ。しかし同時に、その強さを持つか持たないか、と言う違いが日本に階級制度をもたらすのではないかと危惧している。いや危惧しても、そういう流れは何一つ変えられないのだろうが。

祝祭としての反就活デモ


L.star自身は、正直この「就活」とやらは全く信じていないどころが、もはやシステムとして崩壊していると考えている。だからこそ日本を出て行けなくても現状を打破したい若者に贈る6つのアドバイスなどというエントリを書いた。これはデモのような直接変革によらずとも単に無視するだけで良く、すでにある構造を使って自分の手で勝ち取れ、という趣旨のものだ。「就活などもはや機能しないゴミ」である。

これは、解釈し直すと就活賛成派でも反対派でもない、就活無視派といえる。「お前はもう就活しないからできるんだろ」とか「海外にいて他人事なんだろ」いわれそうだが、とにもかくにも私自身はその呪縛から逃れることが出来たのだ。しかし就活肯定派も、就活否定派も、そうは思っていないから肯定ないしは否定してしまうのである。しかし肯定も否定もしようがない。存在自体ないのだ。

もうちょっと過激に言い換えよう。就活は制度としてはもう機能していない。ただ我々が気付かないだけで、すでに共同幻想程度の力しか持っていない。いまあるあれは、かつての就活のような大規模就職儀式にはもう二度となり得ない。特定の有能かコネのある人物だけが駆使できる別物だ。こういう観点からみれば「反就活デモ」とは、そのように就活が死んでしまったと言うことを、若者だけではなく社会全体が確認することになる、厳かな祝祭的儀式となるだろう。

就活(生年不詳-2011) R.I.P.


生年は個人的には定かではないが、就活は死んだ。死因はリーマンショックの衝撃から立ち直れなかったこと。激動の時代に我々を導きつづけた、まさに制度としては歴史に残る大往生だった。

安らかに眠れ。

そして我々は、就活の死を無駄にせず、自分たちの力と実績と自信を頼りに生きる、新しい時代を生きようではないか。