人の心と現実というしばしば相反する問題をどう解決するべきか?ということをどう表現しようか?というのがずっと個人的なテーマで、科学を信じるか、心を満たすかという二律背反を書いたという話はelm200さん、相違より合意の話をしましょうよ。の前書きでもした。

何しろ個人的にも消化不良であったため更新版を作ろうと苦慮してきた。最大の問題は「心」と「現実」をどういう言葉にマッピングするか。今まで使っていた「宗教」と「科学」は意味が明らかに広すぎ、誤解を招く原因だったため、ここをどうにかして突破する必要があった。今回は変わって「セオリー」と「セラピー」という単語を俺定義で使うことでうまく説明してみたい。

セオリー・・・理屈上正しいもの、論理的な支え

「セオリー(Theory)」は本来は理論とか理屈とか言う意味だが、ここでは実験結果とか検証された理論とかに沿った合理的な回答、あるいはそれに沿った意見の意味で使う。「この局面はセオリーなら送りバンド」という用法に近いだろうか。ただし関連する人員の精神面は一切考慮しない。所謂誰にも好かれない正論は典型的な「セオリーであってセラピーではない」といえる

また公正を期するために書いておくと、L.starは基本的にはセラピーよりセオリーを重視するブロガーである。故にしばしば煙たがられるわけだが。

セラピー・・・心理的に満足するもの、精神的な支え

「セラピー(Thraphy)」は「~療法」だが、ここでは傷ついた「精神的なもの」に対する治療行為、カタルシスやルサンチマンの解消とか「癒し」という単語が連想するようなものを指す。セオリーと同様に、現実的にどうかなどは一切考慮しない。例えばニセ医療は典型的なセラピーであってセオリーではないものだ。

「セラピーだがセオリーではない」典型的なブロガーはいわゆるデマ発信者と広く見なされている人たちだろう。彼らは紛らわしい言説を用いて他人の不安に踏み込み、その恐怖を肯定することで(だまされる)読み手にとってセラピーとなる。一方内容は所詮嘘なので、およそセオリーとはかけ離れた結果をもたらすことになる。

「セラピー」と「セオリー」は対立しない。

最初に強く指摘しておきたいのは、以前使った「科学」と「宗教」がなにやら相反しそうなのに対して、まずこの2つは基本的に独立していて相反する概念ではなく、両立可能だということだ。結局のところ前回「科学」と表現したものですらセラピーの要素を含んでいたし、宗教も同様だった。

しかしながら現実には、殆どの概念がどちらかに結構偏っており、両方ともばっちりというのは滅多にない。結果として、その偏り故にどちらかを選ぶ必要は出てくる

また、どっちが特別でどっちが劣っていると言う話ではなく、本来は密接に結びついていて両方ともおろそかに出来ない問題である。例えば完璧に現実的な「人間の惨殺体」を直視できるためには、(一部の倒錯者を除けば)相当の心の準備が必要になる。逆に創作の世界において「なにこれ?こんなのありえねーよプゲラ」と言われないためには相応に現実を踏襲することも必要になる。個人的には「自信は実績に先行する」と考えるので、心と現実では心が土台にあり、現実がその上にある上屋というべきだろうか。

この辺はもうちょっと具体例がないと分かりづらいと思うので、個人的に良くエントリを書いた3つの概念について例を挙げながら示していく。

社畜vs反社畜を例にとって

この「セラピーとセオリー」をよく考えることになったのは海外ニート氏退場に思うことにも書いた「反社畜ブロガー」たちである。思えば退場した海外ニート氏もHAL0213氏も「社畜文化」にひどい目に遭っている若者たちに対するセラピーをかなり重視したブロガーだった。もちろん理論的に正しい部分もそれなりにあり、セラピー100%ではなく、あくまで理論より心象重視、「印象派ブロガー」とでも言うべきだった。一方L.starはその反対の理論重視というか現実重視、「写実主義ブロガー」であり、そのスタンスの違いが彼らに良い印象を抱けなかった原因だったのだろう。

一方「社畜」のほうは、その全盛期の時代は完璧に「セオリー且つセラピー」であった。みんなが嫌なことも我慢して必死にやって社会を回すことは、より強力な社会を形成するためのセオリーであり、それに加わることがまたセラピーとなる、という良循環だった。思えばそれがおそらくナショナリズムの源泉としてのネイションが持つ特徴なのだろう。しかし、現在の「社畜派」にとって本当に社畜であることがセオリーであるかというと、変わりゆく情勢等々を考えるに微妙だろうし、みんなうすうす感づいてはいるだろう。つまり今となっては「社畜はセラピー」なのだ。

この争いが面白いのは、お互いに異なるセラピーに依存している共同体同士の殴り合いだと言うことにつきる。ある人にとって「癒し」であるものは、また別のある人にとって「気に障ること」だったりすることはもちろん珍しいことではない。

このような状況を改善するために考えたのが、二十一世紀にふさわしい「頑張る」を考えよう…「若い人たちに時間を気にしないで働いてもらう」騒動の本当の意味でやったような、基本的にその異なる「精神的な共同体」に対して、「合理的な妥協」を提案することでつなぎ合わせようとした結果である。これは(主に反社畜派からの)反対もあったが、今まで妥協を求めたエントリの中では総じてうまく行ったかなとは思っている。それは「セラピー」の隙間を「セオリー」で埋めようとしたことにつきるのではないか。

外国人参政権、移民、グローバル化問題を例にとって

次に今までコメント欄でもっとも返答したりした外国人参政権問題とかグローバル化に関する話を取り上げるが、先のエントリほどの成功を収めたという感触は全然無い。これらの問題の一方で大きな位置を占めたのはネトウヨやその類の排外主義で、なかなか面倒な相手であった。しかし分析するに、彼らの「愛国」なり「嫌韓」なりが「セラピー」であったことはほぼ間違いないだろうと考えている。

しかし一方で反対側の極にいたのはマスコミにしろ知識人にしろ日本のメインストリーム層であり「セオリー」であった。結果として愛国の人たちの声はかき消されたが、それは力関係の圧倒的な差(しかもメインストリームが強かったと言うより、愛国者層が弱すぎた)によるものであろう。

この問題はまだまだ進行中なので結論は出ていないが、愛国者の方々への「セラピー」は宙吊りになって浮いたままになって、ここが議論上のボトルネックになっている。一般的な解決法としてはボトルネックを迂回するか解決するかだが、戦後日本は常に迂回して、「セラピー」と向かい合ってこなかったために、「反権力というセラピー」が蔓延してしまったんだなとうっすらと考えてはいる。「国士様」も「新左翼」も、特定のセラピーに依存する人というくくりでは同じである。

もちろん「セオリーに反対することがセラピー」という共同体に「セオリー」を説くのは逆効果で、それゆえに今までの「写実主義」な論説が通用しなかったのかな、と考えている。実際国際人たちに聞いてほしいこと。そして排外主義者の人たちにもっと聞いてほしいこと。あたりからは方向性を若干かえて、彼らに対してのセラピーと言うことを考えてみたりはしている。まあでも成果が上がってないのは方向性の間違いかセラピーとして外しているだけなのか、という点は考察しないといけない。おそらく後者だとは思うが。

3.11以降の原発問題を例にとって

最後にもっともやっかいな原発問題を取り上げようかと思う。における「セラピー」は2つの側面で観測できた。一つは「危険厨vs安全厨」だ。ちなみにL.starは安全厨である。理由はシンプルで、警察官・消防士などの「危機対応のプロフェッショナル」は皆周りを落ち着ける方向に持って行く。それを踏襲しているまでだ。

でこのののしりあいに関しては、正直なところ、どっちが理性的であったかなどはあまり意味が無く、突き詰めると「危険だ!」「とにかく落ち着け!」という声のどっちに従うかでかったよた。となると、意外と思う人もいるかも知れないが(当初はL.starも違うと思っていたが)これは典型的なセラピーvsセラピーの問題であった。結局のところこれは大災害を目の前にして、どう心を落ち着かせる、なにをセラピーとしたかだからだ。

結局当初の沈静化に一番役だったのは素早く可能な限り正確な情報発信を行った学者の方々であるがこれは無論「セオリー」であり、「社畜vs反社畜問題」と同じ構図が見て取れる。

 

もう一つの問題は「反原発」である。今回の事故にショックを受けた人は非常に多く。この心理的なショック、「心理的被曝」のほうが「物理的被曝」より広範囲にダメージを与えているのではないかと思えるほどである。もちろん、これだけの大衝撃なのであるから、こういった人がセラピーを求めるのはもちろん当然であり、その原因が原発事故なら当然反原発に落ち着くというのも当たり前であろう。

もちろん「反原発が非セオリー」というわけではない。ただ現状セオリーかどうかは差し置いてでも「心理的被曝に対するケア」が民衆に求められているということだ。これは以下のようなものが観測できることから裏付けられる。

  • 異なる視点を支持する他者への排斥
  • 不正確でしばしば科学的に誤謬のある情報(デマ等)の蔓延
  • そのコミュニティでのみ圧倒的な支持を得る「反原発セラピスト」とでも言うべき人々の登場。

ところで「マスコミはスターを持ち上げてすぐ落とす」と言うが、これも「スターを持ち上げることはそのファンにとってのセラピーであり、それによってファンが満たされると今度はアンチに不満がたまり、そのスターを貶めることで安置にとってのセラピーになる。これで一石二鳥」という流れでマスコミの悪意を使わずにも説明できるな、などと蛇足に思ったりしたが、それは置いておこう。

とにもかくにも、心理的被曝は物理的被曝よりも現状ずっと切実な問題だ。

こういった推移はしばしば3.11が「第二の敗戦」と呼ばれているように、敗戦から反戦平和へと動いた当時と呼応している。ただし大きな相違があるのは、セラピーとして我々が求めたものと、セオリーとして我々が必要としているものの差だ。

「反戦というセラピー」と「戦争は可能な限り避けるべきというセオリー」は共存可能で、世界情勢もおおむねそれを許した。一方「反原発」と「今後30年の理想的なエネルギー戦略」が一致するかというとはっきりしない。超長期的には化石燃料の削減はもちろん目標たるべきだが、炭化水素よりウラニウムが優先すべきかとか代替エネルギーをどう確保するか、そしてそれにどう技術的糸口をつけるか、と言う点まで含めてみると未だ不透明である。

妥協点としては2つ考えられるが、一つは「反原発」でも「脱原発」でも「卒原発」でも言い方はなんでもいいが、なんとかしてセオリーまで昇華してしまうことである。現実的に実現可能な解法を目指す「穏健的脱原発派」は基本的にその手法の明文化だと思っているからこそ個人的に支持している。もう一つは徹底的なセラピーにより「心理的被曝」を治癒させる方法だろう。

しかしその両方をうまく組み合わせるのがもっと賢いやりかたなのだろう。孫正義vs堀義人の対談はまだ全部見たわけではないのだが、最初に素早く大きな声で反原発を叫んで耳目を集めてから現実的に徐々に修正を加えていく孫正義にしろ、広く門戸を開きながら事実を積み上げて合意形成を目指す堀義人のやり方も、単純にどちらかを目指すよりもずいぶん巧みだ。最初の頃はどうなるかと思ったが、案外落としどころに落ちるのかな、というのは見えてきていると感じる。

人の内側と外側をバランスさせることの難しさ

セラピーとセオリーはどんなもので、それによってどのように既存の問題を説明できるかはまあ示せたと思う。うまく突き詰めればこの二者を1つの概念に統合するような方向にもさらに進められるだろう。しかし、この2つは「人間の内側」と「人間の外側」というこれ以上分解が困難なものの写像だから、これ以上融合しないほうがいいだろう。

そしてつくづく思うのが「セオリーとセラピーのバランスをとる」ということの重要性と難しさだ。この2つは関連しているため、どちらかがおろそかになると両方ともが失速してしまう。そして元々直行しているため、よほど考え込まれていないかぎりあっさり偏る。バランスを取るのは非常に難しい。しかし現実に巧妙にコントロールしている人がいる。

それゆえに今後は如何にブロガーとしての自分にセラピストとしての要素を追加していくか、と言う課題を追求すべきだと思っている。その点で本当は一番参考にしたかったのは長い通勤時間を有意義に使えるようになれば日本は圧倒的に一人勝ちするで真似たパオロ・マッツァリーノ氏(実際、他の誰かのスタイルをわざわざ真似ようと思ったことは一度もない)だが、いかんせん文体も違えば笑いのセンスもない。今取り組んでるのは対立するコミュニティをうまくなだめつつ合理的な合意形成に導くという手法もやや古くさい。いずれにしても精進あるのみかと思う。

 

謝辞

なお、本エントリをあげるに当たりTwitterで「ブログはセラピー」とか「デモはセラピー」などと「セラピー」という単語を連呼することでその概念をL.starにもたらしてくれたのはラカンさんである。この場を借りてお礼申し上げます。