トヨタ伊地知専務「日本の技術力を守るために労働規制の緩和を」

が話題を呼んでるようだ。特に言うまでもなく以下の部分

「私は若い人たちに時間を気にしないで働いてもらう制度を入れてもらえないと、日本のモノづくりは10年後とんでもないことになるのではないかと思う」

まあこれがどのように解釈されるかというとハム速あたりだともうタイトルだけで分かる。

トヨタ専務「若者をもっと低賃金・長時間労働させたい」

「10年泥のように働く」系の釣り堀としてはこの上なく良くできている。経済界の重役が自分を利する発言をしているという前提に立てばこの言葉は「従順な労働力を安くこき使いたい」と解釈されて当然だろう。まあなんとえげつないトヨタ。若者をどこまでも食い物にする吸血鬼のような経済界と老人層。まさに本音が出た「失言」と言って良い。

しかし本当にそう読むべきだろうか?

今回はこの言葉とその反応が明確に指し示している2つの問題を取り上げたい。一つは「伊地知専務が本当に言いたかったのは何か?」ということであり、もう一つは「若者はなぜ真意を読み取れないのか?」と言う話だ。

伊地知専務の本当に言いたかったこととは?

L.starがこういう発言を読み解く場合に常に心がけていることが一つある。それは「言葉の真意を探るときには、その発言がもっとも善良に見える解釈を探せ」というものだ。むろんこれは相手が騙そうとしているときには成り立たないが、こういう公的な場所で「失言」をするような人は、(しばしば小悪を犯していても)大半が善人なのである。

今回も、これを努力して成功した1私人が若者に送ったエールととらえるとまた違う方向に見えてくる。それは「法律なんかガン無視でしゃにむに頑張った結果手に入れた成功体験を、若者に教えたい。実践してもらいたい。」ということだろう。

それを説明するのが10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に?で言及している10000時間の法則というやつだ。単純に言うと、ある人のあるスキルの実力はだいたいそのスキルに費やした時間だけでだいたい分かるというものだ。

ざっくり10000時間も費やせば、その人は相当な専門家になれる。そこには才能だの何だのというものが介在する余地はあまりない。

このような地味で継続的な努力を邪魔されずに出来るようにさせたい、というのが伊地知専務の親心なのだ。「費やした時間」は絶対に嘘をつかない。

もし10000時間の努力の必要性を否定してやらないならどうなるか?もちろん10000時間の努力は成功を意味しない。しかし君に待ってる人生は100%負け組。他人をだまくらかして生きることすら出来ないだろう。

何故この言葉が通じないのか?

何故こういう言葉が通じないかというのはやはり善意に解釈していけば、老人と若者で前提とするものがいろいろと異なる、と言うことだろう。それは以下のようなものがあげられる。

  • 「あとで報われる」を支える右肩上がり経済と言う幻想の崩壊
  • 女性の進出や文明の発展により、「しゃにむに働く」だけじゃない、価値観の多様化
  • 「とにかく頑張れ」という根性論では通用しないスピードでの世界の発展。戦略や戦術の変化の必要性

これらに対する解決策を政界・経済界の重鎮が指し示せないのはまったくもって残念な話だが、彼らには彼らの成功体験というものがあって、それに縛られていると言うことなのだ。たとえ歴史的英雄であっても、このような大変化を乗り越えるのは困難な話だ。

若者に必要なのは「頑張る」の再定義

ではこの2点の答えを踏まえて我々が本当に必要としているのは? それは「頑張る」という言葉の再定義、あるいはそれに変わる新しい単語の発見だろう。結局のところこの発言の問題はよく言われる「若者と老人の階級闘争」などではなく、お互いの考える理想像の違いに行き着くのだ。若者は頑張らなければいけない。しかしそれは昭和的な根性論的文脈ではない。二十一世紀にふさわしい若者のやり方で、である。

それは「仕事の鬼の夫と専業主婦」というようなステレオタイプから脱却して多様性を肯定し、経済だけでない本人のありようを認め、なおかつこの激動の世紀を乗り切るだけの戦略性と戦術性を確保している。その上で且つ全力を尽くして突っ走るようなものだ。本当にあるのか?と詰め寄られると言葉につまってしまうが、心の中ではこういうものが実際に形をなしつつある、という実感はある。

この件に関して両方の世代に一言ずつ言うとすれば、それは若者には「現状に反発するあまり老人世代の語る真実まで否定しないでほしい」であり、老人世代には「自分たちと同じことをしていないからといって、彼らが何も分かってないと思わないでほしい」であろう。そしてその間で生まれているまだ形にならない新しい概念こそが、我々の本当の希望だということだ。