合意の話の続きをしよう。

前回のエントリからちょっと間が空いてしまったが、引き続き「合意」と言う話をしよう。

合理的な合意は日本国民にとって大変重要なことだとL.starは思っているが、その重要性はあまり理解されていない。合意形成という行為はしばしば妥協と見られ、そして「妥協したら負け」という言葉の方が有名だから、みなさん妥協したがらない。負けたがらないのだ。

それは個人の行動としてはある程度正しい。しかし共同体全体の利益を考えると嘘だ。妥協しなければ共同体の合意が取れず、全体としての組織力を発揮できない。組織力を発揮できなければ外敵に負けるのだ。実際日本は他国に対して以前ほど強くはなくなってしまった。

妥協しなければどうなるか?

それはここ最近でも複数の例がある。まず最初は

ベルギーはもはや国ではない

で紹介されているベルギーの政局。日本は1年で総理大臣が辞めるという異常事態が続いているが、それどころが1年以上も首相が居ない状態が続いているのがベルギーだ。しばしば日本民主党嫌いの人が「日本の総理はあまりにもひどい」と嘆く。個人的にはベルルスコーニとサルコジよりはましだろと思わなくもないが、ベルギーは比較以前の問題。居るだけましというものである。

この問題はフラマンとワロンという二民族の対立が絶えない(ただし対立が絶えないと言っても武器を取るとかそういう話ではない。あくまでわだかまりレベルの話である)ことから発展しているが、それにしても異様としか言いようがない。そして、政権が樹立せず立ち止まっている間にもどんどん問題は山積みになっていく。

例えばベルギーは、現状の50%を越える原発依存率の状態から一気に2015年までの脱原発をすることになっている。しかし、これの進捗ははっきり言って思わしくなく、2025年まで延長せざるを得ない可能性が出ている。延長するにしろ他のエネルギー源整備にしろ、こういった高度に政治的な判断が必要な事項を内閣無しに適切に処理できるだろうか。暫定政府はいまのところよくやっているようではあるが。

また、もはやどれをソースにすればいいか分からないぐらい多いがアメリカのデフォルト問題。今日聞いているニュースでは無事デフォルトを回避できそうだと言うことで安心だが、民主党も共和党もぎりぎりまで妥協の道を探った。それでも本当にぎりぎりまで妥協が成立せずあわやデフォルト、と言う事態にまで来てしまったのだ。最後は共和党のティーパーティー勢力(有り体に言ってしまえば強硬派保守)の妥協しない態度が大変だったとも聞いている。

まあこんな感じで、妥協しないと政治が進まず直面する危機を乗り越えられず、対立する陣営が属する共同体そのものがひどい目に遭うのだ。

政治体制という妥協システム

本来政治体制とは如何にして妥協を形成するか、と言う手法である。例えば独裁制とは独裁者の決定を合意内容とし、間接民主主義とは選挙で選ばれた議員の(多数決による)決定を合意とするのだ。それゆえ民主主義の原理原則的には、合意内容に抵抗する=与党の決定に逆らうというのは、合意を反故にすることと同じであり、それは許されない行為なのだ。まあそういう原則論を振りかざしても対して意味はないが。

それゆえ、民主主義は最大でも50%未満の少数派意見を封じ込めることによって多数派意見への合意を形成する政治形態と言える。もちろんこれは望ましい状況ではないため、議会制民主政治ではいろいろな修正が加えられている。過半数ではなく2/3を要求するような直接的なものから、二院制のような複雑なシステムもある。それはより50%以上という原則以上の広範囲な合意を求めよう、という考えから来ている。

55年体制という「効率的な少数派圧殺」

しかしこの「政治的妥協」に載らない場合、やむをえず原則論に立ち返らざるを得ないだろう。つまり多数派による少数意見の圧殺である。しかしこれは大変不幸な次善の策だ。例えば最近の「反原発vs原発推進」という話にしたところで、仮に現状推進派の方が多数派だったとしよう。しかし反原発派の言い分が100%悪いはずも無く、推進派が多数派だから100%正しい、というはずもないのだ。しかし圧殺すればつまり推進派100%の意見しか存在し得ない。

「政局より政策」というのがその存在を明確にしている。かつての日本の政治、55年体制とは多数派支配をシステム的に確立することによって、社会党や共産党という少数派の意見を圧殺してきたのだ。

残念なことに、このシステムはもう十分機能していない。一党では、豊かになった日本社会の多様性に答えることは出来ないのである。それ故に我々には新しい妥協が必要になる。

政策政党による穏健な多党制、という選択肢

L.starは何度も考察しているが、それは政治で言うならば「穏健な多党制」政策政党による連立政権のような形を取るべきだろうと考えている。多数派とは言えない複数の共同体が、理性と交渉をよりどころに、お互いの政策のすりあわせをやって妥協を形成するのだ。

このような形態のメリットの一つとしては、もはや「反権力」というイデオロギーは機能しないだろうということだ。反権力はあくまで絶対権力の存在があって、それに対して言いたいことを言えるだけ。しかしすりあわせの世界では多数派はダイナミックに変わる。例え少数派であれ、妥協によって特定政策における50%の合意を形成できれば政策は通るのだ。そうなると好きなだけ権力者の悪口なんか言えない。それ以前に自分たちの良いと思うことを通すべき、という道が出来るからだ。

これにより、日本の悪い部分が二つとも消えるだろう。政策に身もないくせに口ばっかりで妥協しない少数派と、少数派の意見を顧みない多数派の両方だ。妥協という言葉は多数派と少数派、両方に対して突きつけられている言葉である。

日本を分裂させない

個人的には考察はさらに続いていくのだが、今の日本は政治だけではなくあらゆるレベルでこの合意形成が崩壊してきている。それは既存の合意形成手法が何らかの理由で毀損してしまっている、ということによる。我々に必要なのはそれを乗り越えて、お互いに妥協して合意を形成することだ。これを放置してなし崩しを続けてしまっても当面は動作するだろう。毀損したのがいつか、というのを答えるのは難しいが、おそらくバブル崩壊後で、実際20年近く動作してきたのだが、果たしてあと何年持つか、と言う話である。あと20年はもつまい。

そう考えるとき、20年後の日本分裂を止めるためにも今から叫び続けないといけないと強く感じている。

「妥協しなければ負け」

日本をベルギーのような分裂国家にしないためにも、強硬的な意見より妥協可能な落としどころこそ求められている。