前回の科学を信じるか、心を満たすかという二律背反、特にBLOGOSの方でいたく好評で、個人的には受けない自己満足エントリだと思っていたのに意外でした。

しかし自分の文章力不足を感じたエントリで、ここまで困難を覚えたのは日本人が英語をしゃべらなければならない理由以来。これも「グローバル社会はローカルを抹殺するのではなく、相互補完的な存在にならないといけない」という重いテーマと取り組んで、自分なりの結論は得たもののなかなか書けずに苦労して、できばえも満足とは言い難いものでした。今回も特に「科学文明」「宗教」とした単語に対応する概念が結構広範囲な意味をカバーしなければいけない上に不明瞭で、自分でもぶれがあったし、またそれゆえにおのおのが好きな解釈をして自分勝手な感想を述べているのがあったりとか、隙も多かったかなと反省することしきり。

実はこの思想は、元々は1年ほど前、ホメオパシーが発端になったニセ医療バッシングが合ったときに「なぜ人はホメオパシーのようなニセ医療に走るのか。そしてなぜニセ医療叩きの人は西洋医学以外の代替医療を頭ごなしに否定するのか」というのがスタート点です。が、そのときはついに書ききることは出来ませんでした。医療という話題が重すぎましたし、当時の代替医療バッシングの勢いたるやものすごく。「エビデンスという形で代替医療も信頼のあるものだってある」というわずかながらの反論もはてブで袋だたき、と言う有様で、まさにヒステリーの様相で。

この思想とジャレド・ダイアモンドの環境問題感をつなぐところにあったのは彼が自分(の思想)のことを「グリーンピースのような環境主義者からは企業の犬と言われ、企業からは環境団体の手先と言われる」と評していたことにあります。まさに医療のときもその構図でしたから。

ホメオパシーという単語が出てくるあたりからも、今回あつかったのは「科学文明にどう相対するか」という心の問題なんです。「この記事で扱っているのは科学ではない」と言われたけどそれはある意味正しい。あと結構反・反原発っぽく解釈されてしまったのも確かなんですが、L.star自身としてはそれは本意じゃなくて、自分の意見がバイアスが掛かっていることを理解しつつ、その上で中立的な観点を、そして原発問題心がけて書きました。それらがうまく伝わらなかった文才のつたなさは恥じております。

本当はこれを機にもう分裂の続いているエネルギー問題についてつぶやくのは辞めようかと思って書いていたのですが、

■L.star さんの「科学を信じるか、心を満たすかという二律背反 」によせて

というメッセージをいただいたので返さないわけにも行かず。

L.star さんにとって原発は科学技術の象徴のように見えるようですが、はたしてそうでしょうか?

L.starの意見は終始して「原発は科学技術文明の一部」としてしかとらえていません。たとえばここ

大事なのは原発ではない。文明の効率だ。

つまり「原発という一部で科学への信頼が揺らぐ」という論調なのです。となると、お互いに「お前は原発を重要視しすぎている」と言い合っているわけです。実に面白い。

技術としての原発は、結局、以下のエントリのような存在ではないでしょうか。

「核変換」抜きの原子力は未完成な技術

(中略)

私は、現行の原子力技術には、その欠点を上回るだけの利点はないと判断しました。むしろ、その欠陥たるやきわめて深刻であり、非倫理的とすら断定せざるをえません。

その見積もりには、人によって今でもまだまだずいぶん大きな差異がありますね。例えば「消極的原発推進派」の殆どの人はリスクを把握した上で「それでも他に選択肢がない」とまで考えるわけです。

例えばL.starが危惧する最悪のシナリオというのは、「科学的に十分完全とは言えず、非倫理的ですらあるウラニウム核分裂による発電」も含めてあらゆるエネルギー源を最大限使っても、未来のエネルギー需要を賄いきれない可能性です。ジャレド・ダイアモンドもそうですが、Thomas Friedmanも指摘しています(リンクは/.J。そういえば二人ともピュリッツァー賞作家ですね)

このような状態が予見されるときに、「原子力は危険だから使わない」などというわがままは人類に許されるのでしょうか?

最終的にこのシナリオを回避したときには原子力を使わなくていいかもしれませんね。それには長い年月が掛かります。危機感を募らせた某大国がWW3を始めるかもしれません。そうすると何千万人の死者が出るか想像も付きませんが、およそそれは幸せな社会とは言い難いでしょう。

このように、お互いの相違について言い合いをすることはもちろん出来ます。いくらでも。

でもね、そういうのもうやめませんか?

我々に必要なのはどの意見が正しいかなんかじゃありません。どの政策が一番我々を幸せにしてくれるかですよ。何が嫌いか、何が好きかだけで政策を通そうとしても、それは多数派による少数派の圧殺しかありません。まさにかつて自民党が、そして今民主党がやっている政局ってやりかた。今の政治は、我々のやり方の縮図です。変えませんか。

そのためには、意見の相違を乗り越えて合意形成しましょう。L.starはだれの宗教も軽んじるつもりはありません。ただし、その主張のベースとなる理論やデータのつたなさには反発しますが。違いをぐっとこらえて、協力しましょう。残念ながら我々にはそれほど合意できる事項はまだあまりなさそうですが、いくつか思い浮かぶものはあります。

まず「究極の目標は日本の持続的成長」というのは大丈夫でしょう。「成長」が指す言葉には経済なり幸福なり技術の発展なり、子どもの幸せなりいろんな解釈がありますが、広い意味で見て推進派から反対派までこれに反対している人は殆ど見たことがありません(ただし一部、社会の不安を煽って楽しんでるだけの人がいるように見えるのは残念な限りですが)

そこへ行き着くために必要なやりかたとしてマキャベリの「天国に行くための最良の方法は、地獄に行く道を熟知すること」をあげたいと思います。elm200さんは原発続行を選ぶことで地獄へ行く道をいくらもあげられるでしょう。残念ながらL.starも脱原発によって地獄へ行く道をいくらもあげられます。とりうる政策の組み合わせは膨大ですが、それらを全部ひっくり返して調べ上げ、正解を探さなければならないんです。反原発か、原発推進かはあくまで手段に過ぎません。目的であってはならないんですから。

また、個別の政策についても例えば「自然エネルギーの推進」や「社会の効率化」は誰も異存がないはずです。問題にされているのはこれらの政策の是非などではなく「いつまで」「どれだけ」といった具体的な目標です。反原発派の人はしばしばこの点についてかなり楽観的な数字を口にします。原発に安全神話が無かったように、悲観的に現実的な数字を詰みませんか。いざ当てにしてやっぱり無理だった、は何にせよ好ましくないのですから。