グローバルな商品におけるアンナ・カレーニナの原則っていうのはどうなんだろう、と唐突に考えた。アンナ・カレーニナの原則は

10000時間積み上げるために – 今はダメでも、20年後があるさ


でも取り上げたが、「銃・病原菌・鉄」に書かれているもので、元々は動物の家畜化の話で引用されている。グローバル商品とガラパゴスにおけるアンナ・カレーニナの原則は「グローバルに展開できた商品はどれも似たようなものだが、できなかった商品はいずれもそれぞれにガラパゴスだった」とでも言うべきだろうか。

  • 価格と品質
    大量調達にしろ人件費削減にしろ、グローバルのリソースを極限まで使い切ってきっちり安価なものを作らないと既存のものには勝てない。たしかに世界中で売れる商品は、今までの品質に比してどれも安価、といえるだろう。逆に高品質であるかどうかは大きな問題にはならない。

  • 物流
    どんな商品でも、的確な物流無くしてグローバルにお届けすることはできない。例えば保存の困難な特産品はグローバルで成功することはきわめて難しい。冷凍や飛行機がこれを大きく進歩させたし、またソフトウェアに至ってはもはやネットがあれば全部OKという凄い状況が実現している。

  • 文化基盤
    これは流通に入れて良いのかもしれない。流通すべき殆どの国の慣習を公約数的に乗り越えることができないと、広がり方は限定的にならざるを得ない。これはもちろん商品を生み出す元になった文化がどれだけ普及しているかで軽減ができるだろう。しかし、おかげでグローバルで成功する商品はだいたいにおいて最大公約数的な、悪くいうと没個性的になる。

  • 体験
    商品がもたらしてくれる今まで見たことのない素晴らしい体験、めざましい御利益は既存商品を乗り越えるのにもちろん必要である。これは先進国が世界に売るべきモノは「体験」を参照してもらうと良いだろう。特にグローバルでないと体験できないようなもの、というのが重要だろう。

  • 知名度
    最初の段階では必要がないが、普及には必須だろう。知名度が普及を後押しし一定の閾値を超えれば、巨大になればなるほど美味しい目を見ることができる、という正のフィードバックに支えられるようになる。もう勝利の方程式である。逆に誰にも知られていないようではお話にならない。


必ずしも完全なリストだとは思わないが、全て持っていないと成功できないような内容にはなったと思う。で、このリストを挙げたのは別に日本はこれとこれが抜けているからガラパゴスだ、と言いたいわけでは全然無く、逆にグローバル化が進んでいくことでこのリストにあるような項目で不利になるような状況はないのか?と言うのを考えたかったのだ。

で考え至ったのは、「地産地消で、多様性に富み小回りのきく少数による生産モデルが台頭する結果になる」というものだ。

  • 物流は圧倒的に地産地消が有利である。なんといってもコストも違えば品質管理も圧倒である。

  • 価格においては引けを取っても、工芸品のようなものはグローバル商品に対してむしろ品質面では圧倒的なリードを持てる。

  • 文化基盤と体験は、文化が障壁ではなく、チャレンジすべき体験に変わり、むしろ有利ですらある。

  • 知名度に関して言えば、ローカルだから、グローバルだからと言う差はない。歴史的経緯の豊富さは、むしろ有利ですらある。


このように画一化というグローバル商品がよにあふれることは、逆にローカル商品にとってチャンスを生み出すことになる。もちろんそれ以前にグローバルに押しつぶされず、しかも上記のような説得力を有していなければならない。

しかし、これはつまり「画一化した現代日本」に対する「ご当地ブーム」そのものではないか。

となると「クールジャパン」も、グローバル化する世界に対する「日本ご当地」という方向で考えるとある種の正当性はあるのかもしれない。というか、日本がグローバルに進んでいくためには、こういった「ご当地」の強みをスイングバイのように利用し、それを最初にあげた原則にあうような形に再編成する、と言うことが重要になるのだろう。例えば日本を広報するためには外とのコミュニケーションが欠かせないし、文化の壁を研究して、それをどのように乗り越えるか考えないことには受け入れられないだろう。しかしそれは別に「グローバル化」と考える必要はない。日本を売り込むための営業活動だと思えばいい。どちらにしても同じことなのだが。

これは

日本人が英語をしゃべらなければならない理由


のアップデート版とも言える話である。上記でもグローバルとローカルの関係、ということを「文明」と「文化」という形で題にしていて、この2つの密接な関係を理解すべきだ、と言う話をしている。グローバル化は我々の文化を破壊するもではなく、むしろそれに乗ることで我々の文化をよりよくしたり、あるいは我々の良さをもっとたくさんの人たちに知ってもらえる道具たり得る。それは相反する概念ではなく一つの「波」の別の側面に過ぎない。どのようにつきあうがの問題なのであり、自分たちの持っているものをより高く相手に売りつけるための道具と考えればいいではないか。