最近のBLOGOSのコメント炎上を見て(ここからたどると記事一覧が見れる)、時には「おおっ」と思うこともありながらまあうんざりしたり、あるいは同じエントリに対するコメントでもTwitterとではずいぶん温度差があるな、と言うのを感じながら、あと@koshianや@elm200とかと会話しつつ、これをどう解釈すべきか、と言うのを考えていた。
まあそういう反応をジンゴイズムだの排外主義だのという言葉で切って捨てるのはきわめて簡単だ。しかし問題は切って捨てても何も解決しない、ということにある。
それで思ったのだが、もはやこういう開国を煽るエントリは何ら必要ないのではないか、ということだ。というのももはや開国論やらグローバル化推進やらそういう話がリーチできる層にはあらかた浸透し終わっているのではないか、と言う気がしてきたからだ。絶え間なく繰り返される同じような罵声の裏には、理解拒否の姿勢がありありと感じられる。かといって、開国派をやっている人から見て彼らの意見がまともにみえるかというと、全くお話にならない。グローバル化を否定して得られる未来が全く提示されていない(ように見える)からだ。
やはりネイションが2つに分裂してきているのだ。「現状の国家民族文化を肯定する」というものと「改革によって得られる未来の文化を肯定する」という2つに。もちろんこういう分裂は別に珍しくもなくそこかしこで見られる。例えば移民問題もそうだし、世代別の対決も、階級闘争も内容が違えどそういったたぐいである。
しかし仮にも「開国派」と、ネイションを広げようという立場に立つのであれば、日本を外に広げるだけでなく、分裂した日本を一つにまとめるのもまた我々の仕事と心得なければならない。我々が開かれた世界を何故信じるに至ったかということを追体験させ、そこに彼らが迎え入れられる知識を身につけさせるように導かなければならないのだ。
これは自戒を込めて言うのだが、排外主義者を排斥することで「反排外主義」という排外主義に陥ることは、我々「開国派」には許されないのだ。彼らを同化できずに取り残されたオランダの一部のモロッコ移民のようにしてはならない。ただそれをどのような形であれ一つにまとめ上げることこそが、唯一の正解なのだから。
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