海外ブロガー仲間の@HAL0213さんの記事
「日本のサービスを海外で実現できたら・・」が机上の空論である理由

彼が占めそうとしている視点は分からなくもないし、結論としての「日本のサービス業は海外には出て行けない」というのは大きく間違っていないと思われる。ただ、彼は東欧、こっちは西欧とかなり文化の違う国にいるからか、その思考過程については違うなと思うことが多々あった。同じ問題提起を拝借しつつ、ちょっと違う視点から攻めてみたい。
欧米人に、日本並みのサービスが出来ないわけではありません。実際に、欧米にも一流ホテルはあり、一流のサービスをしています。また、ヨーロッパ、特にイギリスなどのでは、自宅でパーティーを開く文化があり、そのホスピタリティーの高さは日本人に負けるものではありません。

この点は全くその通りである。ホスピタリティだけじゃなく、工芸品のようなものでもそうだ。例えば職人が手で丁寧に作るイギリスの高級車は工芸品としては間違いなく一級品である。日本もレクサスをはじめとした高級車ブランドがいくつもあるが、工業製品としては一歩どころが三歩先んじていても、内装とかでにじみ出てくる、品格というかそういう点ではまだまだ学ぶべきところがある。もちろん、平均として高いのは日本である。

しかしそれは何故かというと
では、なぜ日本並みのサービスを実現できないのかと言うと、単純に「割に合わない」と感じるからです。

といった、経済的な理由では簡単に言い表せないように思われる。というのも、いろいろ見ている限り、ヨーロッパにおけるホスピタリティの高いところと言うのは、金の掛かっているところと言うわけでは必ずしもないからだ。むしろ一致しているのは、ホスピタリティの高いところにやってくる人たちは、そうでない人と身なりや仕草に大きな差が感じられる、というところだろう。

つまり、ホスピタリティの高いところは、階級の高い人が集まるところなのだ。

ヨーロッパにいると、この「階級社会」というのをまざまざと感じさせられる。もちろん公式にはこの階級とやらは消滅しているが、生まれや教育によっての差別に近いものはまだある。マクドナルドのようなファストフードは基本的に下層階級の人たちが食べに来るところだし、ミシュランに乗るようなレストランはどこも曲がりなりにも上流層向けである。

ちなみにミシュランと言えば、☆の数、メニューの高さ、ドレスコードの必要性は大体比例しているように感じる。味はいわずもがなであるが、そういう「ちゃんとした階級の人をおもてなしできるようなお店」というのが基準としてあるのだろうと思われる。三つ星がつくようなレストランはどこも大変に高価だし、星がなくてもやはりTシャツで入るのはちょっと場違いに感じられる(ただし、観光客なら場違いでも許されることは多い)

まあ階級といっても越えられ無い壁でなくなったというところが平等と言うことなのだろう。別に収入も学歴も無い人だって、たまにはちょっとしたおしゃれな衣装を着て高級レストランにいくことは、階級の高い人のような振る舞いができれば何ら問題ではないのである。

一方日本はと言うと、このような階級意識はかなり希薄になってきている。だから、特定の高級レストランだけで良いサービスをしなければならない、というような格付け意識はない。ミシュランの審査員はさぞかし苦労しただろう。

しかし階級意識がないおかげで、普通のスーパーやマクドナルドのような、欧米では全く身なりなどを気にしなくても良いの店と見なされるようなところにまで高いホスピタリティを実施できる原動力になったとも言える。階級という、手抜きの免罪符が日本にはなかったからだ。

いずれにしても
上記のことから、日本の低賃金良サービスを実現している主要な要因は、日本企業の経営能力ではなく、日本従業員の国民性やビジネス文化であるとわかります。

(中略)

もちろん、私が様々な障害を全て越えて、日本のような質の高いサービスを供給する商売を海外で実現することは可能かもしれません。むしろ、私はスロバキアにいても日本人なので、日本企業が海外に進出して欲しいと思っています。

と言う大元の結論に関しては、特にそれほど違いがあるようには思われない。長期的に見れば、日本式のサービス業品質を輸出するための決定的な技術が発明されるかもしれないが、そのためにはここであげられたような障壁を取り除けるようなものである必要があるだろう。
社畜にとっては、「けしからん!」なことなんでしょうけど、自給600円で、理不尽な客に頭を下げさせることのほうが、私としては「けしからん!」ですねwwww

ところで、一番食いつきたいところは実はここなのである。というのも、欧州では「階級の高いところではそれにふさわしいサービスが受けられる」という裏には「階級の高い人は、階級の高いなりの振る舞いが求められる」という前提があるからだ。振る舞いとは例えば身なり服装であったり、仕草や言葉であったりだが、店員に対しての態度もそうだからだ。

階級の高い人は身なりがきちんとしているし、丁寧な言葉遣いを心がける。サービスが良ければチップを払う。かりにサービスレベルがいまいちだったとしても、店員相手であろうと暴言を吐いたりしないし、失礼な仕草で呼び止めたりせず、それ相応のやんわりとした立場の示し方がある。高いホスピタリティを受けられる階級にいる人には、それなりの義務も課されているのである。

この対称性は、ホスピタリティの高い社会を持続させるために非常に重要なポイントだと思われる。態度の良い店員は、みんながみんな良い給料をもらっている訳じゃない。しかしながら、例えばレストランのウェイターは名誉な技能職であると見なされているわけで、欧州で、一部だけにしろそういう社会が存続しているのは、やはりお互いにそのような合意ができていたからではないだろうかと考えずには居られない。

翻って日本はどうだろう。日本には確かに高いホスピタリティというのはあるが、この種の対称性を客側に強制するルールというのは実は無いように思われる。サービスを提供する側はおおむね高い方に偏ったが、客の方はあくまで個人に任されている。態度のいい人もいるし、暴言を吐いて理不尽に店員に頭を下げさせる人も見たことがある。受けられるホスピタリティに対して、客の態度が一致しているとは到底言えないのではないか。

この非対称性は、日本のサービス業の成熟度と、それについていけない社会の未成熟さを如実に示しているのではないだろうか。そして、もちろん低い方が高い方の足を引っ張るのである。つまり、日本のサービス業が苦境に立っているのは、客の態度がそれにふさわしくないからだというのは、主因とは言わないまでも一因には違いないだろう。

有名な間違って引用される言葉に「お客様は神様です」というのがあって、それにあぐらをかいて居る人はそれなりにいるようだ。しかし、日本の神様だって品格のある存在である。いつのまに神だからといって下々に暴言をはいていいようになったのだろうか。神様たるもの、神様らしい品格というのがあるのではないだろうか。日本というのは経済や文化で立派な社会だと国際的にも十分認められているのだから、日本人たるものそれにふさわしい態度がとれるよう、努力したいものである。