夏期の旅行に行っていたりその後で体調を崩したりでずいぶんブログともご無沙汰になってしまったが、そんな間に「文明」と「文化」に関する非常に興味深いコメント(英語)をもらったりしてけっこういろいろと考える羽目になってしまった。自分の考えている概念ををうまく言い表す言葉がない、というのは実に難しい。ゲマインシャフトとゲセルシャフトが一番近いのではないかと考えはじめたが、まだまた考察の余地がありそうだ。

そんな「文明」と「文化」のありかたを考えるひとつのケースとして、今日は唐突にヴェネツィアの話をしたい。美しい景観と、運河にゴンドラで有名なあのヴェネツィアだ。2年前の謝肉祭のシーズンに訪れたが、もちろん大変印象深い町で、堪能させていただいた。

しかし、あれほどまでに「開発され尽くした」と感じたところは未だ無い。余すところ無く家が建てられ、路地は細く入り組んでいて車が入る余地はない。物資搬入は手押し車で行われている。水の都、というからには水運は発展している。しかしカナル・グランデには水上バスがあるが、それ以外の運河はきわめて細い。あれを通るにあたり、ゴンドラ以上の船はないだろう。モーターボートもあまり役立つとは思えない。

ゴンドラと手押し車、それがヴェネツィアにおける最高の物流インフラである。別にそれが風流だからそうしているのではなかった。大幅な改革を施して、車やモーターボートを受け入れられるようにするのは不可能だろう。もちろんすでに観光スポットとしての多大な地位を確立しているのでその必要はないが。

特筆すべきは、このような状況は、「文明」から逃げた結果発生したわけではなく、むしろ「文明」を突き詰めた結果袋小路に陥ってしまったことだ。もちろん同様のケースは歴史上いくらでもあるだろうが、ただその限界点を「見て分かる」ことができたことが大変興味深かったところである。それが起こるのは何故か、というのはケースバイケースであろうが、現状に最適化し続けることにより変化に対応するコストが高くなってしまうからというのは挙げて良いと思われる。

ところで、一般に「~のベニス」というと運河のきれいな町のことを指し、日本でも柳川などがあげられる。しかし、同様の視点で一番似ているな、と思ったのは東京だ。環七から246へと、渋滞回避のために世田谷区の狭い路地を通って泣きを見たことがある。あそこには早く東京外環が通ってほしいと思うが、そういう再開発も難しそうで。そういうところも似通っている。

東京も、いや日本もまた、世界に類を見ない「文明」である。あの品格に対抗できるのは、ヨーロッパではパリとロンドンぐらいだろうと個人的に思っているし、世界的に見てももちろん上位である。しかし、それは必ずしも今後も「文明」でありつづけることを保証しない。むしろ、高度化していけばしていくほど、変化に対応できなくなる危険と隣り合わせである。そして、今分明であることを降りてしまったら、ヴェネツィアのように袋小路になってしまうのではないか、と言う危機感はある。

近代日本はかつて幕末、戦後と少なくとも2回、「文明」であり続けるための躍進を成し遂げた。それはそれで凄いことだともちろん誇って良い。しかし今目の前にある危機に対して、もう一度できるだろうか。「文明」であるかどうかよりも、「文明」であり続けられるかどうかが問われているのではないだろうか。