また英語ものだが、前2回の

日本人はどの程度英語をしゃべれるべきか

日本人が英語をしゃべらなくて済む方法

と続いた後、その次のエントリとしての「グローバルとローカルの関係」という内容を書くのに大苦戦した。いずれも「世界と日本人がどのような関係を築くか」というのが裏のテーマとして存在していたのだが、頭の中の鮮烈なイメージを具現化するには、いろいろと不足していた。実際4つぐらい没がたまり、そろそろあきらめようとしていた矢先に、イメージそのままの文章が見つかった。

地域の固有性を守るためにも、グローバル化に関与しなければならない。

私たちは、「文化」と「文明」の区別をする必要がある。インターネットの時代に、世界共通の流通のインフラとして構築されつつある「文明」と、それぞれの地域に育まれ、いわば「温存」されていく「文化」と。インターネットを通して、世界の文明がいわば地球規模の「単連結」なものとして発展していくことは、それぞれの地域の文化が消えてしまうということ、あるいはそれが世界中へと流通していくことを必ずしも意味するのではない。

まさにこの「文明」と「文化」という2単語に集約されていると言ってよい。繰り返しになるが、グローバルで話されている英語と英米人が話す英語は別物で、それと同じように、英語の裏にあるものも別物なのである。

 

「文化」同士が交流を行うとき、それはどちらかの母語がベースになってのP2P型になる。しかし、「文化」は地域にしっかりと根ざしたもので、交流は非常に限定的にならざるをえない。

例えばオランダ人と日本とのこのようなコミュニケーションを見る限りでは、いずれもお互いの「ちょっと面白そうだと思ったもの」を楽しむ程度にしか理解しようとしない。オランダ人はSUSHIを楽しむかもしれないが、それはあくまで「珍奇な料理」としてであり、日本食の文化的体系になど全く興味を持たない。

「最近の死ぬほど暑い日にオランダ人にそうめんを振る舞ったら、こんな食べやすい料理があるのか!と驚かれた」と言う話を聞いたが、ひょっとするとそうめんもヨーロッパで大ヒットするかもしれない。しかしその場合、たまたま欧州文化に無かったものを埋めるために輸入するので、そうめんにある日本文化のバックグラウンドは無視される。

同様のことは日本人だってやっている。例えば普通の人にとってカレーライスは日本の文化であり、輸入元のインドや欧州の文化を感じるのはごく少数である。また日本にある厚切りの食パンに相当する食べ物は実は欧州にはない。あれは日本の米食文化にもとづいて、パンを主食と解釈し、主食らしくなるように改変した結果である。日本人からはそう見えないかもしれないが、パンは明らかに米の代用品にすぎず、米食文化の本質には全く傷がついていない。

これは日本と欧州、オランダとの交流の例を取ったので非常にお互いに文化的距離がある。もちろんヨーロッパ諸国内などでは、日本よりもずっと距離が近いために、もうちょっと楽になるかもしれない。いずれにしても困難な道のりである。

このようにP2P型で行われるやりとりは、お互いの文化を尊重した形で行われ、たまたま足りないものがあった場合にそれが部分的に取り入れられる。既存の文化をわざわざ破壊してまで導入する価値があるものというのは多くないし、たとえ多かったとしても毎回都度文化をぶちこわしていてはコストが掛かって仕方がない。だから、頻繁に文化を取り入れないことには合理性がある。

 

そして、世界にはもう一つの「文化」同士の交流法がある。それは「文明」を経由して行われる、スター型の交流である。

「文明」という主体はあまりにも漠然として判別しづらいが、交易などを通じて不明瞭な形を表しつつある。なにしろ土地や民族のような、根ざすものがない。かわりに「文明」は「文化」の中に寄生虫のように根を下ろし、そこから様々なものを吸収して生きている。ただしあらゆる「文化」と上記のP2P型コミュニケーションを大量にこなしている結果として、「文明」は「文化」の最大公約数的なものを身につけている。

「文明」が寄生虫であるメリットは計り知れない。なにしろ実体がないので、寄生している文化から何かを取り入れるときの壁が非常に小さい。それによって、たくさんのものをより少ないコストで取り入れることが出来る。取り入れたものがよいものであれば、相乗効果は計り知れない。取り入れるものが数個程度なら「文化」にもできる。しかし20や30といった爆発的なスケールは「文明」にしかできない。デメリットとしては絶対に100%になることができない。元エントリではそれを以下のように指摘している。

ローカルはロングテールに返還される。グローバル化が進展したとしても、世界各地の文化が全て均一になってしまうわけではもちろんない。

まあ個人的には最後は均質になると思っている。ただし、それは「文明」が「文化」になると言う意味であろう。そもそも何世紀かかるか予想もつかない、我々のあずかり知らぬ話だ。

そんななので、「文明」は絶対に「文化」を破壊し尽くすことはできない。その代わりにあらゆる「文化」の隣人になって他「文化」から学び、あらゆる他「文化」に教える。例えばさっき日本とオランダは距離が遠いと書いた。しかし、両方とも「文明」と近い距離にいる訳だから、文明経由日本発オランダ行は、直通より遙かに距離が近いことになる。まさにワームホールである。欠点は「文明」というフィルタを介したものしか伝えられないことにあるが。

この「文明」と「文化」は、日本における国と地方の関係によく似ている。つまりローカルである各地方があって、その上に我々が日本全国と呼んでいるグローバルがある。江戸時代の藩制度から中央集権に代わっても、日本は完全には均質化しなかった。確かに多数の風習が無くなったりしたが、それでも未だ地方の特色というのは色濃く残っている。方言すら消えていない。もっとも今や日本全国は「文明」から「文化」になったともいえるかもしれない。

ところで、元エントリにかえって

グローバルな文明は、ルールが変わりゆく世界においてはローカルな文化の破壊者ではなく、その存在条件に次第に変わっていく。グローバルな「文明」への参加は、各地域のローカルな「文化」を持続可能なものにするために、どうしても不可欠なことである。どれほどローカルな文化の大切さを説いても、グローバルな文明との関係を整備しなければ、そもそもの存続すらが危うくなるのだ。

ここでいきなり「文明」への参加が「文化」の持続可能条件に飛躍しているのがやや残念と感じた。その理由は一番重要なことだと思うのだが。ただここを理解することはできても、説明するのは難しい。個人的には以下のようなものだと考えているが。

  • 「文明」があまりにも巨大化したから、かつては可能だった「文化」が「文明」に参加しないという選択肢がもう消えている。
  • 「文化」と「文明」が互恵的な交流を続けた結果、もうすでに大半の「文化」が「文明」なしに生きられなくなった。つまり共生状態に入ったから。例えば日本の「地方文化」の殆どはもはや独立不可能である。
  • 「文明」の力が圧倒的になった結果、「文明」の恩恵を受けられない「文化」は圧倒的不利となった。

 

最後にやっとここで「英語」という単語が出てくるのだが、それほど「文明」が強力で重要だからこそ、我々日本「文化」は彼らと対話して正しい関係を築かなければならないし、いまそれが毀損しているなら最優先で修復しなければならない。

そしてさしあたって何が問題かというと、まず「国際共通語の話者が足りていません」ということである。「英語をしゃべれるようになる前に日本人としての中身を」と言われるが、気に病むことはない。必要なのは「文明」型の多文化との交流であり、中身だったらその交流を通じて身につけることができる。

日本「文化」と「文明」の対話インターフェースを改めて確立しなければならない。それが日本人が英語をしゃべらなければいけない理由である。だれでも英語がしゃべれるべき、とは思わない。しかしまとまった人数の英語話者が必要である。