久々にまたオピニオン系というか日本のありようについての内容に戻るけど、今日のお題はここから。

プログラミングが出来ないSE(システムエンジニア)がソフトウェア開発を指揮している?

いやべつによくあることだけど、でかい現場に行くと泣けてくるのも又事実。何故かというとソフトウェア業界はまだ未成熟で、設計や製造、見積もり技術が成熟していないからと言うのが一番大きい。その次に進歩が早すぎて、成熟する以前に先に行ってしまうこと。それらが相まって、この状況が悲劇になる。

L.starは、個人的にはプログラムができないSEが駄目とは思わない。もちろん自称プログラムが分かっているSEとかはたちが悪いが、SEに要求されるのはやはり違う能力であり、プログラマから叩き上げて良いものになるとは必ずしもいえない。というか「彼は技術は素晴らしいが管理は全然」というカウボーイプログラマのほうをむしろたくさん見てきた。SEとして駄目なやつは駄目、それだけのことだ。

しかしそれ以前に何かおかしい、と思わないだろうか。しきりに「ゼネコン化」や「多重下請け構造」という言葉が出てくる。

というのも、我々が信じていた年功序列終身雇用モデルというのは、平社員から主任、管理職、課長部長を経て最後は社長になることではなかったか。確かにコンピューター業界にはそれがない。孫請けソフトハウスは永遠にコーディングであり、天下の大手SIer様は永遠に設計や工程管理である。これでは就職した時点で職能が決まる、企業カースト制度である。

というわけでネイションシリーズの第6回である。最初は軽く「終身雇用って叩き上げ重視じゃなく、系列関係を固定するカースト制度だよね」という話で終わらせようとしたら、どんどん考察が深くなって、最後にはとんでもないところまで言ってしまった。

振り返ると、戦後日本社会は元々そうであった。系列と呼ばれる構造化した企業体があり、士農工商下請けとまで揶揄された。(高いカーストの)大企業に入るために、必死に受験勉強して良い大学に入る。

年功序列における「出世」をこの枠に当てはめようとすると、「年功カースト」というものも存在したに違いない。つまるところはカースト内カーストだが、何らかの評価制度により、同年代でより高い序列を占めることが重要なことになる。出世レースに乗り続けることで、どんどん企業カーストの中の枠組みの中の、さらに高いカーストを占めることができる。高い企業カーストのさらに高い地位、例えば銀行の頭取や新聞社の社長などは、それこそ神に等しい存在になる。

家族のカーストは家長のカーストで決まるため、出世をないがしろにして家庭を顧みる必要などない。全てを犠牲にしてでもやる価値のあるものだ。

そして企業カースト制度を成り立たせるのに必要なのが、新卒重視・年功序列・終身雇用である。新卒重視は生まれのカーストを決めることである。学歴と、受験勉強を勝ち抜いたと言うことが、その基礎となる。次に年功序列は序列カーストを明確にするために必須である。厳格に決められたレールを、決められたタイミングで上っていくことを強調することが必要だ。例えば定年間際の課長と、同期一番乗りの課長は、一見同じに見えて全く違うカーストでなくてはならない。そして終身雇用は、カーストの固定化を明示するためにも必須である。芸能人やスポーツ選手、転職をくりかえすような輩は不可触賤民である。

元々のインドのカースト制は生まれてから死ぬまでだが、この企業カースト制度は、人生の節目節目において、カーストの選択が目に見えて行われるところが優れている。このイテレーションを通じて現世利益を得られることで、誰もが信じることができるだろう。敢えてソフトウェア業界の用語を当てはめるなら、「アジャイル輪廻」である。入学、入社、出世・・・すべてカーストというかインド的宗教観における「輪廻転生」なのだ。

改めて考えてみると、

日本のナショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説

にて、日本の企業ネイションは国民国家をそのまま引き継いだもの、と言う仮説をしたが、訂正する。企業ネイションは存在したが、それは戦前のような半端なものじゃない。こいつはカーストによる分業制度を確立し、あらゆるリソースを企業のために喜んで継続的につぎ込むような巨大なシステムだった。

しかも、かつて日本で、特に江戸時代に定着していた、士農工商身分制度や儒教は、これを後押しするような形で働いた。つまり、日本の古いシステムとも合致したわけだから、定着も用意だろう。

この企業カースト制度というのは恐ろしいほど効率が高い。あらゆる生産活動を企業の利潤に結びつける強烈なインセンティブがある。こんなのが相手だったら、たとえ覇権国家でも客観的に見て勝てる気がしない。

そして、これを崩壊させたのは不況ではなく好況だろう。教育にコストをかけられるようになり、能力より学歴を重視するような教育がはやることによってカーストの意義が薄れ、大企業が求人を増やすことでバランスを崩した。生活が豊かになることで女性の社会進出が起こり、男性に育児や家事の分担を求められるとともに、社内カースト競争につぎ込めるリソースは減った。

これらは全て国民の生活が向上した必然の結果でありながら、その母体である企業カースト制度を弱める方向に強く働くから、日本は崩壊した。思えばバブルは単なる経済破綻だけではない。企業カースト制度の崩壊のクライマックスだ。新卒採用システムが狂ったことで、誰もが努力して偉くなれる企業序列カーストは成り立たなくなったのは言うまでもない。

そして今我々は、その残滓として残ったカースト制度に苦しんでいる。苦しんでも苦しんでも、非効率になってしまった制度は救済をもたらさない。

再び以前のエントリに戻って

意義のある「労道」がしたいー21世紀の日本で宗教改革の波が

は、「労道」の宗教性を指摘したまでは良かったが、その宗教性の本質を指摘できてなかった部分が片手落ちであろう。しかし、この企業序列カースト制度を踏まえれば、もう少し踏み込んだ分析ができるだろうと思う。ポイントはカーストを再興するか、崩壊させるかというところだ。

さて書いている間に長くなってしまったので、ひとまず前編としてここで筆を置きたい。後編では企業系列カースト制度がもたらした人生バランスを考察しつつ、解雇規制や既卒差別禁止による「カースト制度崩壊」と、そして逆にカーストの枠組みを温存しつつ新しいカーストを根付かせるということについて検討したい。