BLOGOSに参加してそろそろ1ヶ月になっただろうか。編集部から今月のテーマというメールをいただいて、その中で以下のものが目にとまった。
調べてみると「ゆとり教育」は失敗だったとしてその反対に舵を取る方向だ、ということだが、これを機に昔書ききれなかったエントリにもう一度挑戦して、それを通じて2つの問いに答えてみたい。題して「ゆとり教育はこれから大成功」というものである。
常々思っているのだが、正直老人が若者を馬鹿にしているような「ゆとり教育」の悪い意味での使い方は、本当に感心しない。彼らがもし本当に何も学んでないとすれば、教えられなかった我々の責任。自主性がないのは、自主性を教えない我々の問題なのである。時々「今年の生徒は本当に馬鹿で」と授業中にのたまう先生が何人かいたのを覚えているが、考えてみればそれは「私は生徒にちゃんとたたき込めない馬鹿です」と告白しているようなものだ。
蛇足だがL.starは体罰反対ではないし、生徒はお客だから神様として扱えとか全く思っていない。ただただ、子供がきちんと必要なことを学ぶために、最善のことをなしてほしいだけだ。そこには多少の体罰や暴言も含まれる余地があっても良いと思っている。イデオロギーやら思想やら根性論やらで教育を語られるのを見ると、非常に気持ちが悪く感じる。そういう議論はたいてい「子供の学びをいかに最大化するか」という一番重要な視点が抜け落ちているからだ。
そう、我々は詰め込むにしろゆとりにしろ、効率にフォーカスしなければならない。そして効率とは、教師の手間でも教育コストでもなく、生徒が実際に学んだ質と量に基づいて考えられるべきである。
ゆとり教育が失敗した最大の理由は、ずばり言って「ゆとり教育を評価できる人間が居ないから」につきると思っている。学力低下?低下の原因になっている「試験」は詰め込み教育の結果を計測する方法だ。しかし教育方針を変えたところで、世の中は引き続き「試験」を中心に回っているのである。だからどれだけゆとりにしたところで、試験対策をしないといけない。だからその評価基準のレールから降りるわけにはいかない。必死で塾通いをさせ、良い大学に行かせ、新卒採用に必死になるのである。
だから間違っているのは入り口でも過程でもない、出口だ。フォアグラのように要領よく知識を詰め込んだ無垢な学生をほしがっている企業の採用担当者と、それに最適化して子供の有り様を無視してとにかく詰め込ませることで結果を出させようとする学歴ハッカーの親。こいつらが評価を握っている限り、永遠に日本には詰め込み教育以外の選択肢は現れない。
ただしご存じの通り、この流れは今変わりつつある。硬直化した評価基準を支える構造は崩壊中である。だから、「ゆとり教育」に分類される教育法は、それにふさわしい評価軸において今後大成功を収めるだろう。
そのような社会では、試験の結果なんかより、自ら人生を切り開く力を持っているかどうかがずっと重要になる。それは詰め込み教育で教えることはできない。L.starの友人の中に、ずば抜けた知性の持ち主というのが2人いるが、どっちも詰め込み教育の敗残者で、両方とも学歴はしょぼい。もちろん高学歴で能力が高いのもいる。正直そういう「したたかさ」とでも言うべき能力の高さと、学歴にはあまり相関性は見受けられない。東大クラスになれば話は若干変わるが。
「学力低下」は止まる。必要なのは我々が価値観を変えることである。チートと呼ぶだろうか。いやむしろ個人的には詰め込み偏重こそチートと呼びたい。
誤解をしないでほしいのは、だからといって「詰め込み教育は全くの間違いだ」というつもりも毛頭無い。詰め込み教育は一部の子供には最適ではない、それだけである。「ゆとり教育」にもし失敗を求めるとしたら、それを画一化して導入したことにある。効率を求めるなら、個人個人が異なる存在であると言うことを認めて、個々に最適化した教育を施すことが画一化から一歩進んだ方法であろう。コンピューティングの世界でも同様のことが起こってきている。静的に、画一的な最適化することから、動的にケースバイケースの最適化を施していく方向に。
2つ例を挙げたい。一つ目は、オランダに住んで頻繁に耳にするようになったモンテッソーリ教育やシュタイナー教育といったオルタナティブ教育である。個人的には自分で受けてみたかったとすら思う。これは正直万人に向いた画一的教育とは到底言い難いが、一部には適した教育形態だろう。実際にそういう教育を受けて成功した超一流人物リストも興味深い。
もちろん、これらの教育を日本に導入するのは大仕事である。現状日本におけるオルタナティブ教育は合法教育ではないし。それゆえ普及もせいぜい幼児教育にとどまっている。法改正に始まって、その環境を整備しなければならない。そもそも文化の違うヨーロッパ人向けのカリキュラムだから、日本に合うように調整しないといけないだろう。そうなると、今の日本の義務教育程度まで持って行くだけでも軽く20年は掛かる大事業である。
もう一つはそもそも動的な教育そのものを実装してしまう試みが実際にある。ということである。やや旧聞になるが、ものすごく感銘を受けた「学校の授業を19世紀(工業化社会)型から21世紀(情報化社会)型に変えてしまうTime To Know」と言う試みがある。これは今の教育現場に巨大な改革を強いるため、導入は相当大変だろう。しかし、全体の学習の質を高めることができるなら、それをする価値は絶対にある。このようなブロードキャスト的カリキュラムは実際画一化した義務教育にぴったりだろう。従来の職人的授業形態は、私学教育のようなところで実践を続けることもできよう。
だから「義務教育で教えるべき教養とは?」に対しては「多様性」と言いたい。個人個人に即した成果があり、個性があり、それを組み合わせてよりよい共同体を作ること。そのパーツとしての個人の有り様を肯定することこそ、今の画一性の代わりに教えるべきことでは無かろうか。
あと、強いて言うと話が飛ぶが「メタ学習」というのもあげたい。つまり学習するための方法、ということだ。これの重要性は、多くの「能力のある人」があげるのだが、実際には現在のカリキュラムにはなく、先生個人が自分の技量で教えるに任せられている。効率的な勉強方法、興味が持てること、勉強の楽しみを知ること。そこを最初に教えられないから、自主的に学ぼうという体制を子供に植え付けることができないのではないか。もう根性論はうんざりである。この結果興味は個人の専門分野に分かれるだろうから、これもまた「多様性」なのかもしれない。
最後にもう一度効率という言葉に立ち返って主張を整理しよう。画一的な詰め込み教育は大学受験と新卒就職に特化してしまっている故に効率が悪い。だから代わりに効率を追求するための方法として「多様性のある教育制度」を、ということになる。ここさえぶれなければ、日本の教育もきっと再生すると思うのだが。
・教科書の検定結果発表、"脱ゆとり"に…学力低下に歯止めはかかる?義務教育で教えるべき教養とは?
調べてみると「ゆとり教育」は失敗だったとしてその反対に舵を取る方向だ、ということだが、これを機に昔書ききれなかったエントリにもう一度挑戦して、それを通じて2つの問いに答えてみたい。題して「ゆとり教育はこれから大成功」というものである。
常々思っているのだが、正直老人が若者を馬鹿にしているような「ゆとり教育」の悪い意味での使い方は、本当に感心しない。彼らがもし本当に何も学んでないとすれば、教えられなかった我々の責任。自主性がないのは、自主性を教えない我々の問題なのである。時々「今年の生徒は本当に馬鹿で」と授業中にのたまう先生が何人かいたのを覚えているが、考えてみればそれは「私は生徒にちゃんとたたき込めない馬鹿です」と告白しているようなものだ。
蛇足だがL.starは体罰反対ではないし、生徒はお客だから神様として扱えとか全く思っていない。ただただ、子供がきちんと必要なことを学ぶために、最善のことをなしてほしいだけだ。そこには多少の体罰や暴言も含まれる余地があっても良いと思っている。イデオロギーやら思想やら根性論やらで教育を語られるのを見ると、非常に気持ちが悪く感じる。そういう議論はたいてい「子供の学びをいかに最大化するか」という一番重要な視点が抜け落ちているからだ。
そう、我々は詰め込むにしろゆとりにしろ、効率にフォーカスしなければならない。そして効率とは、教師の手間でも教育コストでもなく、生徒が実際に学んだ質と量に基づいて考えられるべきである。
ゆとり教育が失敗した最大の理由は、ずばり言って「ゆとり教育を評価できる人間が居ないから」につきると思っている。学力低下?低下の原因になっている「試験」は詰め込み教育の結果を計測する方法だ。しかし教育方針を変えたところで、世の中は引き続き「試験」を中心に回っているのである。だからどれだけゆとりにしたところで、試験対策をしないといけない。だからその評価基準のレールから降りるわけにはいかない。必死で塾通いをさせ、良い大学に行かせ、新卒採用に必死になるのである。
だから間違っているのは入り口でも過程でもない、出口だ。フォアグラのように要領よく知識を詰め込んだ無垢な学生をほしがっている企業の採用担当者と、それに最適化して子供の有り様を無視してとにかく詰め込ませることで結果を出させようとする学歴ハッカーの親。こいつらが評価を握っている限り、永遠に日本には詰め込み教育以外の選択肢は現れない。
ただしご存じの通り、この流れは今変わりつつある。硬直化した評価基準を支える構造は崩壊中である。だから、「ゆとり教育」に分類される教育法は、それにふさわしい評価軸において今後大成功を収めるだろう。
そのような社会では、試験の結果なんかより、自ら人生を切り開く力を持っているかどうかがずっと重要になる。それは詰め込み教育で教えることはできない。L.starの友人の中に、ずば抜けた知性の持ち主というのが2人いるが、どっちも詰め込み教育の敗残者で、両方とも学歴はしょぼい。もちろん高学歴で能力が高いのもいる。正直そういう「したたかさ」とでも言うべき能力の高さと、学歴にはあまり相関性は見受けられない。東大クラスになれば話は若干変わるが。
「学力低下」は止まる。必要なのは我々が価値観を変えることである。チートと呼ぶだろうか。いやむしろ個人的には詰め込み偏重こそチートと呼びたい。
誤解をしないでほしいのは、だからといって「詰め込み教育は全くの間違いだ」というつもりも毛頭無い。詰め込み教育は一部の子供には最適ではない、それだけである。「ゆとり教育」にもし失敗を求めるとしたら、それを画一化して導入したことにある。効率を求めるなら、個人個人が異なる存在であると言うことを認めて、個々に最適化した教育を施すことが画一化から一歩進んだ方法であろう。コンピューティングの世界でも同様のことが起こってきている。静的に、画一的な最適化することから、動的にケースバイケースの最適化を施していく方向に。
2つ例を挙げたい。一つ目は、オランダに住んで頻繁に耳にするようになったモンテッソーリ教育やシュタイナー教育といったオルタナティブ教育である。個人的には自分で受けてみたかったとすら思う。これは正直万人に向いた画一的教育とは到底言い難いが、一部には適した教育形態だろう。実際にそういう教育を受けて成功した超一流人物リストも興味深い。
もちろん、これらの教育を日本に導入するのは大仕事である。現状日本におけるオルタナティブ教育は合法教育ではないし。それゆえ普及もせいぜい幼児教育にとどまっている。法改正に始まって、その環境を整備しなければならない。そもそも文化の違うヨーロッパ人向けのカリキュラムだから、日本に合うように調整しないといけないだろう。そうなると、今の日本の義務教育程度まで持って行くだけでも軽く20年は掛かる大事業である。
もう一つはそもそも動的な教育そのものを実装してしまう試みが実際にある。ということである。やや旧聞になるが、ものすごく感銘を受けた「学校の授業を19世紀(工業化社会)型から21世紀(情報化社会)型に変えてしまうTime To Know」と言う試みがある。これは今の教育現場に巨大な改革を強いるため、導入は相当大変だろう。しかし、全体の学習の質を高めることができるなら、それをする価値は絶対にある。このようなブロードキャスト的カリキュラムは実際画一化した義務教育にぴったりだろう。従来の職人的授業形態は、私学教育のようなところで実践を続けることもできよう。
だから「義務教育で教えるべき教養とは?」に対しては「多様性」と言いたい。個人個人に即した成果があり、個性があり、それを組み合わせてよりよい共同体を作ること。そのパーツとしての個人の有り様を肯定することこそ、今の画一性の代わりに教えるべきことでは無かろうか。
あと、強いて言うと話が飛ぶが「メタ学習」というのもあげたい。つまり学習するための方法、ということだ。これの重要性は、多くの「能力のある人」があげるのだが、実際には現在のカリキュラムにはなく、先生個人が自分の技量で教えるに任せられている。効率的な勉強方法、興味が持てること、勉強の楽しみを知ること。そこを最初に教えられないから、自主的に学ぼうという体制を子供に植え付けることができないのではないか。もう根性論はうんざりである。この結果興味は個人の専門分野に分かれるだろうから、これもまた「多様性」なのかもしれない。
最後にもう一度効率という言葉に立ち返って主張を整理しよう。画一的な詰め込み教育は大学受験と新卒就職に特化してしまっている故に効率が悪い。だから代わりに効率を追求するための方法として「多様性のある教育制度」を、ということになる。ここさえぶれなければ、日本の教育もきっと再生すると思うのだが。
コメント