書き始めたら自分だけが止まらない「ネイション」シリーズの第5回。思いついた中でL.starが肯定的に考える「ネイション」は全部紹介し終わったと思うので、最後にこれはだめだ、採用したくないなと思っていた重要なものを紹介したい。それは「反○○」である。 これをナショナリズムと呼んで良いかは疑問があるが、実際ナショナリズムのように働くからそのように扱いたい。

このメカニズムはごくシンプルで「○○憎し」がそのまま共有されて共同体の原則になるものである。○○は好きなものを入れていただきたい。代表的なのは「反米」「反日」「反中」などの国家民族に対するもの、「反共」「反資本主義」のようなイデオロギー、「反キリスト」「反イスラム」の宗教、「反民主」「反マスコミ」のような具体的権力に対するもの、いろいろである。

しばしば「共同体は敵がいなければ団結できない」というような言い方がされるが、それがこの「反○○」である。反証は孤立した文化が安定して存在し続けられた例がいくつも簡単に見つかる。鎖国時代の江戸時代にいったいどんな敵がいたのだろうか。むろん理論上は存在しているが、そんなのを民衆が認識できていたとはおよそ考えづらい。このようなケースでは民族、経済、文化などがその共同体全体を支えるだけの十分な力を持っていたためである。ただあまりにも歩みが遅く、一見その進歩や効力が分かりづらいものである。

しかし憎悪は違う。憎悪は明確な感情のため、共有がきわめて簡単である。簡単に燃え上がって、遙かに巨大な勢力に成長する。他のネイションとも補完的に働き、その勢いを増幅する。 欠点はもっと巨大である。中心にあるものが憎悪であるが故に簡単に暴走するのである。近代以降でナショナリズムが最初に現れたのはフランスの市民革命であることはすでに一致を見ているが、そのフランス革命からして、憎悪故の暴走から免れることはできなかった。

例えば「反社畜」と「労道再興」という2つの勢力は、どっちも現在のあまりよろしくない大企業の労働形態の問題について共闘することが可能だ。しかし企業との戦いに勝利したあとはどうなるだろう。「やる気のある人が本当に自発的に死ぬほど働く」という命題で対決することになるだろう。さらに「反権力」も上記2つと共闘が可能であるが、これはもっとやっかいで、勝利した「反社畜」と「労道再興」は、勝利した時点で権力に変わる。一見強力な「反○○連合」は、このようにあっさり瓦解する。

日本でこの種の図式が一番よく見られるのはマスコミで、彼らは(常にではないが)反権力的な行動を取る。だから野党にしろ若手にしろ、権力のまだ無い人なり団体を持ち上げ、上昇するのを助ける。しかしその人なり団体が権力者になるともうそれは反対する相手、権力の対象である。だからあの特有の「持ち上げて落とす」という、一見すると徹底しない奇妙な行動は、反権力という明確な、一貫した行動軸がある。 こんな感じなので、暴走例はあまりにも多いし、それがどれだけの悲劇をもたらしたか説明は必要ないだろう。

そもそも、敵がいなくなるとどうなるか?巨大な敵を倒した連合勢力がその後空中分解した例は反ナポレオンで一致して戦ったヨーロッパにしろ、反ペルシアで戦ったギリシャ連合軍にしろ、歴史の常連である。あるいはその力を維持するために別の敵を探し出す。

長期にわたって成功した文明というのは、どれも成功するだけの要素を多数併せ持っていて、且つ欠点は非常に少なかったはずなのである。それは芸術的とでも言うべき代物であり、偶然だけで作り出せるほど簡単なものではない。簡単に暴走をするような旗印では、そのような微妙な着地点を見いだすための精密さを致命的に欠くのだ。だから長続きもまず期待できない。

我々は、「ナショナリズム」の力を利用するときに、同時にこのような暗黒面とも向き合わないとならないと言うことを心すべきである。L.starがその避け方を教えられるほど良くできた人間だとは全く思わないが、個人的には常に何も「否定」せずに、何かを肯定するだけで正しい道筋を一つ以上示すことができるか、と言うことに指針をおいている。前4回のどれも、その点は注意深く考えたつもりである。

否定と言う行為は駄目だ、という否定行為を行う逆説的なエントリに見えるが、言いたいのは実は「何かを肯定しよう」ということである。他人を否定するのは簡単だし、理由なんていくらでも見つかる。でもそれは罠だ。何かをなしたいと思うなら、それを廃して自分の道を見つけなければならない。失敗しても良い、気付いた時点で戻ればいいのだ。