日本のナ ショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説

から始まった「ネイション」追求の第二回。第一回では「鎖国」に焦点を当てたが、今回は逆に既存の「ネイション」であったとした企業、ひいては資本主義経済が引き続きその役割をつとめる、と言う仮定に基づいて考えたい。今は激動の時代だとは思うが、だからといって既存の枠組みが極端に変化するとは限らない。それに短期的には、引き続き資本主義市場経済は優勢で、鎖国が必要になるほど壊れるとは考えづらい。だから、これはきわめて現実的な選択肢である。

さてその企業ネイションだが、俗にナショナリズムを「宗教のようなもの」と翻訳するからには、やはり企業も宗教のようなものである。L.starは昔某有名大企業で半年間ほど派遣されていたことがあるが、正直「きもい」「宗教のようだ」と感じた。今にして思うのは、それが「ネイション」であったのだろう、ということだ。しかし一方で労働組合的なものの正義も信じることができなかった。やりたいことは好きなだけやりたかったし、時にはそれが仕事と重なることもあった。そのようなときには、一律で長時間労働を禁止するような規則は邪魔者以外の何もでもなかった。そして、あれもある種宗教じみていたと感じていた。

そこでちょうど良いことに海外ニート氏のエントリで日本で は「労働」が「労道」になっている。と言う、これなどまさに労働を宗教と考えているそのままの名フレーズがあるので、「労道」という単語を拝借させてもらいつつ話を進めることにしよう。しかしL.starはここではこれを再び中核に据える、つまり日本人がまたがむしゃらに働くことによって社会を再興しようというのだから、海外ニート氏のように完全につぶす(と表向き主張する)ことは考えられない。代わりに必要なのは「改革」である。

個人的に思っているのは、人間は誰だって有意義なことがしたいということだ。有意義の定義はもちろん人それぞれで、でかい夢を持った人もあれば小さい夢をこつこつやったりする人もいて千差万別である。しかし戦後の高度成長期において、多数の社員が家族から何から全部なげうってでも「有意義なことをした」と信じて自分のなすべき事をなしたのだ。

このような100%自発的な労働形態を否定する人はさすがに誰もいないと信じたい。なにしろ、いま企業社会が否定されているのは、このような労働形態になってないどころが「自発的」に行動することを強制され、それによって搾取されていることにあるのだ。だから旧世代と新世代の温度差は大きい。旧世代は自分たちのやったことの有意義さ、すなわち「労道」を信じているか、無理矢理信じ込もうとしている。ところが新世代はその基盤は一切存在しないから、そもそも「労道」を信じる以前に感じることすらできない。

このようなケースにおいて選択肢は大まかに2つである。労道を否定し、普通の労働形態に戻すこと。逆に労道を肯定し、再び労働者が有意義な仕事をしていると信じられるようになること。L.starはここでこの2つの両方をミックスすることを提案したい。現在の、ぐちゃぐちゃになった労働階級を再編し、完全に2つに分けることである。それは「労働者」と「労道者」だ。

「労道者」は、それこそ過労死するほど働くジャパニーズビジネスマンの再来である。あるいは欧米のエグゼクティブといっていいだろう。仕事量は無限大。常に過酷なチャレンジ。それをやりがいをもってこなし続けることが求められる。もちろん報酬も高額であるべきだし、無能ならびしばし切られて当たり前。それに対して「労働者」はただの人。たいして刺激がない内容の仕事で、普通に働き普通に休み(ここでの普通は日本の普通ではない。欧州とかの、平然と2週間の夏のバカンスを取るような「普通」である)、ほどほどの報酬を手にする。パレートの法則によるなら、この配分率は20:80になるだろう。仕事量が「労道者」で報酬とやりがいが「労働者」の「社畜」はもう認められない。その逆の「給料泥棒」もだ。

このためにどのような「改革」が必要になるかというのは、あえて語る必要はないだろう。封建的な下請け制度、解雇規制の撤廃、有給消化の徹底、サービス残業などの過酷な労働条件の廃止。むしろ「労働三法を遵守しよう」はルターの「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。」という言葉とだぶって聞こえる。法律は聖書ではないから変えることはできる。でも現状をそのまま明文化することはできまい。このあたりは改革派の意図する「社畜」追放に関して、ひとまずの突破点となるだろう。

もう一方の「やりがい」のほうは難しい。しかし試みとしては現れてきているようだ。例えばカンブリア宮殿で紹介されていた株式会社21だが、ここの会社システムは実にユニークであるようだ。株式会社21の実態は知らないので詳細なコメントは控えるが、それに近いルールを採用していたソフトハウスに勤務していたことがある。いろいろ問題を抱えつつも、そのシステム自体は評価に値するものであったと思うし、自分がもし同様の企業をするなら、あのシステムは参考にするだろう。このような新しい「やりがい」のために作られたシステムなら、昭和的な大企業よりずっと良く動作するだろう。それが動作し、金を集め、人を動かせるようになることが何よりの改革である。

また、このような外部からの「宗教改革」が発生するなら、「対抗宗教改革」も同様に期待できるであろう。日本の大企業は確かに苦しんでいるが、曲がりなりにも競争を生き抜いた産物であり、やわではない。何処かの段階で誰かが気づいて、やりがいを再興することは十分考えられることである。ただし、再興できない、あるいはやるつもりはないという企業は消えるべきであり、むしろ積極的に消すことを支援すべきである。

と言うわけで今回は「宗教改革」に範を得て日本の企業ナショナリズムの再興について考察した。読んで分かるように独創的でない。それは、改革が現在進行中で、十分に議論されてきていて、しかも成果まで現れつつあるからだ。そういう意味でも非常に現実的な、というか全く妥当な選択肢だったといえるだろう。しかしナショナリズムの観点から一番重要なのは何かというと、そのために必死で頑張りたくなるような「やりがい」の創出だろう、ということを述べたかった。若者が喜んで自発的に働く社会ができれば、日本は必ずや大回復を遂げるだろう。長い道のりだ。