日本のナ ショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説


は個人的な追求の結果として書いたものだが、それに対する反響として「じゃあ日本の新しいネイションとは何ですか」という新たな問いが発生する。「ネイション」が決定するのは勢力争いの結果であり、それを予測するのは大変困難を極める。それゆえ、喪失したことを指摘するのと、その次は何かを予測するのには、きわめて大きな溝がある。しかし当然、最初にこの仮説を出した以上、そこに踏み込まざるを得ない。実際それに苦しみつついろいろ草稿をしたためたりしていたのだが、実際にいくつか自分なりに積み上がったものができてきたので、一つ一つ時間を設けて書き記してみたい。

まずは一番簡単な、民族(=国家=日本宗教)がナショナリズムの勝者となるケースである。L.starが「鎖国派」と称するものであるが、今回はそれを肯定的にとらえ、それが有効になるような状況を仮定して、どういう社会になるべきか、その一端を考えたい。

日本民族と国土が再びナショナリズムの中心になる、という場合、他国との関わりを最小化する方向に当然向かうだろう。しかし中国が、ロシアが、アメリカがEUが健在な間は、日本を放っておかない。最小化することが最適解になるのは、個人的には「大国が全部崩壊した」ケースになるだろうと考える。つまり「暗黒時代の到来」である。アメリカ帝国が崩壊すると同時に近代西洋社会はついに終焉を迎え、その礎であった世界規模経済に支えられていた文明も崩壊する。技術も文化も多数が失われるのは間違いない。そのような状態においては、グローバリズムに背を向けることは正解である。

その点「中国が脅威だから」というのは鎖国の理由にならないだろう。本当に強ければ日本を踏みつぶすだけだから。そのようなときに世界規模経済という現在最強の武器を手放すのは愚行である。むしろ中国が弱いときこそ、本当の意味の 鎖国と向き合うことになる。崩壊の確率算定はL.starの手には当然余る・・・しかし0ではないだろう。むしろ20%はあるのではないかと感じている。もちろんすぐではない。

そのような時に日本を残すための「鎖国」いやここはあえて「ネオ鎖国」と呼ぶが、世界規模経済に依存できない以上、日本で手に入る限られたリソース中心で成立する社会である必要がある。閉じた社会であるため、長期的に存続するためには当然低成長であるべきである。環境保護主義、つまり「エコ」なのだ。高効率低成長超エコ社会というとこれは当然江戸時代が思い浮かぶが、現代の技術で江戸時代を再現することこそが「ネオ鎖国」である。地球温暖化に疑問を抱く必要など無い。自分たちが生きられるだけの高効率を得られるかどうかは最重要課題になり、寒冷化していようがCO2がどうかなど、一切関係なくなる。人口は当然科学技術がどれだけのアシストができるかに掛かっているが、もちろん江戸時代の4000万はクリアする。しかし1億2000万はまず無理だろう。7-8000万が妥当な数字であろうか。産児制限のようなものは当然行われるであろう。

社会そのものは当然管理社会的になる。効率を維持するための監視社会になり、プライバシーに関する考えも今とずいぶん異なる形になるだろう。適正配分のためには政府の権力は強化され、下手をすると配給制にまでなりうる。身分制度などは分からない。封建主義的な固定身分制度も有効だろうし、社会主義的平等が実現できるなら、ベーシックインカムのような強力なセーフティネットによって後押しするだろう。

しかし個人的に疑問なのは、このような社会がいったいどのようなナショナリズムを持ちうると言うのか、である。しばしばSFで描かれる近未来の管理社会は、たいていの場合効率を重視しすぎて味気ない社会であり、あまりうれしいようなものに思われない。漠然と楽しく生きた江戸時代は、素晴らしい社会となったのは確かだろうが、その後の西洋との戦いの第一ステージは惨敗も良いところであった。まあもちろんそれもいいのだが、しかし一つ提唱したいものがある。タイトルでぴんと来た人にはもう分かっているだろう。「世界規模経済社会の復興」である。

このアイデアの軸になったのは「ファウンデーション(アイザック・アシモフ)」である。だからタイトルは日本をターミナスに見立て、(第一)ファウンデーションにする。そして科学技術や歴史と言った過去に伝えるべき要素を守る役目を担わせ、また復興の基点にしよう、ということだ。この点、大陸辺境部にあり資源に乏しい日本は、ターミナスと見事一致している。そして実際に鎖国経験の歴史を持つ文化になら、まさに適任だろう。当然「第一」とわざわざ銘打っているだけに、「第二」の方は、帝国として成り立つときに必要なものであるし、正直それに類するものの考察すら不可能な存在であるからして、考慮外とするしかない。

まとめると、「ネオ鎖国」が妥当になるケースは世界秩序が崩壊に向かうときであり、その方法をとるに当たって重要なのは「高効率」「低成長」「環境保護主義」といった要素である。ファウンデーションが必要な状況にまでならなくとも、世界に動きが少なく、全体的に閉鎖気味になり、その小康状態で長期間安定するようなケースでは相性は良いであろう。そのような状況になりうるかどうかはよくわからない。個人的にはあってほしくない、避けるべき未来であると思う。

最後に、世界が崩壊しなくても同様に鎖国にならざるを得ないケースが一つあることを指摘しておきたい。それは世界経済が拡大して、単一ネイションが完全に世界全体を覆ってしまうときである。このときには地球全体が鎖国であることを余儀なくされ、しかも確実に周りに交易相手は居ないのだ。主に地球温暖化と切り離してエコの必要性を論じている人の多くは、このような状態に将来行き着くことを認識して発言していることが多い。今崩壊しても、今後成長しきってもどっちにしても問題に直面するのなら、エコを推進することは正しい帰結だろう。