BLOGOS参加記念として、久々に一つあげてみようと思う。といってもL.starは緻密なデータを元に何かを明らかにするような能力には明らかに欠けているし、学術的に理論を積み上げるような人でもない。そこでやはり、ここは自分の経験に基づいたものにしてみようかと思う。また現在日本人のアイデンティティはどうあるべきか、というのを個人的に追求している。だから、自分におけるアイデンティティの形成と言う視点から語ってみたい。

そのアイデンティティというのは、開かれた日本に対する信頼である。閉じた国の中で自分たちの平安を追求するのではなく、開いた世界の中で戦い苦しみ、その中で如何に良い世界を形作るか、ということの素晴らしさと言うことだ。正直に言うが、これは半端無く大変である。誰かに言われるまでもなく、自分の中の悪魔(いや、本当は天使かもしれない)が「もういい加減十分戦ったよ。休もうよ」というシグナルを何度も発してくる。それに破れたことも一度や二度ではない。それでも開かれた日本を信じ、それに沿うように自分を動かそうと頑張っている。残念なことに、結果はまだ伴っているとは言い難い。

しかし、かつてL.starはまあそれほど熱心ではないといえ嫌韓だったし、ネトウヨと同様の思考回路を有していた。ところが今は彼らとコメント欄で言い争いをするような状態である。客観的に見ても、2008/11には「日本人よ、オランダを真似るな」などという題でオランダの政策を日本に導入することに否定的なことを言っておきながら、2009/8には「オランダに住んでいるからこそ思 う、外国人参政権論を考えてみた」で、オランダにある程度感化された発言をしている。いったいどこで、何がきっかけで閉じられた世界から開かれた世界へ移行しようと思ったのか?と考えた。

しかし正直、特別なものは何も出てこない。

  • 自分のルーツと異なる文化を目で見て学ぶ機会に恵まれたこと

  • そんな文化圏に生きる人々とその生活に触れる機会に恵まれたこと

  • その異なる文化圏の中に統合されている日本を見つけたこと


上の2つは日本でも体験できる。L.starはそもそも関西人で東京に引っ越してきたが、これだけでも小さくない違いをいくつも見つけることができた。最後のにしても、関東で見かける関西の文化圏というのも、若干ながらあるわけで、そういうところから見つけることができただろう。もちろん、日本とオランダは、東京と神戸より遙かに大きな違いを有しているが故わかりやすい。メリットと言えばこれだけである。

具体的にそこからどんなことを見つけられたか、と言うのも見ていこう。オランダの文化と日本の文化は、もちろん重なる部分もある(それは日本とオランダの共通点って何だろうで考察した)が、異なる部分も非常にたくさんある。そういう異なる文化圏を、その文化に対する偏見のない目で俯瞰的に見つめることができたことはやはり大きい。そして、旅行を通じて多数の文化に同時多発的に触れることにより、比較考量することができる。そうして比較していくことで、どの文化も「その文化の視点から見れば」おおむね完璧である、という一つの事実に気づいた。これは日本も例外ではない。

例えば「オランダ料 理がなぜまずいか、君は考えたことがあるか」で、オランダにおける食文化を考察しているが、これは特にベルギー、イギリスとの比較から思いついたものであるが、オランダ文化が個別に完璧であるという前提に立っている。そのような視点を持てることが、自分の、ひいては日本のありようというのを再確認できる結果に結びついた。逆に言うと日本人が「日本文化はシンプルだ」と思っているのは、自分たちの考えにマッチするからであるところが大きい。その偏見を捨てて、公平な視点を獲得しない限り、本当の日本は見えてこない。

しかしこれだけは断言しておきたいが、その視点に立って見える日本はなかなかいいものである。L.starが日本人の考え方から脱却できていないということをさっ引いても、日本は実にユニークで、高度で、発信するに値する魅力のあるものに満ちあふれていることがよく分かる。だから、ガラパゴスであることは、決して悪いことだけではない。そういった魅力的な部分は、すでに欧米では取り込まれはじめたり、現地文化に溶け込んでいたりする。

でも良いことばかりでもない。極端な例で示すと、SUSHIやSYABUSYABUはみんな大好きで、でもNATTOは微妙で、KAROSHIは間違いなく嫌い。それを見定めるためにも、お互いをきっちり理解していく必要がある。日本人は文化を相手に伝えるのが下手だ、と言う意見はよく聞くが、その理由として「相手の文化をよく知らないから」と言うのは大きいだろう。我々もまた、同様に相手の文化から学ぶことができる。

これらを一気にまとめて言うと「一歩下がって、全体を見れば日本の良さを再確認できる」とでも言うべきだろうか。その再確認できた良さは、相手を認めることによって発生するものであるから、何も否定する必要はない。だからこそ、自分自身が日本を改めて信じる原動力になっている。二種類の日本人でもオランダ人が日本人をどう思っているかと言うことについて書いたが、日本が強かったときには、相手の良いところを堂々と取り入れることができたのだ。また、堂々と彼らのニーズを見つけ、それにふさわしいものを多数売ることができたのだ。

じゃあ何がいったいその「再確認できた良さ」なのか、と言うことについては、又折りにふれて語ってみたい。