昨日は「ネイション」の話をしたが、それに関連する話を一つ。これは又聞きだったかコピペだったか記憶にない。ある日本人がある書類に「宗教:なし」と書いたところアナーキストと勘違いされて一時騒然となった、という話を聞いたことがある。欧米ではなにがしかの信仰を持っているのが当たり前であり、持たないのは異分子なのである。それでテロリストか何かとの疑いをもたれたらしい。

当時はまだ日本にいたが、なるほど確かに自分でもそう書きそうになる、と思った。実態はどうだろうか。「なし」と書きたくなる日本人の大半は、いかなる意味においてもアナーキストではない。ゆえになにがしかの宗教を書いてもいいのだろう。今L.starは英文として正しいかどうかはさておき"My religion is a hybrid of Shintoism and Buddhism."と答えている。仏教と神道のあいのこ、である。あとはそれが典型的な日本人のスタイルだ、と言っておけばいい。幸い典型的なカトリックもプロテスタントも、日本人が神道や仏教に抱く程度にしか宗教をまじめに考えていない。ミサはクリスマスにしか行かない。謝肉祭から復活祭までの断食もまじめにしたりしない。盆と正月と冠婚葬祭以外でまじめに考えない日本人そっくりである。まだイスラム教のラマダンの方がまじめである(といっても彼らが断食するのは日中だけで、日没とともに暴食開始らしいが)

この誤解がおこるのは、結局のところ日本人は民族と宗教の区別をする必要がなかったからである。日本人以外に日本固有の宗教を信仰している人はほぼ誰もいず(アムステルダムにはオランダ人の神主がいて神社もあるが、それは例外中の例外である)、ごく少数の他の宗教の信仰者以外はその区別をする必要がないのである。実際例えば初詣を考えると、これは100%神道の行事のはずなのだが日本人の行事のように思われる。もう一つは国教としての神道が敗戦により否定されたことであろう。当時なら自分たちの信じているものを「神道」と堂々と呼べたであろう。地理的状況や仏教や儒教が定着する過程なども、もちろんこの状態を後押ししただろう。

これがヨーロッパだとキリスト教国家は複数あるため、切り出しが可能である。また他の宗教との軋轢も経験している。だから彼らから見るとこの2つが別物なのは自明である。世界的に見たらこの2つは切り離して考えないといけない。

区別がつけられないのは民族と宗教だけでなく国家と文化も区別がつけられない。民族と国家と文化圏がほぼ一致するというのはレアケースであり、たいていはどれかが小さかったり大きかったりするものである。それは貴重なものだと主張することは可能だ。しかし、それは正しく物事を理解しないことの免罪符ではない。むしろきちんと区別をつけて理解することこそ、正しい理解のありようを学べるのではなかろうか。

ヨーロッパ人はうまみと他の味の区別をつけられないが、日本人は民族と宗教の区別をつけられない。違いとは、意外なところにあるものである。だからこそ異文化との交流はおもしろいものである。