個人的に、どうも話が合わない、と思うことは多々ある。

外国人 参政権なんかよりずっと重要な話をしないか – あなたは開国派?それとも鎖国派?


において、論点を2つに分けて議論をすればいい、と考えたが、合意点がそれなりにあるのに不思議と大きな壁を感じる。議論をする姿勢のない人ともそうだが、まじめな人にも似たものが感じられるのだ。まるで違い宗教を信仰していて、お互いに聖典についての終わりない罵声の投げつけあいをやっているかのよう。彼らとL.starの間には、どっちが悪いか、ということを抜きにしてきわめて大きい壁が広がっていると言っていいのではなかろうか。それを果たして議論のベースにして正しかったのか?という考えがある。

また「日本とオランダの違い」を列挙するに当たり「もし日本の外国人参政権問題とオランダのイスラム教徒問題を同じに扱う場合、それは何を持ってくくれるのか」という逆説的な問いが頭の中に思い浮かんだ。実はこの2つに共通しそうな概念が一つ思い浮かんだ。

ナショナリズム。

L.starが毎度のように使うマクニールの「世界史」では、今の欧州と中東の問題を「宗教的ナショナリズム」という単語で説明している。ナショナリズムとは「ネイション」という曰く説明しがたいが民族のようなものを中心に、エネルギーやリソースの集約的な利用を可能にしている何かである。そこで考えたのがネトウヨさんたちは「民族的ナショナリズム」に退行しているのではないのか、ということだ。退行?しかし何から?退行と言うからには、日本には民族的でないナショナリズムが存在していたことになる。

その問いに答えるために、ここから「ナショナリズム」という単語を拡大解釈して歴史をひもとき、L.starの一つの独自解釈を述べたい。独自解釈なので用語等のぶれがひどかったり、既存の用法と異なっている可能性が高いが容赦されたい。どのみちまだ近似値的なものであり、具体的に定量化されて示されているものではない。

かつて日本が一枚岩だった、そしてその幻想が失われつつある、いうことはあちこちで言われて久しく、改めて示す必要はないだろう。しかしその一枚岩とは何だっただろうというので、以下のようなものが思い浮かんだ。

  • マスコニュニケーションによるブロードキャスト化した議論

  • 親米資本主義

  • 大企業中心の年功序列終身雇用


一番上は典型的な国民国家の戦略であるからのぞくとして、しかし2番目と3番目も大企業中心と資本主義は相反しない類似した概念といえなくもない。そこで独自研究だが、戦後日本は「民族ナショナリズムによる国民国家である戦前から国民国家である部分を、大企業と官僚がそのまま継承した」というのをぶちまけてみたい。誰か同じ言説をしている人がいるといいのだが。しかしこれによって、大企業が日本で果たしてきた役割の多くを解釈可能なのではないかと思う。出世システムと社会的地位の一致、会社への強い服従の要求、そして転職の少ない新卒採用終身雇用などである。またマスコミや政府に対して大企業が強い支配/発言力を持っているといわれるのも、このような社会形態であれば全く納得のいく話である。

しかし大企業が日本の「ネイション」であったとするならば、それがやはり崩壊の危機に瀕しているのもまた事実なのではなかろうか。企業が「ネイション」であったかどうかはともかく、大企業が従前の能力を果たせなくなったことはわざわざL.starが指摘するまでもなくいくつかそういう説があるし、納得できる部分が多かろう。そこで大企業に代わるネイションを、と考えると

  • 大企業:経済面から精神面までをカバー、国際化しており世界中に存在。

  • 言語:日本国土以上の発展は望めない。

  • 領土:海洋国家であるため国境はほぼ不変。一部の島の領有権問題ぐらい。

  • 民族:日本民族はこれ以上の規模発展は望むべくもない。○○系日本人として増やせるのは移民程度。

  • 宗教:神道は日本民族以外に信者なし。仏教国は連携があまりない。

  • 文化:寿司・アニメ等を中心に現在拡大中。


となり、企業より明確に広いネイションを提示することができない。ここで欧米や中東では国家より民族や宗教が大きいケースがあるため、それらが受け皿になるのだ。しかし日本にはそれがないのが状況を難しくしている。文明は拡大するか崩壊するか停滞するかの3種類かしかありえないため、拡大が難しいということは停滞か崩壊か、ということになるからだ。通常勝者になるのは現在の状況にもっとも合理的な説明をできるものであり、現在のネイションに納得できない人がなにかを発見して新しい支持基盤に移動する、というのはすでに多数起こっており、それによって多数の少数派が生じている。以下にL.starが認識している例を挙げよう。

資本主義のありように疑問を感じた人たち


かつての新左翼である。彼らは60-70年代に安保運動を通じて活躍したが、結局多数派となってネイションを確立するまでの大きさを維持することはできなかった。今となっては、ソ連崩壊もあって共産主義はネイションたり得ないだろうと思う。

民族主義と宗教に再び関心を寄せた人たち


L.starは嫌韓ネトウヨをこのカテゴリーに入れているし、そういう意味で過去の自分がこのカテゴリーに属していたことを認める。彼らはマスコミや左翼の報道、隣国のありよう(反日)に疑問を抱き、それよりもずっと説得力のあるモデルを「発見」した。ネットに散見される愛国的なコピペがそれである。おもしろいのは麻生元総理の立場であり、彼はもともとそういう主張に近く、しかもマスコミから強い(しかも不当と思われる)弾圧を受けることによって民族主義的なヒーローの地位を手に入れていたと言ってよいだろう。おもしろいのは、その麻生を叩いたマスコミや民主党は敵、と見なされていることである。彼らが反日にいらだちを覚える中、民族をネイションの中心におくことで自説の強化に走ることは全く妥当な行動と思う。世界規模が民族の中に収まっていられないほど拡大し続ける中で、彼らが「民族」に退行しているのは、L.starとしては叩かずにいられない点である。いや、過去の自分と同じものを見て嫌悪を覚えているだけだ、といわれるとその通りかもしれないのだが。

民族と宗教の分離が明確ではない日本では、神道への回帰もこのカテゴリに入るのかもしれない。しかし、仏教という枠組みは見たことがない。宗教として、現在それだけの求心力を有していないと言うことだろうか。

国家連合など、国家ナショナリズムの拡大に求める人たち


現在のEUがとった道はこれである。また鳩山総理の「東アジア共同体」はここに分類されるべきであろう。他民族とのいざこざを棚に上げて併合しようというのであるから、当然民族ネイションの方々とはきわめて仲が悪い。個人的にはかつてのパクス・アメリカーナこそ拡大された国家(と資本主義)ナショナリズムの頂点であり、世界的にはこの点で新しい枠組みを必要としているのではないかと思う。しかしそれは日本だけでは決められない問題である。世界的な落としどころとして正しいが、日本としてこれを基盤とするのは難しいのではなかろうか。むしろ東アジアより、ミクロネシアの島国とのほうが理解を得やすいのでは(ただし経済的な問題は大きかろう)

現在の企業のありように疑問を感じた人たち


城繁幸の「若者はなぜ3年で会社を辞めるか」や梅田のシリコンバレー礼賛などが典型例であろう、現在の企業の主に非効率なところに焦点を当て、ネイションとして引き続き企業の役割を重視するが、その改善を促す勢力である。ただし、大企業システムは良くも悪くも非効率な部分とも強く結びついて存在しており、これの改善=現在の大企業社会を直接否定すること、それゆえに大きな反発もある。今頃蒸し返すのもどうかと思うが梅田の失敗は結局のところ自分の言説が他のネイションに対する不快感を巻き起こすことに気づけなかったからだと解釈可能である。

国民国家の実現母体としての企業に疑問を感じた人たち


労働運動の人たちや、反社畜、大企業の労働体制を批判するのはこのたぐいである。企業を直接否定しないが、しかし企業が不当に取り分を求めることをやめさせ、自分らしい生活をというものだ。これは当初上と同じものだろうと考えていた、しかし今日まとめていく上で違うものだろう、ということに気づいた。しかし現在の体制批判と改善を求めている点は同じであり、親和度は高いし、両方に同意する人すらいるだろう。ただ、ここから新しいネイションは見えてこないため、そういう意味では「反現在の企業」でまとめてしまっていいのかもしれない。

日本文化の発展に期待を寄せる人たち


世界に広まっている日本文化そのものをネイションと見なし、それの拡大を持って日本拡大と見なす考えである。ちなみに文化をネイションとなりうると見なすのは、さすがにL.starの新説というか珍説だろうと思う。問題はこういうもののうちどれがもっとも説得力を有するか、なので一人支持しても何一つ意味がない。そもそも寿司食うやつが日本の仲間、と単に見なすのは強引に過ぎる、というのは認めなければならないだろう。

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さてこのように考えると、大きな差異を感じるのはお互いに認識している「ネイション」が異なるからだ、ということになる。ちなみにL.starが開国派鎖国派と読んだのは、ネイションのサイズを現在より大きくとるか小さくとるか、ということでもある。

かつて外国人参政権のことを「アイデンティティの問題だ」と言われて頭をかしげたことがあって、それがずっとひっかかっていたが、なるほど確かにこれならアイデンティティの問題である。であるなら、なおさら彼らに対して「No」と堂々といえる。また「想像の共同体」で済ませられるものじゃない、と同様にコメントで指摘されたが、まさに「想像の共同体」の問題そのものであると堂々と反論できる。これは同時にL.starが探していた「救済の言葉」の理解に役立つものでもある。救済とは「ネイション」の確立によってもたらされる。これが分裂している間は、日本の閉塞感も続いていくのだろう。しかし、もっとも説得力と求心力を持ったものが次世代の日本を支える礎になるのだ。「ネイション」が先か、個別政策が先かは難しいところだろう。しかし少なくとも個人レベルでは「ネイション」を念頭に置いて行動でき、それが説得力を持つ結果をもたらしたなら追従者も増えるだろう。

この仮説は、あるいみ去年から参政権問題で、シリコンバレーに関する考えで、日本の今後のありようについて考え抜いたことの集大成だと考えている。むろんおおざっぱで、理論的裏付けにかけるのはその通りだろう。ただこれを文章にできたことで、自分の中にあったもやもやをずいぶんはき出せた。問題はこの仮説を元にどのような行動をとるべきかということで、そこはまあいろいろ考えているのだが次回以降と言うことで。