日本の大学へ行ってはいけない理由


id:elm200さんが最近飛ばしまくっている。本質的な部分において、L.starは彼の意見にほぼ賛成と言っていい(つまり海外に行くべきだ)。が、しかし個別の部分、特に説得力の部分で文章に疑問を感じざるを得ない。
日本の大学の最悪な点は、学生たちに反知性主義を叩き込んでしまう点にある。

これはむしろ大学の問題点ではなく、社会構造の問題点である。大学を悪者にするなら、中学、高校、塾、予備校、どれも同じように悪者であるべきだ。むしろ、偏差値至上主義だった中等教育こそ、知性を否定し条件反射だけを肯定する元凶ではないのか。だから
改善する方法は実は比較的簡単だ。進学・卒業の規準を厳しくすればいい。

こんな方法だけでは手口の巧妙化を招くだけで、多分絶対に解決しないだろう。どのみち卒業して企業に入ってしまえば逃げ切れるのだ。ちなみに「ゆとり教育」はそう言う状況を打破しようとした産物であるが、全く逆の方法をとっている。ちょっと話がずれるが、ゆとり教育は無残な失敗だった、という言い方を良くされるが、ほとんどが従来の詰め込み教育側からの、詰め込み教育的価値観に乗っ取った判定であり、フェアではないなと感じている。ちなみにL.starの考えは、「ゆとり教育」の結果起こった「ゆとり世代」の問題行動と呼ばれるものは、自信のない人間が自己防衛としてとる行動にそっくりであることから、単に失われた20年で若者がそのよりどころを失った結果ゆえであり、ゆとり教育がどうだったのかは本当はよく分からないというか、実は良くも悪くも効果無しだったのではないかとまで考えている。まあ個人的な意見である。

話を戻して説得力の部分であるが、結局「海外に行け」というのは手段でしか無く目的ではない。

15歳の君たちに告ぐ、海外へ脱出せよ


もそうだが、強い方向性の示唆とその手段はあるが、目的が希薄である。また、大学教育に対する否定の言葉は非常に強く、海外を肯定するより日本にいては駄目だ、といういいようになる。いつもの言い方をすると、救済の言葉がないのである。

そこでふと考えた。海外にいて、何が身につき、どのようなことに気づき、どのような救済が得られるのか、というのを説明すべきではないのか。学力だろうか?日本の大学のレベルは、上の方ではそれなりに高いので、正直よほど専門性の高い場所か、レベルの高い大学でもない限り相応のことが得られるであろう。だから正直わざわざ学力だけのために行くとは思えないのだ。そう言う意味では、わざわざ海外の「大学」に行く必要などあるとは思えない。なら、別に15歳に対するメッセージである必要は無い(もちろんelm200氏にはそうである必要性がある。タイトルで釣るために:) )心が若ければ誰にでも受け止められる、もっと普遍的な言葉があるはずである。

・英語力
これは「高い英語力を身につける」という知識技量的意味ではない。平均的日本人の英語レベルが実は高い、ということを認識することである。ブログで書いたかどうかは覚えてないが、ヨーロッパでも英語が通じやすいというオランダは、実際よく英語の通じる国である。しかし、大半のオランダ人の英語はブロークンで、文法単語両面においてたいしたことはない。日本の中学生レベルである。しかし日本人は英語がしゃべれないと考えている。まあ実際英語を「使う」ことについての「壁」があるのだ。まあ良く言われることである。その壁を以下に克服するかは使うのが一番なのだが、もう一つはいかに自分のレベルが高いかを認識することである。それが自信につながる。日本人は自分たちの英語レベルに自信を持っていい。なにもオランダ人をおとしめたいわけじゃない。日本人が勇気を出して中学程度の英語をがんばって使うなら、それはもう一般人としては十分以上のレベルだと言うことだ。そしてむろん、海外生活は多言語の会話力向上の強い味方である。

・ワークライフバランス
日本人は日本人のワークライフバランスで生きているのがあまりにも当たり前なので、他のバランスがあると言うことを理解できない。頭で分かっていても体で理解できない。それを理解するためには、実際に別のバランスの仕事に身を置くことしかない。一例としては、会社のために家族も趣味も捨てて滅私奉公する社畜なんかがいいだろう。海外ニート氏は、実際に海外での勤務経験を通じてその呪縛から解放された人である。ちなみに欧米でもエグゼクティブクラスは死ぬほど働く。が、これはその代わり責任も当人に対するリターンもバランスとってる一般社員とは桁違いであり、別物と言える。

とまあ2つ上げてみたが、一般化すると「価値観の違い」だろう。朝食に何を食うか、友人とどんな話をするか、言語にどんな特有の言い回しがあるか、何がブームか、好きか嫌いか丁寧か雑か、そう言う一切合切の「違い」を認識できることこそ、海外で身につけられる、身につけるべきものだ。それは関東と関西にもあり、海と山にもあり、男性と女性にもあり、文系と理系にもある。だから日本だけで十分、と切り捨ててはいけない。世界にはもっとたくさんの違いがあり、違わないものがある。大切なのはどちらかが優れていることではない、お互いが異なっていて、異なっていることを理解していることだ。優劣は一方にしか働かないが、差異は両方に働く。日本が海外から学ぶことが多かったように、欧米もまた日本からたくさんのことを学んでいる。それができるためには、まずお互いがお互いの違いを知らなければならないのだ。

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とまあここまで考えて、結局海外に出ることは有効な手段の一つだが、必須でも何でもないんだな、と言うことに気づいた。だから最後に私なりに「15歳の君」に提言ができる、と思う(多分読んでないけど)

それは「違いが分かる大人になりなさい」ということだ。たくさんのことを経験し、学ぶことによって、広い視野をもって、違いの分かる人になって欲しい。そのためには海外に出るのもよし、本を読むのもよし、専門を持つのもよし。かつて日本に存在し、経済成長の原動力になった画一化された社会という幻想というものはもうない。みんながどれだけの違いに気付け、それを共有できるかが、我々の未来を明るくするか真っ暗にするかを決めると言っていいのだから。

単に闇雲に行動してくれと言うのはL.starとしても心苦しい。が、しかし私はこの「気づき」を教えることはできないし、教わることもできなかった。反復訓練は心に響かない。知識を鵜呑みにしてもそのままでは役立たない。自分で成功と失敗することだけが本当の意味で唯一の勉強法になる。心配しなくていい。誰もが通った道なのだ。思い切って失敗しなさい。そして体に刻みつけなさい。

そして見つけた違いはしっかり咀嚼して欲しい。嫌いだからと捨ててはいけない。違いのなかにある、あるいは違わないことの中にある本質を見いだしてほしい。オランダ料理がまずいのにはたくさんの理由がある。文明が滅びるのにもたくさんの理由がある。インターネットがあるのにも理由がある。全部知らなくてもいい。知っている人同士で補完しあえばいいんだから。でもだからこそ、自分が一番知っているものを持つべきである。

最後に違いとその理由が本当の意味で分かれば、新しい「違い」を意図を持ってもう一つ世界に加えることができるだろう。それは、我々文明に生きて文明の中で死ぬ、違いの分かる人に課せられた本当の義務だ。金とか名声とかはその過程で手に入れられるものだが、あってもなくてもどうでもいい。

この本当に広くて狭い世界にようこそ。我々と一緒にこいつをどう良くできるか、最善の限りを尽くしましょう。