オランダに住んでいるからこそ思う、外国人参政権論を考えてみた


もう民主党に売国されちゃいなよ、日本人!


でうんざりするほど書く羽目になったコメント(現在合計120弱で、半分近くがL.star)も落ち着いた。恐ろしいことにこれを読む人がL.star以外にもいると言うことだ。かの伝説のotsuneがこれまた5回もコメント欄からreblogしている。抜き方からしてどうやら全部読んだらしい。他にもトラックバックがなかったが「これコメント含めて全部理解すれば完璧!」みたいなことを言っているエントリもあった。世の中には馬鹿(ほめ言葉)もいるものだ。しかしコメントを書くことによってそれなりの知見を深めることができたと思うが、一方でこんな無駄もなかったと思っている。何が無駄かというと、このコメント欄でのやりとりを通じて誰かと何らかの同意に達することができたかというと、恐ろしく怪しいからだ。

L.starは多くの人たち(ほとんど民主党案反対派)の考えに不信感を抱いていたが、それを払拭するようなデータは結局見つからなかった。向こうは向こうで、コメントするのをやめたのは論破されたからではなく、揚げ足取られてむかついたから、とかそう言うレベルだろう。相手のほうが正しかったから、とはきっと思っていまい。そこにあったのは憎悪のぶつけ合い、足の引っ張り合いである。そこには日本再生の文脈はない。それどころが、残念な位置にいる人をいかに救済するか、という文脈もない。自分の位置に固執するための罵り合いに、いったい何の意味があるのか(いやおまえも参加したんだろう)こんなことをしていても、日本は何一つ良くならない。

残念じゃない日本ってどんなのか、考えたことがありますか? - みんな、自分に自信を持とう

こんなエントリも書いたが、我々の社会に必要なのは救済と再生である、という考えは未だにL.starの中心にある。そして、再生の言葉については心配していない。日本をどう変えるべきか、と言う議論は、今のWebでも頻繁になされている。愚にもつかないものからすごいものまでいろいろある。日本が再生できる、と言うのについては安心できる。来るべき再生の時には、しかるべき能力の日本人が現れ、新しい日本を作り上げるだろう。

問題は、しかし相変わらず救済の言葉が無いことなのだ。それが先になくして、再生の道筋をたどることができない。我々に必要なのは、子犬のようにキャンキャン叫ぶことをやめて実質的な再生に目を向けなけること、そんなのもはや誰でも心の奥底では知っている。しかしそれをやめる前に、それをやり続けていた自分と向き合わなければならない。例えば社畜を例に取ろう。社畜として生きることがいかにひどいことか知らないサラリーマンはめったにいない。しかし、社畜を否定することはすなわち自分の過去の全面否定である、と言う現実の前には、社畜以外の生活がどれほど素晴らしくても無意味である。それを変えるためには強い行動力が必要だし、それを支える言葉がいる。

例えば「騙された」と気づく人がいる。まっすぐ進んで行き詰まる人がいる。無理矢理外に放り出されて、後で気づく人がいる。これらのひとは社畜であることから逃げ出す力になるだろう。海外、というのもいいものである。自分が今まで信じてきた、あるいは信じざるを得なかったものを疑うきっかけになるからだ。それで人間は成長できるのだが、しかしそれをうまく導くことはできないのだろうかと思う。もちろん真っ正面から立ち向かっても駄目だ。多分寓話的なところから、回りくどくやらないといけない。

20世紀の日本には、それをできた人いた。昭和天皇の玉音放送だ。あの言葉をもって、第二次大戦的価値観はすべて終わりを告げた。逆に三島由紀夫は失敗したと言ってもいいかもしれない。彼の言葉は印象的であったが、しかし日本は止まらなかった。再生の言葉を語るブロガーがいるなら、その対となる救済の言葉を語る人も要る、それがL.starの思いである。そして、今回は見事に失敗したと認めざるを得ない出来だった。彼らに対して結局どんな言葉をかけることができたのだろうか。いやまあ、ブロガーごときに語れるものであれば、苦労はしないんだろうけど。

しかし、Wordpress2年目をやっていくにあたり「救済の言葉とは何か」というのは、一つのテーマにしたい、と考えている。