彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらない で、真理に基づいて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしようか。納めるべきでしょうか。納めては ならないのでしょうか」。

イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。

彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。

するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。

新約聖書マルコによる福音書12章14~17節。訳はhttp://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/mark.htmより引用。

数回の技術からずいぶん寄り道したエントリを書きながら、またはてなブックマーク - なぜ「はてブは一方的になりやすい」か – | ...でいただいたコメント(大半は一方的な批判者とは程遠いすばらしいコメントである)を改めて読み返しながら、コミュニケーションというものに思いをはせている。Web3.0とL.starが便宜的に呼んでいるものが、コミュニケーションの改善であるなら、今を理解しつつこの先を考えるのは、その次で何かを作り出したいと思うなら正しい方向に進んでいるのだろうか、と考えつつ。今日書いているエントリもそういう意味では公開ブレインストーミングであり、読者の大半にとっては目新しくは無いだろうことは自覚している。

わいた疑問はこうだ「なぜはてブコメントは大量につくのに、うちのコメントページはちっとも増えないのか」むろん、このページなんて対して有名でもないのでコメントががんがんつかないのは当たり前である。が、それでもHNS->tDiary->mixi->Wordpressと移り行く7年間でコメント総数は、Wordpressの集計機能によると獣の数字666を若干超える(もちろんspam除く)ぐらいある。ところがこのドメインに付きだしたはてブはせいぜい年末スタートだというのに、延べ200近く(正確に計算していないので多少ごまかしている)もある。密度の違いとかアクセス数とかいろいろあるにしても、いったいこの差はどこから生ずるのか。
またTwitterはなぜblogより爆発的にはやったのか。Tumblrは何がいったい受けていて、何を好き好んでL.starのエントリをreblogする連中が延べ数十人もいるのか。簡単だからか?文字数が少ないからか?これは、2006ぐらいからWebの世界では引きこもりがちだったL.starにとっては今まであまり考えたことの無い話題だった。

もうひとつは、前々回のエントリに対するこのはてブだ。自分は確かにコメントに対するコメントはダサいと思っているのだが、それは具体的にどう説明可能なのか。


  • koma-tak koma-tak 『コメントに対するコメント欄は、たぶんあったとしたら最高にダサいから駄目だろう』どうダサくなるか教えてほしい。UI次第だと思うのだけど。増田のツリーみたいになるんだよね。自分はあった方がいいと思いますが 2009/06/20 CommentsAdd Star



そして考えた末の今のところの結論が表題だ。掲示板も、ブログも、プライベートでないチャットも、法的にはさておき気持ちの上では(以下同様)所有権はアプリケーション自体や、チャットサーバの管理者、あるいは誰のものでもないように思われる。たとえば掲示板やチャットのログはパーソナライズされない。ブログコメントは、ブログ主に渡すような感じになって、サイトをまたがって参照するのは骨だ。/.のコメントはまだパーソナライズされているほうだが、コメントはたいていの場合文脈に強く依存しているから、そのものだけ抜き出してもそんなに面白くないし、なんとなく/.にコメントをあげちゃった感がある。

ところが、はてブははてブユーザ本人のものであり、本人が自由なコメントをつけられる。Twitterの他人のエントリに対するコメントはもちろん文脈が強く出ることもあるが、やはり個人のものである。Tumblrにいたっては、他人のものであろうがなんだろうが自分の下にコピーを作成する。これらはすべて元作者ではなく、ユーザのものである。ツリー構造が見えないのも特徴である。ツリー構造はつながった全体をひとつにしてしまい、所有者を不明瞭にする。

つまり驚いたことに、いつの間にかコメントの所有権が移転しているのである。その始まりはおそらくトラックバックにあったのだろうと思う。つまり、自分の所有サイトから他人の所有サイトに対する、所有したままのコミュニケーションの標準化が発生した。これはコミュニケーションを大きく増加させた。好き好んで他人のサイトにコメントするのは一部の物好きだけであるが、自分のためのコメントを残すためならもっと増えるだろう、というのはすでに証明されていると思う。実際Tumblrやはてブは、どのようなサイトや文面に興味を示したかから、その人の趣向や考え、人となりなどをある程度読み取ることが可能である。結果「だれそれのはてブ/tumblrは面白い/つまらない」という事象は生じる。ブックマーキングやリブログが芸術になる瞬間である。

そして、もともとBloggerに携わっていたTwitterの人たちは、ここを理解してTwitterを作ったのだろう。つまり目指したのは巨大なblog同士だけでなく、もっとカジュアルなコメント者と被コメント者の対等性である。対称になれば、相乗効果によってより多くのコミュニケーションを生み出す。ようやくWeb2.0の流れというのが頭の中で一本につながった感がある。当然その次はより所有度と密度の高いコミュニケーションである。Facebookはパーソナライズされた自己宣伝ポータルとしての機能を果たしているといえないだろうか。Google Waveも、Opera Uniteも、その流れに乗っていないだろうか。

そこで「はてブが一方的(勘違いしないように繰り返し言うと、この一方的は双方向コミュニケーションが難しい/ないの意味である。)」なのは、本来一方的にコメント所有権のあったブログからそれを奪ってしまったことがひとつの原因なのかな、と思う。そしてもうひとつは、元ページとはてブにはツリー関係が生じていることだ。このツリー関係はそもそもはてブが主のユーザからは微妙に認識しずらいので、また誤解も生じやすい。ツリー関係が無い対等さをもち、なおかつ所有をはっきりできることがはてブの強みなら、コメントに対するコメントツリーは無粋である。増田のツリー構造はあくまで匿名だから成り立つのだろう、と。

だから今後ヒットすべき新しいシステムは「コンテンツをつくったものはコンテンツ作者のものであること」「ヒエラルキーを生じさせない、お互いに等価に近いコストでコミュニケーションを生じさせられること」の2つは持っていないといけないだろう。そしてその上にいったい何を加えられるかだ。