前に
という、天才にまつわるエントリを書いた。10000時間じっと何かをし続け、立派な何かになる(以下天才)というのはものすごく大変なことである。Tumblrのどっかで、「10000時間なんてたった417日じゃないか!」という批判的突込みを受けてかちんときたが、まあ捨て置くことにした。L.starにもようやく批判される程度の知名度が出てきたと喜ぶべきところだろうし、ネットには眠らず飯も食わず1年以上何かに専念できる、化け物のような人間が本当に存在するかもしれない。あるいは延々批判し続けているネット評論家なら、ネット評論家ならきっとやってくれる!
いうわけで今回の話はネット評論家というか、ネット上における批判者についてである。
「エスパー魔美 - くたばれ評論家」
が、ずいぶんTumblr界隈とかで話題になっているようである。「批判にへこたれるようなやつは所詮真の天才ではない」というその結論は確かにある種正しい(批判に弱い、というのは10000時間の実践に対して大き目の阻害要因である)が、それが成り立つのはミクロ的部分においてであって、ネット全体に成り立つようなマクロ的な結論ではありえない、と思う。
まあそういう人間が少なからずいるのは確かだろう。しかし、たとえば理不尽な酷評が多少なりとも減ることで天才の数が増えるのなら、それはメリットなのではないか。社会全体にとしては、有能な人材は、需要を大きく超えないかぎり多ければ多いほうが良い。だから、有能な人材の育成に対する阻害要因は少なくできるなら少ないほうがいいのだ。
批判者あるいは評論者というのは育成に対してプラスにもマイナスにもなりうるから、願わくはプラス、せめて最低限のマイナス程度に存在すべきではなかろうか。
で、聞きたいのは「いずれ誰かが行うだろう」ということによる時間損失をこうむるのは誰か、ということだ。われわれである。「誰々がいなくても○○はいずれ発明された」はよくあるテンプレートだが、彼/彼女が生み出したことによって、時間的には短縮できたのだ。あるいはもっと時間がかかったのかもしれない。
エスパー魔美の話の大本エントリ、くたばれネット評論家。にある藤子不二雄の考えは実際的であり、自分に自信のある人間にしかできない行動である。これは本当に見習うべきだと思う。
阻害要因についてはたとえば「野球選手における怪我」などというようなトピックに置き換えたらもっとわかりやすいと思う。過酷な練習で怪我をして選手生命を絶たれるような自体は少なければ少ないほどいいと思わないだろうか。元ジャイアンツの桑田真澄選手が気が付くという面白いエントリを書いているので見ていただきたい。目先の利益に目がくらんで成長阻害要因を増やすのではなく、全体最適化をしましょうよ、という話なのだ。何もネットに限った話ではない、今の日本に腐るほど転がっている。
あとは結局、批判者自信も何らかの表現者なのだから、それに対する批判もあるべきであろう。だからL.starは言いたい。「全体の利益にならないような批判し かできないなら、そんな自己満足はやめてしまえ」と。阻害要因にしかなれないなら退場願いたい。ネットの掃き溜めからすらも。もっとも、議論というのものを喚起するところとして、はてぶやソーシャルブックマークは残念ながらあまりに一方向的になりやすい嫌いがあるから、自己満足化しやすい傾向があるのかもしれない。その点は注意して使わないといけないのかもしれないし、進化の余地がある部分とも言えるだろうが。
まあしかし、現在にはそういう双方向メディアはまだ普及していないのだから仕方が無い。とりあえず現状では、L.starはブログを書いた。はてぶコメントに批判エントリが殺到した。L.starは怒った。それでおわりでいいじゃないか。今など批判エントリすら見ない状態なのだから。
10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に?
という、天才にまつわるエントリを書いた。10000時間じっと何かをし続け、立派な何かになる(以下天才)というのはものすごく大変なことである。Tumblrのどっかで、「10000時間なんてたった417日じゃないか!」という批判的突込みを受けてかちんときたが、まあ捨て置くことにした。L.starにもようやく批判される程度の知名度が出てきたと喜ぶべきところだろうし、ネットには眠らず飯も食わず1年以上何かに専念できる、化け物のような人間が本当に存在するかもしれない。あるいは延々批判し続けているネット評論家なら、ネット評論家ならきっとやってくれる!
いうわけで今回の話はネット評論家というか、ネット上における批判者についてである。
「エスパー魔美 - くたばれ評論家」
が、ずいぶんTumblr界隈とかで話題になっているようである。「批判にへこたれるようなやつは所詮真の天才ではない」というその結論は確かにある種正しい(批判に弱い、というのは10000時間の実践に対して大き目の阻害要因である)が、それが成り立つのはミクロ的部分においてであって、ネット全体に成り立つようなマクロ的な結論ではありえない、と思う。
すごい暴論を吐かせてもらえれば、「他人から酷評されたのでもうやる気がなくなった」と泣き言をいう人間は、もともとたいした創造性を持たず、自分の中でそれ以前に限界を感じていたのではあるまいか。自分の限界を認める口実として、他者からの酷評を上げているのだと思う。
まあそういう人間が少なからずいるのは確かだろう。しかし、たとえば理不尽な酷評が多少なりとも減ることで天才の数が増えるのなら、それはメリットなのではないか。社会全体にとしては、有能な人材は、需要を大きく超えないかぎり多ければ多いほうが良い。だから、有能な人材の育成に対する阻害要因は少なくできるなら少ないほうがいいのだ。
批判者あるいは評論者というのは育成に対してプラスにもマイナスにもなりうるから、願わくはプラス、せめて最低限のマイナス程度に存在すべきではなかろうか。
繰り返しになるけれど、そういう人が酷評されたために創作活動からリタイアしてしまったとしても、いずれは他の誰かが必ず彼が行うはずだった以上の創作物を生み出すと思う。
で、聞きたいのは「いずれ誰かが行うだろう」ということによる時間損失をこうむるのは誰か、ということだ。われわれである。「誰々がいなくても○○はいずれ発明された」はよくあるテンプレートだが、彼/彼女が生み出したことによって、時間的には短縮できたのだ。あるいはもっと時間がかかったのかもしれない。
エスパー魔美の話の大本エントリ、くたばれネット評論家。にある藤子不二雄の考えは実際的であり、自分に自信のある人間にしかできない行動である。これは本当に見習うべきだと思う。
阻害要因についてはたとえば「野球選手における怪我」などというようなトピックに置き換えたらもっとわかりやすいと思う。過酷な練習で怪我をして選手生命を絶たれるような自体は少なければ少ないほどいいと思わないだろうか。元ジャイアンツの桑田真澄選手が気が付くという面白いエントリを書いているので見ていただきたい。目先の利益に目がくらんで成長阻害要因を増やすのではなく、全体最適化をしましょうよ、という話なのだ。何もネットに限った話ではない、今の日本に腐るほど転がっている。
あとは結局、批判者自信も何らかの表現者なのだから、それに対する批判もあるべきであろう。だからL.starは言いたい。「全体の利益にならないような批判し かできないなら、そんな自己満足はやめてしまえ」と。阻害要因にしかなれないなら退場願いたい。ネットの掃き溜めからすらも。もっとも、議論というのものを喚起するところとして、はてぶやソーシャルブックマークは残念ながらあまりに一方向的になりやすい嫌いがあるから、自己満足化しやすい傾向があるのかもしれない。その点は注意して使わないといけないのかもしれないし、進化の余地がある部分とも言えるだろうが。
まあしかし、現在にはそういう双方向メディアはまだ普及していないのだから仕方が無い。とりあえず現状では、L.starはブログを書いた。はてぶコメントに批判エントリが殺到した。L.starは怒った。それでおわりでいいじゃないか。今など批判エントリすら見ない状態なのだから。
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