帝国の中心で自由主義を夢見る先に - 雑種路線でいこう.

に大変な感銘を受けたので、いろいろ考えたが、エントリを起こすことにする。これに限らず、この一週間ほど梅田望夫氏の「日本のWebは残念」発言が話題になっている。

まあ個人的には、このインタビューそのものはほうっておいて良いと思っている。というのも、もはや彼は別に日本のWebをどうこうする存在ではない。その資格は、彼がはてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎると発言した時点で失ってしまった。すくなくともL.starの心の中では、彼の発言は「自分が誰に向かって話をしているかまったくわかっていない」ということを自白した以上でも以下でもない。

梅田氏はあの発言時点で日本のWeb2.0をリードしていくこと(と梅田氏が信じることをすること)を「投げた」んだとは思う。「日本の%nは残念」というのが結構な%nにおいて成り立つのは、むしろおおむね同意するところである。ただ一点、投げないなら彼はそれをああいう形で批判すべきではなかった。それだけである。その後の行動見ると「投げた」んだろうし、先のインタビューもその延長線上に過ぎない。L.starも同様の投げ方は何度もやったことがあるので良くわかる(ぉぃ

だから、こう問いかけたい。「あなたは日本のWebが残念だというが、残念でないWebとはどのようなものですか。残念じゃない日本ってどんなものですか」と。梅田氏の著作等々をしっかり読み込んだわけではないが、彼がこれに正しく答えたかというと疑わしい。私が見たのは「シリコンバレーはすばらしい。然るに日本はどうか」という、とある具体例ばかりであり、この2つの本当の本質的な差、そして日本を残念でない世界にするための方法論という部分には行き着かなかった。

翻って、楠氏のエントリはおおむね日本ムラ社会に対する恨みつらみで進行していく。まあL.starの経験から鑑みて、事実無根ではないし、それよりもどす黒そうな話まで出てくるので、恨みつらみというより分析といってよい。そして結果として楠氏の希求するものへとすべてつながっていく。これを読んだ人の感想は大きく二通りに分かれるだろう。NPS(No Problem Syndorome)を発症して現状の日本に苦言を呈する氏を攻撃するか、彼の指し示そうとする道に興奮するか。L.starはもちろん後者なのだが、しかし指し示す道はあいまいかなと感じる。すばらしい道に興奮しながらも、正しく指し示されていないために非常にもどかしいものになってしまっている。いや、楠氏は言葉にこそしていないが、氏がその道を理解していることは想像に難くない。梅田氏も同様に理解しているであろう。なぜ指し示せないのかと思ったが、それは単に攻めている方向が違うんじゃないか、という結論に達した。

正直、日本が物理的に残念だと思ったことはない。企業が腐敗し、政府が馬鹿でも、根源的な問題をいっぱい、それでもいまだに最高の国家のひとつである。というかほかの国家も同様にレベルが低いというべきなのであろうが。そんな最高の国家がシリコンバレーに勝てないのは唯一、心構えではないか。みなぎる自信ではないか。成功するために必要な「空気」とは何か、ということを知ることではないか。

これは、シリコンバレーではなく、バブル前の日本の大企業社会にもおそらくあったと思う。ただ、人間は本質的に自信がない生き物だから、どうしてもその成功を自分自身の行動に結び付けたがるから、その何かあいまいなものだけを抽出して語ることができないだろう。

結局のところ、ムラ社会的な行動力学は、たいていは自信の欠如から生じている、とL.starは考えている。自分に自信があるなら、無駄に他人を攻撃する必要も、利益誘導する理由も、感情論で相手を否定する必然性もないのだ。日本人の根源的な自信の欠如を補うことこそが、残念じゃない日本への一番の近道ではなかろうか。

であればこそ、知っておかなければいけない大変重要なことがある。これは(日本スポーツにおけるメンタルトレーニングの権威である)福島大学の白石豊先生が講演でおっしゃっていたことなのだが、自信とは実績より前に醸成できるものだし、そうすべきである。階級が上がれば行動も自然についてくるというが、それもその証拠のひとつでもあろう。だから、まず自信を持つことができる。必要なのは自信を一方的に打ち砕くような、日本的理不尽さを無視することである。

自信を得るためのもうひとつの方法は宗教であろうが、宗教には救済と再生いう側面がある。罪を赦され、新しい一歩を踏み出す。今の日本に必要なのは、この救済と再生ではなかろうか。攻撃するわけでなく今までの悪い習慣を赦し、新しい方向を定義してそこに向かう力にできる。L.starを含めた多くの人間にとって、自分の過去というのは自分の過去であるということだけで正しいものであるはずだ。それを改めて見つめなおし、良い方向に向かうためには、まず自分を赦さないといけない。社会を見つめなおすなら、社会を赦さないといけない。

あらためて「救済」と「再生」というキーワードから総括に向かうと、梅田氏も楠氏も「再生」については強くメッセージを発している。でも、彼らの言葉に「救済」はないのではないか。「救済」なくしては本当の再生には向かわない。灰にしてしまわない限りはね。だから彼らのメッセージからは(まあL.starのメッセージからもそうなのだろうが)「社会を灰にしてしまわないと」と思ってしまう何かを持っている。だから灰にされると困る人には伝わらない。意見は割れる。そういうことだ。

いやなんでL.starがそんなキーワードにこだわるかというと最近ミュンヘンでワーグナーの「パルジファル」を見て、彼の何かにいろいろと感化されたからなんでしょうけどね。こういう言葉を抑えつつ、世俗的な意味での宗教的なものとは一線をおいて、純粋に何かを語っていきたいな、というのが最近のテーマだったりする。