価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習.

この文章の主題は「他人の移ろいやすい価値観に惑わされるのではなく、精神的に背骨が通ってないといけないよ」というもので、良くできていて、とても耳にいたい。だけど、何故か違和感がぬけない。微妙にしっくりこないように感じる。

例えば、この文面は芸術家にとって半分正しくない。芸術にとっては、作品そのものやそれを生み出すプロセスに対して、「精神的な背骨」が通ってないといけない。しかし一方で、芸術にとって自分の外「だけ」が唯一絶対の価値判断基準である。どれだけ背骨が通っていようが、聴衆に評価されない芸術には何の価値もない。聴衆がどれだけ間違っていて、芸術家がどれだけ正しかろうが、だ。

#ただし、聴衆は変わりうるので、一度ダメだからと言って常にダメとは限らない。死後評価されるなどと言うのも珍しくないし。また、実査には聴衆もある程度予測可能ではあるので、よほどとんでもないチャレンジでもしない限り、おおむね「背骨」とも矛盾しない。

違和感の原因は価値観の置き所であろう。このエントリの作者は大学の先生っぽいが、しかも理系の学問では無かろうか。理系の場合、理論によって評価が決まる部分が大きい。絶対の価値判断基準は「理論」であり、聴衆ではない。理論が正しければ、聴衆に対して「お前は間違っている」と堂々と説明できるのである。だから、この人は「自分の内に価値観を持つ」ということを強く信じられるのだろう。自分の内の価値判断とはすなわち体得した理論であり、それに対する自信である。

一方で、このように「絶対的な、自己完結可能な価値基準」というのは世の中では少ない。例えば、教育は基本的に与えられた問題に対して教師が設定した「正しい」解答(理論ではない)を与えると言うことに特化している。会社組織での行動とは、端的に言うとエアリーディングの固まりであり、理論による解答があったところでみんなに納得されなければ「協調性がない」と一発で断罪(ひどいときには粛正)の材料になる。

もちろん、学問にしたところで完全に自己完結可能ではなく、学会のような組織もあるわけで、程度問題である。言いたいのは価値基準を形成する部分に、大きな前提の違いがあると言うことだ。

このエントリの筆者がそういう状況を認識できていないな、というのはコメント欄にあった以下の部分を見て確信した。

(コメント中の質問者)
> 一つお聞きしたいのですが、価値の判断基準が自分の外にある人間の「利点」は何だと思われますか? 長所と短所は背中合わせと言うくらいですから、逆に精神的な背骨のある人には出来ない事があるのではと感じたのです。

(エントリ作者)
価値判断の基準が自分の外にある人の利点ってなんでしょうね?
他人の望むことが分かっており、かつ、自分がその望まれていること
ができるときに、双方ともに幸せになれることでしょうか。


価値基準を自分の外に置くことの利点は、いうまでもなく社会の大多数を占めるビジネスマンなど、エアリーディング能力が最大限要求される世界に対する適応しやすさである。そして、それに適応して勝ち残ったのが大学生なのである。彼らはまず「ルールが変わった」と言うことを理解しないといけないのだ。これが必ずしもうまくいっていない。

おそらく今回卒業する彼は、このルールの変更に最後まで気づかなかったか、適応できなかったのだろう。このルールの変更はかなり大きなもので、高校生以前に制度的に教わる余地はまずない。そこで問題になるのはエントリの以下の部分である。
どうして、自信がなかったのかといえば、たぶん、間違うことに対して恐怖をいだいているからだと思うよ。何で間違うことに対して恐怖を抱いているのかというと、まだ君には精神的な背骨が育っていないからだと思う。

この人の理解ではたぶんこれは正しいのだろうが、学生から見ては間違っている。なぜなら彼らが間違うことをおそれるのは、洗脳されているといっていいほど社会からたたき込まれているからだ。だからまず「間違うことにたいして恐怖を抱く必要がない」という洗脳解除をしないといけない。さもないと、参照されている増田のように萎縮した考えを持つことになってしまう。

はてな匿名ダイアリー:大学院の教授がクソだと言われる一つの理由
精神的な背骨が育っていないから」ではなくて、自分意見を言わないのはそもそも研究目的が理解できてないから。間違うのがわかってて、それを論破されるのがもうほぼ確実に予想出来てるのに、わざわざ自分からフルボッコされるようなこと言うわけないじゃん。もう黙ってるしかないじゃん。

L.starは文章を書きながら頭を整理しつつ、この溝の深さを誰も理解していないことこそ、高等教育が行き詰まっている一つの理由なのではないかと思ってしまった。

もう一つ先の増田から引用するが、
修士のころはもうほんとに教授と会うのがいやでいやで仕方なかった。絶対怒られるから。今になって思えば怒られてるんじゃなくて、研究を進める上で重要ないろいろな視点を提供してくれてただけなんだけど、なにしろなんもわかってない状態だから自分のこと全否定されているように感じてた。博士課程に進まずに就職してたら、私だって間違いなく、大学院なんて教授が偉そうにしててろくでもないところ、あいつらは社会経験がないからな、博士なんて進まずにさっさと就職すべし、とか増田に書き込みしてたと思う。

この文章を見る限り彼はおそらく修士から博士に移行する過程で溝を超えられたのだと思う。しかし同時に、博士課程に進むべきでない理由というのは、なによりそこで教わる価値基準が異質だと言うことだ。自分の外に価値判断の基準を持たない人は、前述のエアリーディングの世界では生きていけない。そこは、どれだけその価値が正しかろうが、みんなの中に同じものがない、というだけで全て否定される恐ろしい世界だからだ。

長くなってしまったが、これを書きつつ企業と大学、一体どっちの価値観が優先されるべきなのだろうかとずいぶん考えてしまった。もちろんケースバイケースで結論は出ないのだが。しかし、この溝をきちんと埋める努力がなされない限り、強い社会というのは生まれないのでは無かろうか。学者vsビジネスマンで戦争をしていられるほど、社会は余裕があるわけではない。

エアリーディングと明文化されていないしかも矛盾だらけの暗黙のルールに疲れたL.star個人としては、願わくばもっと絶対的な価値観が要求される方向がいいな、と思う:)