上記のような発言をIRCでしたら受けたので、ちょっと掘り下げて考えてみる。何故このようなことを言い出すかというと、「20世紀は統制の時代」とつねづね思っているからだ。

統制、というと非常に不愉快な、ややもすると独裁のようなイメージがあるかもしれない。しかしここでは「多数の人数が共同して一つの目標に向かって何かを成し遂げる」という意味である。戦時統制経済は当然その象徴ではあるが、統制はそこに終わっていない。

  • 日本企業を考えてみて欲しい。みんなが同じようにスーツを着、同じように大量の残業をこなし、同じような製品を必死で改良して作る。まるで軍隊ではないか。もちろん、それは当時から変わっていない。

  • ソ連の5カ年計画はどうだろう。実際に60年代をリードしたのは計画的な大量生産モデルではなかったか。

  • 発明は個人のものから集団のものにシフトした。もはや個人プレイはそれほど重要ではなく、企業や研究所での組織的な研究の集約が最大の成果になっている。


このように統制は実際には戦後もずっと続いているのだ。これを「大量の物資を動員したものが、生産性にものを言わせて生産性弱者を蹂躙した時代」と言わずしてなんだろう。振り帰ると、あれはまた血を流さない争いだったのだ、と言えなく無いか。いつの世も、持てるものが持たざるものを(平和裏にであれ、暴力的であれ、双方に利益のある形であっても)蹂躙する、それが歴史なのだ。

何が言いたいかというと、20世紀後半の礎は、多くの人が考えるWW2後に構成されたものではなく、その前段階から脈々と続いているものではないかと言うことだ。同様のことは世界史(ウィリアム・H-マクニール)あたりに書いてある、というかその受け売りである。これを今に強引に当てはめると、21世紀の変革は、我々が将来考えるであろうリーマンブラザーズ破産ではなく、それ以前からずっと続いているのではないか、ということになる。だから、金融崩壊はあくまで情報モデルの変更がもたらした結果であり、原因ではない。

ところで、同じような「持てるものが持たざるものを蹂躙した」例として、マス・コミュニケーションをあげたい。従来、画一的な意見を大規模に配信する方法として「宗教」「哲学」「法律」「民族性」など、いくつも手法はあった。しかしは決して多くなく、しかも不確実なものであった。大規模な出版から始まった流れとして、ラジオ及びテレビは、大規模配信システムとして、見事な役割をはたした。しかしこれもまた、「情報を持てるもの」から「持たざるもの」という片側通行メディアである。情報を持てるものはつねに勝者であり、敗者は持てる物から選別されたおこぼれを受け取るしかない、そういう状況であった。

その状況を変えたものは何か。ずばり「インターネット」だ。従来も中央集権でないP2P的な情報伝達手段は、うわさ話のようなものを含めいくつも存在した。しかし、インターネットはその内輪話を全世界レベルに広げてしまった。現在インターネットはテレビやラジオを超えてプライムメディアとなるべく道を進んでいるが、この過程で情報を得るコストが激減したため、今までの持てる持たざるの勢力図を次々と書き換えている。そして、久々に情報は大きな格差材料ではなくなる。そして、崩壊しつつあるのは、情報格差を元にした統制経済による「戦争」をやっていた連中ではないか。情報格差は、ネットによるコミュニケーションコストの減少と、コミュニティの巨大化により、無くなりつつある。それが無くなることにより、情報格差を利用した従来の手法(例えば、金融などその最たるものではないか)も通用しなくなる。

だから、金融崩壊の原因はインターネットにあるんじゃないか? ということなのだ。それ以前のテレビのような流れも、たぶん大きく影響しているだろう。しかし劇的なのはなんと言ってもWWWであり、Linuxであり、Googleであろう(ただし、具体的に何が劇的だったのかは異論だらけだろう)

たぶんここから本来は「では、来るべき未来はインターネットの力によりどのようなことが起こるのか」という考察に移るのだが、今日は夜10時だというのにまるで深夜のように思えるほど非常に眠いので、とりあえず次回以降に。