■クジラやイルカを食べてはいけない理由を僕たちはまだ知らない
というKoshianの記事だが、欧州暮らしの長かったL.starから見ると、元々のエントリ
あのフォアグラ弁当抗議団体を直撃! 「動物はごはんじゃない」という言葉の真意とは
は、昔から言われている話で別段新鮮味を覚えない話しであった。こういう意見は欧州や米国の意識の高い上流層を中心にある程度受け入れられていて、ああそういう言論が日本にもやってきたのね、という程度である。どういう話かというとKoshianの説明する以下の部分そのままである。
この考え方を理解するには、ギリシア時代にまで遡る必要がある。快楽主義という思想があるのだが、これは「快=善、苦=悪」という考え方であり、できるだけ苦を減らし快を増加させることが善に繋がるというものである。個人の生き方としてはとてもよい考え方だと思うし、俺もこの考えに沿って生きてる快楽主義者だ
とこがこの考え方を社会に適用した人たちがいる。功利主義者たちだ。功利主義は快を「効用」として計測できるものと考えた。よく言われる最大多数の最大幸福はこの功利主義が前提にある。実際に効用を計測できるのか、社会は効用だけで考えていいのか、などいろいろと疑問のある考え方である。
ピーター・シンガーはこれをさらに動物にまで拡大した人である。世界の苦が減って快が増えることが善ならば、動物の苦も減らすべきだし動物の快も増やすべき。確かにそう言われると一理あるように思う。
ただし、これを「欧米の倫理観です」というと話を見誤る。これは文化の違いでも何でもなく、単なる前提の違いだからだ。
有史以前から「食べられるものはなんでも食べる」というのは集団の最も基本的な生存戦略であり、初期の文明社会はほとんどこれに従ってきた。そういった社会では、集団が要求する理想的な栄養素総量よりも、生産あるいは採取可能な栄養素総量の方が少ない。だから採取できたものは可能な限り無駄なく摂取しないといけないし、それが推奨される。
過去の日本社会、特に江戸時代あたりの場合、閉鎖された環境にあったことからこれに拍車がかかっている。肉食は推奨されなかったし、口減らしのような、現代では嬰児殺しとしか言いようのない残虐な行為なども公然とではないが行われた。それもこれも、起こりうるリソース不足のもたらす破局を避けるためには、やむを得なかったからだ。そんな中で育ったのが「もったいない」であり「いただきます」であろう。限られた資源のなかで、分配を受けられるというのはそれは恵まれたことだからだ。
欧米はこのような日本人の持つ価値観を共有していないのだろうか?実は「共有している」のだ。なんとなれば、資源が潤沢になってくると、短期的な資源不足以外の要因が首をもたげてくるから、優先順位的に単純になんでも食べるわけには行かなくなる。
一番極端な例は人肉食である。これを読んでる人で、人食い人種に人肉食をダメと言い切れる理由をご存知の人はいったい何人いるだろうか。にもかかわらず、人肉は十分食用可能な栄養源であるにもかかわらず、動物性蛋白質が極端に不足しやすい場所など以外では行われない。ちなみに答えは人肉食により感染する疫病があるから、である。牛に肉骨粉を与えるとBSEが、というのと同じ理由だ。
それ以外にも、「調理に手間が掛かり過ぎるから」「長期的に環境を毀損するから」「実際には効率が悪いから」などなどの様々な理由で、短期的には合理的な「なんでも食べる」は否定されていく。
「動物はあなたのごはんじゃない」というセリフは、あるいは功利主義的価値観に動物を加えようという話は、これらをすべてクリアした後にようやく出てくる。つまり、十分資源もあり、分配も可能なときに、不要な残虐行為を働く必要などどこにもないだろう、という形としてだ。
ところで、日本という国は、どこにいるのだろうか。一時は世界第二位の経済大国となり、落ちぶれたとはいえ最も豊かな国の一つである。そんな国が「資源の足りない国です」とは全く言えないと思うのだが、人の心はそれに追い付いていないのを感じる。例えば袴田事件に関する以下のエントリを覧て痛切に思う。
「耐え難いほど正義に反する」と裁判長は。
「袴田事件」は、英語圏ではアムネスティ・インターナショナル(AI)が積極的な取り組みをみせてきた。AIは死刑そのものに反対しているが、それ以前に、日本の死刑制度は執行前の段階で、あまりに残忍で非人道的である点が非常に深刻に問題視されている。つまり「死刑囚は外界との接触を断たれる」、「独房に入れられる」、「いつ死刑が執行されるかが事前に知らされない」、「吊るされる本人も当日の朝までそれを知らない」。死刑判決が確定したら、1人拘禁された状態で、今日吊るされるか、明日か……という不安が常に、片時も、そばを離れない。「不必要な苦痛」である。それを問題視しているのはAIだけではない。
人ですら不必要な苦痛を受けることを平然としている社会に、ガチョウの痛みを思いやるゆとりなどあるだろうか。そう考えずにはいられないのである。別に死刑囚だけの話ではない。満員電車、過酷な労働、随所に残る差別は類居に暇がない。
最後にKoshianはフォアグラとイルカ・クジラを同列に論じていたが、L.starはこれは明確に別の問題だと理解している。なんとなれば、日本人にイルカ・クジラを食べなければいけない必然性がある程度存在したであろうことはほぼ間違いないわけで、その必然性が文化的にも消失するには非常に長い時間がかかることで、文化の変化というものは常に人の痛みを伴う部分である。ご理解いただかないといけないところは確実に存在する。とはいえ、結局日本人は「イルカ漁は自発的にやめる」という形で、長い時間をかけてこれを解決するだろうなとは思っている。身も蓋もない言い方をすると「どうせ廃れるよね」ってことだが。
一方で、フォアグラは純粋に人為的に作成されたもので、しかもその二千年ちかい長い歴史の中で食べる必然性をついぞ得ることのなかった完璧な贅沢品である。無印良品のフカヒレスープのときのように混獲品で、今より環境悪化というわけでもないという言い訳も成り立たない。そんな贅沢品を食べるのが本当に「いただきます」の文化なのかというと疑問を感じる。というか要するに美味ければそれがどれだけ他人に迷惑をかけるものであっても平気なんだろう?という非常に「4本足は椅子以外なんでも食べる」中華的な感じを受け、「いただきます」と言ったら何でも許されるという傲慢さすら感じる。まあ環境悪化という意味では廃棄はよろしくないので「今回売り切ったら次はやらない」のほうが良かったのではないかと思うが・・・