グローバル化の中で日本の宗教を意識できないと負ける


Koshianがまた面倒なエントリを書いているが、この話は昔L.starもやったことがある。

日本人は外国で「宗教:なし」と書く ― 民族と宗教が不可分な人たちが犯す間違い


こういう話題はいわゆる自称中道の保守層には大変ウケが悪い。というのも「日本人は無宗教だから、他国にありがちな宗教的いざこざと無縁な素晴らしい国である」という幻想を破壊するからだ。いや、日本国がキリスト教vsイスラム教を始めとした各種宗教論争と比較無縁なのは、確かに事実ではある。ただそれが日本文化の素晴らしさと直結するかというとかなり疑わしい。

そもそも、無宗教っていうのは何なのか。普通に考えると「私はいかなる宗教も信仰していません」という定義からして、無宗教であることを示すのは、悪魔の証明に近いけっこう大変な作業なのだということに気づくはずなのだが。論理的な積み重ねだけで物事を考えていくことでたどり着く、それなりに大変な道のりの結果なのである。L.starは自称理論肌だし、@elm200氏から「ブログ職人」と呼ばれるぐらいにはちゃんと論理的にしているつもりである。そのうえで正直に言うと、自分が無宗教の境地に達している自信がない。がっつり日本の土着宗教に汚染されている。他の人達が「日本人は無宗教です」と語るとき「そんなでたらめな基準で無宗教って語っていいのか!」とまで思う。

 

多くの日本人が自分を無宗教だと考えるのは大体「私はいかなる特定の宗教にも明示的に入信していません」という理由からだろう。ところが日本の場合、面倒なことが2つある。

ひとつは、日本の土着宗教は神道やら仏教やら儒教やらがぐっちゃぐちゃに交じり合ったもので、それを表す具体的な名称がないこと。それゆえに、自分がほんのりと信じている土着宗教に名前をつけることができないため、特定の宗教だと認識できない。

もうひとつは、日本の土着宗教と呼べるものは、神道にしろ仏教にしろ、いかなる明示的な入信も求めないこと。明示的に入信していないが、その宗教性というのは生活の中にこっそりと隠されていて、例えば結果として新年やお盆を日本土着的な宗教行為として祝う。「僕は名前のない宗教の宗教的行為をしているかもけど、入信したと口で言っていないから無宗教です」という言葉は、どう見ても詭弁である。

ついでに言うと3つ目があって、それは日本の土着宗教が組織的には西洋東洋の各種宗教と比べてとてもちっぽけな存在で、およそ世界定義では宗教といえるほどの力がないこと。日本における宗教の強化の試みはなかったわけではなくて、いろんな形で実施はされているものの、時代を超えて生き残っていない。その最後にして最高の試みは、明治時代の国家神道だろう。そしてこれは第二次大戦の敗戦とともに木っ端微塵に打ち砕かれた。まあこれは日本の宗教が弱かったからとかいう話では全然なくて、単純に宗教が有効な時代が終わってしまったから、単純に遅すぎたということだろうなと思ってはいるが。

 

はっきりさせておきたいのは、強いとか弱いとか曖昧とかそういうのは個人の宗教の関わり方として全くどうでもいい話。日本の土着宗教を信仰していることは、別段悪いことでも何でもないということだ。他人に強制する必要もないし、他宗教から理解し難い行動も要求されないし、食生活にも影響を及ぼさない。歴史も長いし趣深いところも多数ある。一部の戒律の厳しい宗教とか、へんてこなカルトとか、有名宗教で過激派に染まるとかよりははるかに健全といえるだろう。まあ強いて言うなら儒教的価値観から出ているとしばしば指摘される長時間労働なんかは辛い話だが、それとて他国の人にまで強制されることはない。それゆえ、外国の日系企業で働く日本人が長時間労働でこき使われる一方で、他の国の人は普通に定時で帰るといったことになるわけだが、まあそれは別の話とも言える。

一方で、「明示的に日本の土着宗教を含む他の宗教に背を向けて生きている」本当の無宗教の人は実際に存在するのも確かだ。ただ、そういう人はだいたい周りから爪弾きにされて生きている事が多い。なにしろ日本の土着宗教は日本人の行動様式に深く根ざしているわけで、それに背を向けるのはつまるところ「変人」だから。「無宗教」というのはそれだけ覚悟のいる行為でもあるし、それもそれで賞賛できる行動だと思う。

要するになんでもいいのだ。自分のやっていることがわかってさえいればね。

 

英語に例えてみよう。日本人の宗教性を英語にマッピングするとそれは「日本語英語」だろう。完璧な無宗教というのはいわゆる「訛りのない完璧な英語」といえる。ちなみにここで完璧な英語というのはネイティブのしゃべる英語のことではなく、正しい訓練を受け、文法と発音を徹底的に矯正した人にしか喋れないやつのことを指している。ネイティブの、特にイギリスでもウェールズやスコットランド人の話す英語は訛りまくっててむしろ聞き取りづらい。宗教性なんて、所詮は訛りみたいなものである。

もちろん完璧な英語を喋れるに越したことはないし、それを目指して努力するのは素晴らしいことだ。しかし、所詮英語はツールでしか無いと割り切り、自分の英語が「日本語英語」であることを理解した上で、ビジネスを押し通す人だってたくさんいる。どちらもそれなりに褒められた行為といえる。ところが無自覚に無宗教というのは、自分が「日本語英語」しか喋れないくせに、それを「完璧な英語」だと思い込んで得意げにしゃべっている状態を指すのだ。お分かりだろうか。

繰り返すがL.starもKoshianも、自分の宗教性を否定しろというつもりなど毛頭ない。日本人の、また他の民族の宗教性を理解した上で、強みを活かすなり弱みを克服するなりしろ、ということを言っているのだ。自分自身の持つ暗黙的な宗教性に無自覚なのは「己自身を知らない」ということだからだ。魑魅魍魎巨大起業の跋扈するグローバルの世界は、そんな状態で戦えるほど生易しい場所ではない。孫子曰く、敵を知らず、己を知らずば百戦して必ず敗れる。