■「苦しい思いをすれば成長する」は大ウソ
が面白かった。Twitterでも書いたけど、実際人間の成長って、努力の質・量およびひらめきの多寡によってもたらされるもので、苦しいかどうかとはあまり相関性がない。成長のための要素は千差万別で、なかにはどうにも苦しいだけだけど成長したというのも一定量含まれている。だから苦しい思いを多数したほうが成長している、というのは平均的なモデルだけを考えれば正しいかもしれない。一方、努力の質やひらめきの充実は単に苦しいつめ込み努力では身につかないケースが多い。このへんの話は以前
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でも論じた話で、つまり自発的に達成した喜びを味わえる形にしないと長続きしないし、壊れるのだ。壊れてしまっては努力も水の泡。結局努力効果の最大化には程々がよいよ、ということだ
そのまま感想を書いてもあとはまあ賛成するところばっかりなので視点を変えてみよう。
「リアルなんてクソゲー」だ、という決まり文句がある。クソゲーとは簡単にいえばゲームバランスを欠いたゲームのことである。せっかく買ったのにあんまりにも難しすぎてやる気がなくなる。あまりにも簡単すぎておもしろくない。意味もなくめんどくさいことをやらされる。そういうのはクソゲーなのである。
現実というのは確かにゲームバランスが悪い。なぜゲームバランスが悪いかと言えば、それは教育システムが画一的だからだ。
リアルがクソゲーでバランスが悪いのは教育の画一性だけが問題だろうか?まあ原因の一つではあるだろうが、到底それだけで説明できるとは思わない。
まずリアルは本当に言われている通り例えばマインドシーカーのような単純無理ゲーなのだろうか?実際にはリアルでの成功者は多数いるし、彼らにとっては無理ゲーではなかったのは間違いない。運が良かった、といえばそれまでかも知れないが、私の知る限り運だけで成功した人間は皆無である。
むしろ個人的には、むしろバランスが偏っているのが問題だろうと思う。人は多様な努力を行うことができる。しかし特定の努力だけにあまりにも有利であるがゆえに、画一化してしまっているのではないだろうか?つまり教育システムの画一化は結果であって原因ではない。
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でも論じた話だ。要はリアルとは「チーター御用達のオンゲー」というクソゲーだということだ。みんな自分の子供に他人より楽をさせるために良い大学に行くことを薦めたんじゃないの?そもそも大学以外でもチートはいくらでもあるだろう。単に信じられているだけでも、男性ばかりが就職有利であったり、世代間の再配分の話があったり、生活保護に関する話もあったりする。
そこで戻って「苦しい思いをしたらそれだけ身につくから」というのは、これは単純な努力するという話であってチートじゃない、と擁護する人もいるかもしれない。しかし私的にはこれも疑わしい。なぜなら終身雇用大企業での出世ほどチートだったものもないからだ。なにしろ会社での地位は、場合によってはほとんど階級社会における身分と同じぐらい強力に作用していた時代なのだから。
ちなみにそんな「大学から良い企業に行くのが幸せの近道」「全てをなげうってまでの出世邁進こそ最高」という前バブル期の黄金パターンの裏をかいたのがブラック企業とFラン大学である。これらは、そういう前時代的な攻略法を盲信している人たちの裏をかき、そこから搾取する。現実の変化と価値観の浸透との差を突いた、実に効率的な方法である。だから、こういった日本の悪い部分は、価値観が変わるまでずっと続くだろうと想像している。
老人の「努力しろ」という忠告が若者に通じないのは、このへんの価値観の差だろうな、と常々思っている。若者はやはり若いゆえに、この種の価値観の変化には老人よりも敏感である(そしてその若者も老いるに従って同じように鈍感になる)だからこそ、現実と古い価値観の違和感にも気づきやすいのだ。その点をちゃんと勉強して発信して行かないと、若者にそっぽを向かれるだけの浅い意見になってしまう。
若者が老人から見て努力しないのは、若者が怠惰なのだからではない。古い価値観に脆弱性があり、悪用されており、別の価値観に頼らざるをえないからなのだ。
最後に、チートそのものの存在は撲滅することもできないし、是正も簡単ではない。例えば「あまりにも男性有利な雇用形態を改めるために女性を一時的に積極的に採用したら逆に女性有利になりすぎた」というような、是正行為そのものが新しいチートを生み出す可能性もある。だが、社会は常にこのチートの存在をより少なくするように変化してきた。古い階級社会はよりゆるやかな形になるように崩壊し、民族や性差による差別も緩和されてきた。いきなりなくなるわけではないが、ゆっくりと改善はしている。人間だけでなく、社会の成長もまた努力の質・量による漸次的なものである。そこはゆっくり見守っていくしか無いだろう。