2012年05月

放っておいても良いしそう勧められているのだが、ようやくまとまった時間があったし、彼のような考えを持った人には言いたいことがいろいろあるのでついでに。

続々々・「エスパー魔美 - くたばれ評論家」 : メカAG

そもそも「努力量をこなすことが必要ではない」というのは合意事項だというのに、メカAG氏は私を「努力しないのを推奨している」かのようにとらえ、そのように非難しているのはいったい何故なのだろうか。このようなシチュエーションには既視感がある。例えば反原発関連トピックだ。このときは

科学を信じるか、心を満たすかという二律背反

信じただけでは救われないが、信じなければ救えない ― 人の内側と外側のバランスを考える

という2つのエントリを書いた。心の問題として。「心・技・体」というのはスポーツの世界ではよく聞く言葉だ。人の成長を促し、その能力の充実を図る上に置いて、この3つはどれも重要でありおろそかに出来ない。詰め込み教育の本質とは、すなわち「技」を詰め込むことだ。これはもちろん重要なことだ。では「心」は?「体」は?もちろん現代スポーツでは、メンタルトレーニングもフィジカルトレーニングも非常に重要だと見なされている。

L.starは「心」が、うちのブログ用語でいうと「自信」だが、今現在の日本のボトルネックになっていると強く考える根拠がいくつかある。増加しているうつ病とか、減らない極論の数々とか・・・こういう行動や現象の多くが「日本人が自信を失っているから」と考え、それをどう解消していくか、ということについて何度も書いている。そんな「心」がボトルネックとなっている状態で「技」の詰め込みなんかやってもうまく行くはずがない。

例えば英語教育の話をしてみよう。日本人の英語の「技」は実は大変高レベルだ。個人的な経験+オランダの英語教師から聞いた話を総合するに、ヨーロッパ人の平均的英語文法理解度と単語数は、日本人の平均よりはっきり言って低い。実際よく聞くと文法はめちゃくちゃだし、使う単語もそんなに多くない。それなのに日本人は英語をしゃべれない。理由が大きく2つあって、一つは技術的に聞き取りが苦手なこと。そしてもう一つは心の問題で、「英語をしゃべるのが怖い、物怖じする」というものだ。実際度胸のある人はどんどん片言英語を一方的にしゃべり、溶け込んでいく。

日本の詰め込み式英語教育は、文法や単語をシステマティックに教え込むのは確かに出来ている。しかしこの「英語をしゃべる度胸がない」問題を解決できていない。その解決は偶然か、現場の裁量レベル程度にしかできていない。L.starが詰め込み教育を批判するのはこの点、技ばかりに重点を置き、心を育てることをおろそかにしていることについてだ。

ヨーロッパの教育は、日本人から見ると確かに「技」の詰め込みについては甘いぐらいと感じなくもないが、一方で「心」の教育をおろそかにしていない。基本的に叱らず、自発性を尊び、論理を通じて行動することを教える。特にオルタナティブ教育なんかはその傾向が強い。自発的に打ち込めるものを探す、というのはモンテッソーリ教育で実践されているやり方である。それを真似ろと言うつもりはないが、そこから学ぶべきものはいくらでもあるはずなのだが。

そういった経験から、一見感情論やフィーリングに見えがちな「心」の問題は、実際には論理的に考察した上で、現状に対するボトルネック対策として言わせてもらっている。「罵声に耐える精神力」などというのは決して生得的なものや個人の資質ではなく、ある程度までは十分に鍛錬可能なものであり、優秀な教育者は今でも、たとえ詰め込み教育の実践者であっても可能な限り実践している。これを実践せず「つぶれた奴は素質がなかったからだ」などと言い訳するのは単に無能なだけ。

具体的にメンタルトレーニングを兼ねた訓練法とは「十分に努力すればかなりの確率で達成可能な目標を立て、それを実現させる」ことだ。これはSMARTという名前でよく知られていて、例えば以下のURLで紹介されている。

目標達成のための魔法の呪文は「S.M.A.R.T. 」

ここで重要なのは「目標は高すぎても低すぎてもいけない」ことだ。簡単に実現出来るようなことではいけないばかりか、実現が疑われるようなレベルであってもならない。あくまで「必死で頑張って自分の実力を最大限に発揮しても、100%実現出来るとは言い切れない」という絶妙のバランスで、しかも実行する本人がそれを納得できなければならない。そのバランスが当人から最大の努力を引き出し、結果から自信を得るのだ。またコーチングのような人材開発手法も、メンタル面をおろそかにせずに目標達成をさせる手法である。

 

ところで、極端な「技の詰め込み」への偏執的なこだわりというのも、心の鍛錬不足で説明できるものだろうと考えている。例えば育成ゲームを単純化したこんなのを考えてみよう。

  • 「鍛錬」ボタンを押すと能力が上がる。ただし疲労が増える。疲労が増えると鍛錬時に故障の可能性がある。故障したら退場。
  • 「休養」ボタンを押すと疲労が下がる。
  • 能力の高いほうが勝つ

このゲームに相手に勝つにはごく簡単で、単に「鍛錬」ボタンを相手より多く押せばいい。しかしそれには故障のリスクがあるため、最低限の「休養」も押す必要がある。しかし「休養」を押すと相手に鍛錬で負ける可能性が生じる。故に「休養」を押すのは怖い。故障しないぎりぎりを知っているという自信が無ければ、なかなか押せないだろう。自信が無いが故に、「鍛錬」を押し続けるのだ。

L.starの主張は上記ゲームで言うと「故障するまで鍛錬押すな。ちょっとは休憩も入れないと」である。ただ、それはメカAG氏には「故障が怖くて鍛錬が押せない」に見えるらしい。まあ故障したときの損害を0と仮定すれば、いくらでも押せるのは確かだが、当然故障退場したら現実には鍛錬につぎ込んだコストが全部無駄になるわけで、馬鹿にならない損失である。

また、他人に耐えられないほどの詰め込みを命令するというのは、ミルグラム実験を思い起こさせる。ここで権威者とは「詰め込めば詰め込むほど効果がある」と教える世間の空気である。「詰め込めば詰め込むほど強くなる」という空気が、「どんどん詰め込めば人はいくらでも有能になる」というような無茶な言論の源泉になっているのでは無かろうか。もちろん、他人の苦労なのだから好きなだけ言い放題だろう。

 

メカAG氏の言論を見て思うのは、L.starのことを「フィーリングだけで語る」「甘やかしている」などと批判するのと対照的に「机上の空論じゃね?」ということだ。メカAG氏は、実際に教育する/される場合に普通に考慮するはずの心の問題が一切抜け落ちており、ただただ厳しくて、脱落者が出ることによる損失コストが無視されているとしか言いようがなく、現実感を著しく欠く。こういった問題に対して一言で指摘するなら「おまえ本当に教育やったことあるの?」ということになるだろう。これならまだ既存の詰め込み教育の方がまだましだ。

また、オルタナティブ教育のような教育の多様性について知らないまでも、昨今のメンタルやフィジカル面で進歩した最新のトレーニング事情のような、教育方法の進化についてもあまりご存じではないようだ。そのような不勉強な状態で「私の言うことが最適だ」というのはなかなか度胸のある行為だ。そういう意味では心の問題はクリアしているようではあるが、残念ながら最新の教育論についての詰め込み教育が足りてないようだ。精進を期待したい。

『やってみせ、いって聞かせて、させてみて、
褒めてやらねば人は動かじ』

- 山本五十六

続・「エスパー魔美 - くたばれ評論家」

続々・「エスパー魔美 - くたばれ評論家」

ずいぶん昔のエントリである

くたばれ一方的な批判者 – ネットだけの問題じゃない

で言及したエントリと最新作の

知識を詰め込んでも心は鍛えられない

に反論をいただいたのだが、内容は巨人の星か?とすら感じる「苦学を全うできないものには価値がない」的根性論でくらくらしてしまった。

ちなみにL.starは10000時間の法則なんてのを頻繁に使って継続する努力の必要性をずっと説いている点は、根性論の人たちと歩調を同じくしている。違うのはただただ我慢して物量だけこなすのではなく、メンタル面の充実も考えなければ、努力を継続させることは難しいと言っている点だ。規律の厳しいことでは有名だった大日本帝国海軍のトップですら、冒頭の句を残している。

最先端のスポーツの世界のメンタルトレーニングなどでも、もはや単純な根性論なんか否定され尽くされている。まあ「合理的なレベルをはるか超えて努力出来る一部の超人」以外の価値を0とするなら、そういった結論を導くことは可能だろう。実際彼の主張はそのような一部のコストやデメリットを故意に無視すると仮定すれば、割と簡単に同意できる内容になる。

そんな乱暴な仮定の成り立つ現実は見たことがない。ごく一部の天才だけが活躍するように見える芸術家の世界ですら、そこには切磋琢磨する芸術家仲間であるとか、インスピレーションを与えてくれる他分野の芸術家や、別方向の技量で支えてくれる専門家が居なければ成り立たない。

不思議なことに、根性論者から見るとこういうメンタル面の充実を訴えるような意見は相手を甘やかしていると見なされるんだよねぇ。継続できる努力の仕方を教えないで「ただ苦しめ」というだけでは脱落するのは当たり前。その不手際をかくして「脱落する奴に価値はない」などと責任を押しつけてるほうがよっぽど甘えているようにしか見えないが。

 

じゃあどうやって継続する努力、という話だが、ここで久しぶりに一冊の本を紹介してみようと思う。

リーナス・トーバルスはこのブログを読んでいる人の殆どには説明の必要はないだろうが、文句なしに20世紀末を代表するプログラマーの一人で、OSを一つあそこまで育て上げる努力は並大抵のものではなかっただろう。これだけの偉業、根性論者なら「これを作るのはいかにつらかったか」を語り出すのではないだろうか。プロジェクトXのように。しかしそれを “Just for fun”と言い切るところがいかにも欧州流、北欧流のやりかたであり、リーナスの本当の凄さだ。

 

何かを成し遂げるのは、たしかにつらいことだ。でもそれを「つらい」としてしまうことは間違っている。それは「つらい」だけでなく「楽しい」ものであり、「喜べる」ものだ。そしてその「楽しさ」や「達成した喜び」こそが、つらくてやりたくない努力を継続させる鍵なのだ。

だからさあ、嫌々でもやるとか、詰め込むとか言う話よりも、努力する楽しさとか、達成する喜びを教えてあげましょうよ。もちろんそういう勝利の味を知ってるでしょ?今の無気力な若者はそっちのほうを必要としているんですよ。彼らは努力しないんじゃないんです。努力する目的を失ったんです。それは努力の向こう側にある勝利の味を知らないからなんですよ。

実際社会派ブロガーのまねごとなんてやるのはつらいことも多いよ?理不尽な攻撃を受けたり、怪しげな粘着をされたり、全くの誤解にもとづいてひどい言葉を投げかけられたり。時には自分が書きたくないことまで書いてしまったり、知りたくない自分に気付いてしまうこともあるし。

それでもね、何かを成し遂げることを私は「楽しい」というし、心底楽しい。そして心底楽しむことを、世の中が必要としていると思う。

 

だからね、僕は社会派ブログを書くのは楽しいというよ。声を大にして。

グーグルで最も出世した日本人が吠えた!国籍、人種は無関係。真に戦えるグローバル人材の必要条件はこれだ!

という記事。もちろん村上氏はいろいろ良いことを言っていて非常に参考になるし事実なのだが、一点だけ「なんでこういう成功者はいつも同じ間違いを口にするのだろう」と思うことがある。

今の日本の大学生の多くは日本の教育制度の犠牲者である。人口減少で大学は全入時代を迎え、“極度の詰め込みによる受験戦争を勝ち抜くと言う”経験をしたものが昔に比べて極端に少なくなっている。知識が詰め込まれていないところに創造力も個性もない。芸術や音楽やスポーツだって知識の詰め込みが脳や肉体にないといいパフォーマンスはできないし、いいものかどうかの評価さえできない。

ここだ。

脱ゆとり?とんでもない!ゆとり教育はこれから大成功する ― 日本の教育に効率と多様性を

などでも論じたが、フォアグラのように単に知識を詰め込むだけの20世紀型詰め込み教育など、もはや何の価値もないと信じている。

もちろん彼の文章には正しいところもいくらもある。いつも10000時間の法則などを例にとって言うとおり、継続的な、しかも半端でない量の努力の必要性は間違いない。努力無いところに成功はない。しかしその努力の源が詰め込み教育だろうか。もし本当にそう信じているのなら、村上氏はたぶん何も分かってないのだろう。重要なのは詰め込まれる事実ではない。

強制的に詰め込むのはいろいろな弊害もある。それ自体が悪い体験になり得ると言うことだ。そうなるとせっかく詰め込んだ経験も「封印したい過去」になってしまい、全くの無駄になる。今の悩める若者を見ていると、フォアグラのように詰め込まれた知識を持ちながらも、詰め込みに対するトラウマに悩んでいるようにしか見えないのである。

教育は単に詰め込んで身につくものではない。詰め込むだけならフォアグラを作るときのように流し込むだけ。それで作れるのはせいぜい脂肪肝。それを咀嚼し、消化し、吸収していくことで初めて力になり、筋肉になる。その詰め込んだ知識を咀嚼する力こそ、自分の心の中からわき出る「やる気」である。これ無しにはどんな詰め込みも無駄である。

そう、本当に力のある人材とは、自らやる気を発揮できる人材である。以下の文章は、そういう人材の有り様をもっと端的に表している。

優秀なプログラマを見分ける方法

良い指標:

  • 技術への情熱
  • 趣味としてのプログラム
  • お勧めしたい技術的なテーマについて話したがる
  • 意義深い(そしてしばしばたくさんの)個人的な長い期間のプロジェクト
  • 独学で新技術を学ぶ
  • 様々な使い道において、どの技術が良いか意見してくる
  • 「正しい」と彼が信じてない技術で働くというアイデアをひどく嫌がる
  • 明らかな賢さ 様々な話題ですごい会話ができるような
  • 大学や仕事以前にプログラミングを始めていた
  • 履歴書レーダーにひっかからない隠れた「氷山」(大きな個人的なプロジェクト)がある
  • 関連性のない技術への幅広い知識(たぶん履歴書には載らない)

自ら率先して学び、実践し、成長する様が見事に表現されている。これはL.starが自らそうなることを望み、かつ自分に課している技術者像そのものである。実践できていると信じたいが。

 

村上氏がそういう「やる気のある人材」であったことは、彼の経歴その他から見ればほぼ疑いのない事実である。にもかかわらず彼のような名実ともに成功した人材の多くが「やる気」の存在を知覚できてないのは何故なのか、というのはいつも疑問に思う。

たぶ一つにんやる気というものが彼らには当たり前すぎるのだろう。しかし世の中の大半の人たちは「やる気」を持つのにすら四苦八苦する有様である。そのようなずれを認識せずになされるアドバイスは「たまたまやる気を持ち得た人材だけが成功する」というモデルにしかなりえない。そりゃ「努力しろ」という言葉が届くはずはない。

もう一つは「努力」と「苦労」を同一視したがる風潮だろうか。つらかった「苦労」の正当化のために「結果」を用いるとするなら、それはつまり苦労が無ければ努力はない、ということになる。昔koshianが

自分と同じ苦労をしなくていい人を見るとキレる人々

なんてのを書いていたが、まさにそういうことだろう。

 

努力することは、もちろん誰でも出来ることではあるが、必ずしも誰もが同じ方法で出来るものではない。

10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に?

でも書いたが、人それぞれ努力出来ない背景や環境や事情があり、それらが阻害要因として立ちふさがる。だからこそ、努力の成果を最大化するためには、そのような事情を勘案したより最適化された手法が必要となるのだ。単純な、画一化された詰め込みなどでは断じて無く。そもそもそんなに画一化した訓練を大量にこなすことが重要なら、セ・リーグは毎年広島東洋カープが優勝しているはずじゃないか。

最近「努力しないと駄目」というのはノマド批判の文脈で頻繁に使われるが、実際に大抵のノマド批判者よりノマドと呼ばれる人たちのほうが努力しているのは、個人的には何ら驚きではない。なぜならノマドにとって、ノマドであることとは自分に最適化された努力手法を実践する場だからだ。それが本当に適切か、万人に通用するかとかいうのは別の話だし議論の余地も大きいだろうが、少なくともその試みは賞賛されてしかるべきだろう、と思うのだが。

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