4月になって久しいが、いつも通りいろいろ忙しくてブログを書く暇がない間に新社会人向けのエントリが大量に出回っている中、若者に対してどういう生き様を提示すべきか、ということを考えていた。

若者はパワーがあるうちに正攻法で正面から頑張れ、というアドバイスももちろん出来る。例えば、どれだけ今の社会を憎んでいても、社畜的生き方をみっちり3年やるのは実は理にかなっていると思う。それはそこから学ぶべきものがあるから、というのも一つ。しかしもっと重要なのは敵を研究する機会を逃すな、ということだ。今の社会が嫌いであればあるほど、それを叩き潰したければ徹底的に研究すべきである。普通に人並みに生きたいなら、あくまで必要十分な程度に身につければ良いだけで、徹底的に研究する必要など無い。敵とするからこそ、隅々まで調べ尽くしてその弱点を徹底的に分析する必要がある。でなければ理不尽な社会の打倒などおぼつかない。

 

しかし、そういうマッチョな生き方が本当に正しい生き方か、というと、自分としてもやってみたが疑問が残る。というのもそれは「やってうまく行かないならもっとやれ」につながるからだ。これはもっとも高貴に見える、しかし愚かな玉砕精神の表れでしかない。うまく行かないのは理由がある。その分析無くしてさらにやっても単なる徒労にしかならない。

もちろん10000時間の法則があるから、頑張って努力すればそれなりのところにたどり着ける。問題はどこにたどり着くか、だ。もはや「努力すれば報われる」ような単純なモデルは滅多なことでは適用できない。「どっちの方向に努力するか」までが問われている時代なのだ。努力の多様化、といっても良いだろう。

 

努力の多様化がもたらす時代を生き抜くのに最適なやり方とは何だろう。ソフトウェア工学の世界では、もう10年以上前からアジャイルソフトウェア開発というプロセスが注目されている。これは完璧な計画を完璧に遂行することで完璧な結果を得るウォーターフォールモデルのアンチテーゼとして発展したものだ。ウォーターフォールモデルは確かにうまく行くときはうまく行く。しかし、さまざまな変化に対応しつつ完璧なプランに従うのはしばしば困難を伴う。そんなときは、あえて長期的に完璧なプランという最適解を捨て、つど変化を許容しつつほどほどの道をたどっていく、アジャイルモデルのほうが平均的に高い結果を出せるのだ。

思えば昭和的な終身雇用・マイホーム・年功序列のような重厚長大モデルはウォーターフォールモデル的である。短い時間でインクリメンタルに結果を出し、都度計画を修正しながら、今できる最善の手を打ち続けられる、アジャイル的モデルこそが今の若者に必要なモデルだ。長期的な展望がないのは、確かに不安に写るだろう。しかし長期的な展望から一歩外れると地獄が待っていたのだ。大切なのは長期的な理想郷という絵に描いた餅を捨て、短期的な地獄を避け続けることだ。

 

そこから現実的なアドバイスに落とし込むと

日本を出て行けなくても現状を打破したい若者に贈る6つのアドバイス

に書いたものと同じところに行き着く。会社に3年とは、経験的に得られたイテレーションの長さである。その中でつねに最善を尽くし、都度最善の結果を手に入れること。もちろん失敗もするだろう。いっぱいするかも知れない。そのときにはそのとき軌道修正すればいいのだ。

実はこのような生き方は、ノマド的なやりかたと相性がよい。オフィス・家のような固定リソースは、イテレーション内で最適な結果を得るためには過剰なことも多い。そういうリソースを極力さけていくことで、経費を最小限に抑えることが出来る。経費が少なければ損益分岐点までの道が近くなる。近くなればささやかな成功が近づく。これはシリコンバレーで流行っているリーン・スタートアップそのもののやりかたである。多様性の時代には、いちかばちかの大ばくちより、小さなところからこつこつと、いろんなところで挑戦し、小さな成功と小さな失敗を積み重ねることがむしろ最適な生き方だろう。

 

この間@HAL_Jに「じゃあ死ね。恐竜のように滅べ」という一言を名言として切り取られてしまったが、実際恐竜のように肥大してしまった組織というのを沢山見てきた。しかもそれが成長が望める大組織ならいいが、「成長するには小さすぎ、維持するには大きすぎる」という悲惨なケースをもいっぱい見てきた。

社員20人から先に進めない小規模ソフトハウス

なんかはまさにそういう救われない例の話である。今の日本で「正面から頑張れ」というのは、そういう穴にはまる危険をはらんでいる。これは避けねばならない未来だ。そのためにはまっすぐで闇雲な努力ではない、多様な努力が、多数の失敗が求められる、そんな生き方が求められている。

 

長々としてしまったが、一言で言うとこういうことだ。

若者よ、すばしっこく生きろ。