2012年01月

「オランダ在住」というと物珍しい感があった。

実際に「オランダ在住社会派ブロガー」なんてL.starぐらいしか居なかった(ブログ以外なら何人かいた)わけだが、これがニューヨーク」となると在住ブロガーというだけでも掃いて捨てるぐらいいるわけで、同じ海外ブロガーでも差別化の難しいところに来てしまったな、と思う。もちろん別にブロガーとしての差別化を求めてニューヨークに来たわけではないし、そもそも選んでニューヨークに来たわけでもないので、そこは仕方がない。

まあそれでも、わかりやすいキャッチフレーズが無くなる以外にも、仕事も忙しくなって文章量も減るだろうというのを予測できたし、自分のブロガーとしての立ち位置、もうちょっと言えば「ブロガー芸人」としての芸風の確立の時期に来たな、と考えていた。

 

何をしなければいけないかというと、今まで何をどういうふうに(無意識に)やってきたかを再確認し、それを棚卸しして「芸風」として抽出することが一つ。そして、その芸風を元にどんな文章を発信して、誰に喜んでもらい誰を怒らせるのかというプランを練るのがもう一つ。そして最後に最も重要なのは、それをもって何を実現するのか。

例えば「ブロガーの喜怒哀楽」分類法と、書評人レビュアー(+α)評というTogetterはその成果の一つで、そのうち2番目のプランを練ることの参考にするために作った。

自己確認の方はこれ持って聞いたら「感情がないのが特徴」とまで言われたのであんまり役に立たなかった。本当のところを言うと、L.starの文章は感情がないのではなく、感情を感情だけで書かず、論理のチェーンを使って表現することで、より激烈な批判に転じているつもりなのだが、直截な批判を避けて妥協案を結論として掲げるのが多いこともあり、あまり理解はされない。そして理解されないゆえか、コメント欄に書かれた「攻撃したかった内容」について同情的な意見が書かれる。それに対する反論は実際に攻撃的になるが、それにみんなびっくりするのは、結局はその攻撃性は分かりづらかったのかなと思う。

 

まあそれはさておき、L.starというブロガーの芸風の原点は、アイザック・アシモフにあった。特にイライジャ・ベイリを通じて。外国人参政権反対派に対する自分の言論の組み立て方は、まさに「鋼鉄都市」でイライジャが懐古主義者に一席ぶったのとうり二つである。

私のことを「原発推進派」とレッテル貼りしてきた連中とのやりとりも「フランケンシュタイン・コンプレックス」を巡るロボット三原則ものの議論そのまま。歴史からの教訓の使い方までそっくり。意識して真似たわけではないし、オランダに来てからしばらくアシモフから離れていたのだが、昔好んで読んでいた故かなり強い影響を受けていたたのだろう。

そしてすでに書いたが「孫子」にもまた、論理展開する上で強い影響を受けている。確かに思想的には西洋的で、アシモフのような合理主義と、中道左派的な「懐疑的な楽観論」を肯定する。しかし展開手法はやや東洋的とも言うべきで、孫子的なミニマックスのような積み上げ、コードを書くときのようなデザイン、そして心理的な読み、それに加えて(合理主義的には疑似科学の範疇により近い)マッサージや鍼灸と、アプリケーションチューニングのような職人芸的ソフトウェア技術で培った大局観的流れ(この2つは実際にかなりの共通点がある)といったものを重視する。奇妙な折衷だと自分でも思う。

 

そんな分析をしながら、L.starというのは本当は喜怒哀楽の「怒」ではなく「喜」のブロガーなのだ、という結論に至った。個人的な経験や他の記事を元に、広い視野から分析展開し、妥協可能な落としどころたり得る結論を導く。その過程での「論理展開」と「落としどころ」の両方を共有する。

そんな自分の文章というのはどちらかというと直接結論を示すより、その結論の裏にある世の理を示すような間接的なものがテーマになる。「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、人に釣りを教えれば一生食べていける 」(老子)にあるような、単なる結論だけではなく、一生考えていけるような人を生み出す原動力。

話すべき相手はだいたいが「サイレント・マジョリティ」である穏健派で、過激派とは左右問わずまっこう対立する立場にある。ちなみに「サイレント・マジョリティ」と書いたが、穏健派は別に多数派とは限らない。むしろ実際には多数でありながら声を上げない人たちに、声を上げる一押しとしての文章を書きたい。ちなみに「いつも読んでて一番納得しますが、内容が政治的なので絶対紹介したりしません」とリアルで言われたことは数度ある。

こういう文章を書くブロガーとして思い浮かぶのはちきりんと池田信夫氏だ。ちきりんはおちゃらけという皮を被り、論点まで誘導しながらも巧妙に結論を隠して、最後を読者に考えさせるという手法を見事に使いこなしている。池田氏は「完全に間違っている馬鹿よりちょっとましなだけの意見」という煽り文章を武器に議論を誘導する(ただし、これは単なる天然馬鹿という意見も根強い)また、村上龍氏もそういう技を使う。彼の質問は時々「お前は何でそんな馬鹿な質問をするのだ」と思うことが多々ある。が、あれはよく見ると「読者が聞きたいであろう答え」を引き出すために巧妙に誘導しているのが分かる。

このような「故意に不完全にすることで誘導する」という手法は有効だと思うが、L.starに使いこなせるか、あるいは使うべきかというとそうではない気がしている。池田氏的手法は外国人参政権問題の時に使っていたが、あれは「反対派があまりにも間違っている故に賛成するのが正しい」というような変な結論に自分を誘導してしまった感があり、あまり良くなかったと今では反省している。

そういう意味では自分らしい「相手を誘導する手法」を発見する必要があるだろう。例えば寓話のようなものとか、最近封印している実体験と重ね合わせて説得力を増すようなやり方とか。

個人的には、より一般解としての「原則」を示していくことをやってみたい。そういうのを書くと「メタ議論に意味など無い」みたいな反論が出てくるのだが、むしろ多様化するこの時代だからこそ、より整理された少数の原則による世の再定義が必要になると思っている。ちょうど私がここでL.starというブロガーのあり方を少ない言葉で再定義したように。

その答えを推し進めるとたぶん「孫子」のような非常に研ぎ澄まされた少数の原則論を示した書籍、仮にまあ☆子とでも呼ぶが、を編纂することに行き着くのだろう。もちろんそれに対する膨大な注釈も含めて。

2012年のL.starは、そんな「現代の古典」を書けるブログ芸人への一歩を踏み出したい。

とりあえずニューヨークに一時滞在してしばらく経ったので、そろそろ第一印象を書き留めておかないといけないので記しておく。奇しくもニューヨークは当初オランダ人が入植しニューアムステルダムと呼ばれていた地、といっても入植から50年程度の短い時期に過ぎないが・・・とはいえ日本を離れて最初に住んだ地が古いアムステルダムで、その次に新しいの、とは偶然に驚くばかりである。

道路整備が行き届いていない

最初に気付いたのは、なんと言っても整備が行き届いていない道路である。主に通行したのはLIEを含むロングアイランド周辺だが、日本でも「かなり荒れている」と言いたくなるような感じである。もちろん一部の印象で全部の地を見ず語るのは愚かなのは分かるが、オランダをはじめとしてヨーロッパは非常に整備が行き届いている国が多く、今まで一番整備のなってないと感じたブリュッセルもここまでひどくはなかった。自動車大国と呼ばれ、北米専用車種が多く見られる国としてはかなり意外だった。

食べ物の量が多く、味が人工的

とにかく食べ物を買ったときの量が多い。美味しいかどうかはもちろんもの次第なのだが、どっかのデリでものを買うとだいたい同じ価格なら日本で買う量の倍は入っている。オランダも量が多かった印象だが、桁が違う。そして味がきつい。朝食は、これはホテルの朝食のせいというのもあるが、ワッフルとかドーナツとかとにかく人工的に甘い。欧州で甘い朝食というとフランスやイタリアだが、彼らはあまり砂糖を使わず、素材の甘さをさりげなく使うのが多い。一方アメリカはどぎつく甘い。他の味も同様である。

もちろんニューヨークはまたオーガニックフードでとても有名な場所なのだが、そこには20世紀初頭の人工的な食に対するカウンターカルチャーとしての自然食というあり方を感じる。ヨーロッパでは食とは伝統であった。日本での食は伝統だが、同時にデパ地下のような圧倒的な人工的カルチャー、田舎に対するカウンターとしての都会であった。ニューヨークは奇妙にも自身がその両方を内包している。

アメリカ人によって作られた都市

オランダという国を説明するのに、「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」という言葉がある。これは干拓により自然を切り開いて作った土地、という意味である。それゆえオランダという土地には他のヨーロッパにはない「作られた自然」というイメージがつきまとう。しかしマンハッタンを眺めたときのその景色をみたら、オランダの作られたっぷりなど何の意味もないぐらいの圧倒的な人工感がある。もう完膚無きまでに発展し尽くしているとまで感じるぐらいに。

それでいて、例えばヴェネツィアのように「進化の袋小路」に陥った感じが全くないのが空恐ろしいところである。300mを越えるビルが何本も建ち並んでいてすら、さらに進化の余地を残す凄さがある。例えばアムステルダムとて17世紀は世界最高の都市と行って差し支えないほど繁栄した、かつては世界に名をとどろかせる大都市だったこと。しかしニューヨークは20世紀の最高の都市であり、なお21世紀に成長の余地を残す。

この点では日本も負けてないなと思うことはある。しかし不思議と神戸大阪東京に、そのような圧倒的な感じを感じることがなかったのはそれがかつて自分にとって慣れ親しんだ場所だったからなのだろう。むしろ「成長を妨げる負の遺産」を、例えば世田谷区の路上を運転したときにとか感じたが、ニューヨークでもこれから味わうのだろう。

 

最後に

とりあえず気になったのはこんなところなのかなと。ただ「異世界に来た」とか「凄いところに来た」とか思うのではなく、不思議と淡々と来るべき場所に来たと言う感じである。

皆様あけましておめでとうございます。
去年はいろんなことがありましたが、今年は平穏でありますよう心から願っております。

とはいえ実は個人的には波乱の年であることが決定でして。私事ながら、ついにオランダの地を離れる日がやってきました。残念ながら(?)帰国ではなく、次の任地はニューヨークになってしまいました。オールド・アムステルダムとニュー・アムステルダム(ニューヨークの旧名)と共通項はあれど、おそらくは驚くほど異なる文化圏に飛び込むわけで、今は期待より不安が勝っている感じではあります。

ひとまず落ち着き次第また更新を始めたいと考えております。特に年末はいろいろとこのサイトのあり方等について考えたこともあり、引っ越しを機にもうちょっとクリアな形で新装開店と行きたいところです。次の仕事の関係上忙しくなって更新が途絶える可能性も高そうではありますが、そうならないように頑張っていきます。

とまあいきなりどたばたではありますが、今年も弊サイトをよろしくお願いします。

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