「オランダ在住」というと物珍しい感があった。
実際に「オランダ在住社会派ブロガー」なんてL.starぐらいしか居なかった(ブログ以外なら何人かいた)わけだが、これがニューヨーク」となると在住ブロガーというだけでも掃いて捨てるぐらいいるわけで、同じ海外ブロガーでも差別化の難しいところに来てしまったな、と思う。もちろん別にブロガーとしての差別化を求めてニューヨークに来たわけではないし、そもそも選んでニューヨークに来たわけでもないので、そこは仕方がない。
まあそれでも、わかりやすいキャッチフレーズが無くなる以外にも、仕事も忙しくなって文章量も減るだろうというのを予測できたし、自分のブロガーとしての立ち位置、もうちょっと言えば「ブロガー芸人」としての芸風の確立の時期に来たな、と考えていた。
何をしなければいけないかというと、今まで何をどういうふうに(無意識に)やってきたかを再確認し、それを棚卸しして「芸風」として抽出することが一つ。そして、その芸風を元にどんな文章を発信して、誰に喜んでもらい誰を怒らせるのかというプランを練るのがもう一つ。そして最後に最も重要なのは、それをもって何を実現するのか。
例えば「ブロガーの喜怒哀楽」分類法と、書評人レビュアー(+α)評というTogetterはその成果の一つで、そのうち2番目のプランを練ることの参考にするために作った。
自己確認の方はこれ持って聞いたら「感情がないのが特徴」とまで言われたのであんまり役に立たなかった。本当のところを言うと、L.starの文章は感情がないのではなく、感情を感情だけで書かず、論理のチェーンを使って表現することで、より激烈な批判に転じているつもりなのだが、直截な批判を避けて妥協案を結論として掲げるのが多いこともあり、あまり理解はされない。そして理解されないゆえか、コメント欄に書かれた「攻撃したかった内容」について同情的な意見が書かれる。それに対する反論は実際に攻撃的になるが、それにみんなびっくりするのは、結局はその攻撃性は分かりづらかったのかなと思う。
まあそれはさておき、L.starというブロガーの芸風の原点は、アイザック・アシモフにあった。特にイライジャ・ベイリを通じて。外国人参政権反対派に対する自分の言論の組み立て方は、まさに「鋼鉄都市」でイライジャが懐古主義者に一席ぶったのとうり二つである。
私のことを「原発推進派」とレッテル貼りしてきた連中とのやりとりも「フランケンシュタイン・コンプレックス」を巡るロボット三原則ものの議論そのまま。歴史からの教訓の使い方までそっくり。意識して真似たわけではないし、オランダに来てからしばらくアシモフから離れていたのだが、昔好んで読んでいた故かなり強い影響を受けていたたのだろう。
そしてすでに書いたが「孫子」にもまた、論理展開する上で強い影響を受けている。確かに思想的には西洋的で、アシモフのような合理主義と、中道左派的な「懐疑的な楽観論」を肯定する。しかし展開手法はやや東洋的とも言うべきで、孫子的なミニマックスのような積み上げ、コードを書くときのようなデザイン、そして心理的な読み、それに加えて(合理主義的には疑似科学の範疇により近い)マッサージや鍼灸と、アプリケーションチューニングのような職人芸的ソフトウェア技術で培った大局観的流れ(この2つは実際にかなりの共通点がある)といったものを重視する。奇妙な折衷だと自分でも思う。
そんな分析をしながら、L.starというのは本当は喜怒哀楽の「怒」ではなく「喜」のブロガーなのだ、という結論に至った。個人的な経験や他の記事を元に、広い視野から分析展開し、妥協可能な落としどころたり得る結論を導く。その過程での「論理展開」と「落としどころ」の両方を共有する。
そんな自分の文章というのはどちらかというと直接結論を示すより、その結論の裏にある世の理を示すような間接的なものがテーマになる。「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、人に釣りを教えれば一生食べていける 」(老子)にあるような、単なる結論だけではなく、一生考えていけるような人を生み出す原動力。
話すべき相手はだいたいが「サイレント・マジョリティ」である穏健派で、過激派とは左右問わずまっこう対立する立場にある。ちなみに「サイレント・マジョリティ」と書いたが、穏健派は別に多数派とは限らない。むしろ実際には多数でありながら声を上げない人たちに、声を上げる一押しとしての文章を書きたい。ちなみに「いつも読んでて一番納得しますが、内容が政治的なので絶対紹介したりしません」とリアルで言われたことは数度ある。
こういう文章を書くブロガーとして思い浮かぶのはちきりんと池田信夫氏だ。ちきりんはおちゃらけという皮を被り、論点まで誘導しながらも巧妙に結論を隠して、最後を読者に考えさせるという手法を見事に使いこなしている。池田氏は「完全に間違っている馬鹿よりちょっとましなだけの意見」という煽り文章を武器に議論を誘導する(ただし、これは単なる天然馬鹿という意見も根強い)また、村上龍氏もそういう技を使う。彼の質問は時々「お前は何でそんな馬鹿な質問をするのだ」と思うことが多々ある。が、あれはよく見ると「読者が聞きたいであろう答え」を引き出すために巧妙に誘導しているのが分かる。
このような「故意に不完全にすることで誘導する」という手法は有効だと思うが、L.starに使いこなせるか、あるいは使うべきかというとそうではない気がしている。池田氏的手法は外国人参政権問題の時に使っていたが、あれは「反対派があまりにも間違っている故に賛成するのが正しい」というような変な結論に自分を誘導してしまった感があり、あまり良くなかったと今では反省している。
そういう意味では自分らしい「相手を誘導する手法」を発見する必要があるだろう。例えば寓話のようなものとか、最近封印している実体験と重ね合わせて説得力を増すようなやり方とか。
個人的には、より一般解としての「原則」を示していくことをやってみたい。そういうのを書くと「メタ議論に意味など無い」みたいな反論が出てくるのだが、むしろ多様化するこの時代だからこそ、より整理された少数の原則による世の再定義が必要になると思っている。ちょうど私がここでL.starというブロガーのあり方を少ない言葉で再定義したように。
その答えを推し進めるとたぶん「孫子」のような非常に研ぎ澄まされた少数の原則論を示した書籍、仮にまあ☆子とでも呼ぶが、を編纂することに行き着くのだろう。もちろんそれに対する膨大な注釈も含めて。
2012年のL.starは、そんな「現代の古典」を書けるブログ芸人への一歩を踏み出したい。