2011年11月

「反就活デモ」の話題がTLで熱い。「非シューカツ生たちのポータルサイト」プロジェクトby terrakeiさんはじめ、書評人で一緒にレビュアーやってるいつもの面々とか、どうみても「反就活」「反社畜」クラスタに属しているので、まあ身近な話題といえる。

もちろん就活や年功序列をそのまんま肯定する若者はほとんど居ない。問題になるのは「デモを肯定するか」で、ここで大きく意見が割れている。L.star自身は海外ニート氏退場に思うことでもやったとおり、彼らの過激な行動とは距離を置いているし、「就活が抱える問題点の根本解決法としてのデモ」は否定している。しかしながらこんなことで「若者の未来を良くしようと思っているみんな」が分裂するのはそれよりもさらに馬鹿らしい。

なので、ちょっとエントリを起こして仲裁に立ってみることにする。

セオリーとしての反就活デモ?


まず最初に評価すべきは、「反就活デモ」をなんのために行い、求めるべき目標は何なのかを明らかにすることだろう。そもそも本来我々が目標とすべきはかつての新左翼時代のデモとは一線を期している。「就活断固粉砕!」などでゲバ文字でプラカードを書く時代ではない。若者が求めるのは「安心して働ける環境」であり、就活は単なる象徴にしか過ぎない。

であるからして素直に評価すると「反就活デモ」はいきおい「労働環境改善デモ」の一バリエーションになる。この文脈で解釈すると「甘えるな。自分の環境は自分で血を流して勝ち取れ」とか、「デモをやっても何も変わらない」という反論が当然出てくる。これは所謂反就活デモ反対派の論理だ。

個人的にはこの点には完全に賛成する。就活という象徴を倒すためには、デモはあまりにも無力だ。正面から攻撃すれば、まさに猛反撃を受ける。そして、よしんば勝てるとしても、就活は腐った日本のシステムの重要な一部分であっても、鍵となるような重要なところではない。力はもっと別のところ、効果的なボトルネックに注ぐべきだ。

日本を変革する力として、デモは全く十分ではない。

セラピーとしての反就活デモ!


ところが信じただけでは救われないが、信じなければ救えない ― 人の内側と外側のバランスを考えるでも論じたとおり、このようなセオリーだけでは、社会全体を語るには片手落ちなのだ。セラピー、心の問題が残っている。セオリーだけでは、心を満たすことは出来ない。若者の心は怒り、傷付いているのだ。これは癒されなければならない。この点においてデモは有益である。多数の人数が集い、大きな声を上げ、統一した行動を取るのは一種の集団セラピーである。集団セラピーとしてのデモは、セオリーとしての反就活デモのような攻撃色は弱め、若者たちのための祭りのようなものになるだろう。

これはともかく重視されなければならない点で、今まではいろんな形で傷付いた若者を癒す役目は、大企業の研修と厳しい初年度の仕事がを担ってきた(だからこそ社二病などという単語が発明されたのだろう)が、就活と従来型労道モデルが否定され破壊されていくなら、何処かでこの心の傷を吸収するクッションが必要である。もちろん長期的には別のロールがそれを満たすだろうが、短期にはデモがその役目を果たすかも知れない。

この考えを補強する最大の理由として、反就活デモ反対派は精神的に強そうなのが多いことがあげられる。かれらはそういうひずみを、一般人に用意された画一化された仕組み無しに乗り越えられるほど強いのだ。しかし同時に、その強さを持つか持たないか、と言う違いが日本に階級制度をもたらすのではないかと危惧している。いや危惧しても、そういう流れは何一つ変えられないのだろうが。

祝祭としての反就活デモ


L.star自身は、正直この「就活」とやらは全く信じていないどころが、もはやシステムとして崩壊していると考えている。だからこそ日本を出て行けなくても現状を打破したい若者に贈る6つのアドバイスなどというエントリを書いた。これはデモのような直接変革によらずとも単に無視するだけで良く、すでにある構造を使って自分の手で勝ち取れ、という趣旨のものだ。「就活などもはや機能しないゴミ」である。

これは、解釈し直すと就活賛成派でも反対派でもない、就活無視派といえる。「お前はもう就活しないからできるんだろ」とか「海外にいて他人事なんだろ」いわれそうだが、とにもかくにも私自身はその呪縛から逃れることが出来たのだ。しかし就活肯定派も、就活否定派も、そうは思っていないから肯定ないしは否定してしまうのである。しかし肯定も否定もしようがない。存在自体ないのだ。

もうちょっと過激に言い換えよう。就活は制度としてはもう機能していない。ただ我々が気付かないだけで、すでに共同幻想程度の力しか持っていない。いまあるあれは、かつての就活のような大規模就職儀式にはもう二度となり得ない。特定の有能かコネのある人物だけが駆使できる別物だ。こういう観点からみれば「反就活デモ」とは、そのように就活が死んでしまったと言うことを、若者だけではなく社会全体が確認することになる、厳かな祝祭的儀式となるだろう。

就活(生年不詳-2011) R.I.P.


生年は個人的には定かではないが、就活は死んだ。死因はリーマンショックの衝撃から立ち直れなかったこと。激動の時代に我々を導きつづけた、まさに制度としては歴史に残る大往生だった。

安らかに眠れ。

そして我々は、就活の死を無駄にせず、自分たちの力と実績と自信を頼りに生きる、新しい時代を生きようではないか。

まず最初に、「レビュアーが魅力の書評サイト書評人」のオープンおめでとうございます。

実はL.starも誘われていたけれども、生まれてこの方書評を書いたことが無く、参加はしませんでした。(例外はエイプリルフールのニセ書評、書評:「コメントからの伝言」 ― 世界を救うソースコード中の「ありがとう」)ただ最近ブログを単に書くのに行き詰まっていたのもあって、これを機に一度書評なるものにも挑戦してみようか、と一念発起して(わざわざAmazonのアフィリエイトID取ってw)今回筆を執る次第です。

さて何を書評しようかと言うことで、自分にとって一番重要な本を選ぶべきだろう、と言う結論に達した。つまり「孫子」。学校で電磁気学を学んだとき「マクスウェルの電磁方程式さえ覚えれば、あとは展開できる」というのを教えられたが、孫子は戦略におけるマクスウェルの方程式である。

孫子には沢山あるけれども、とりあえず一番しっかりした岩波のをあげておく。また私が愛読していたのは若干古いが、同時に「呉子」も入っているこれ(の古いバージョン)

アフィリエイトを貼っておいて矛盾した行動かも知れないが、孫子はすでに著作権も切れており、青空文庫にこそ初秋されていないものの、Webにもいくつか全文がある

Web漢文体系 孫子

には原文および書き下し文が

孫子の兵法 完全版

は素晴らしい解説込みで書かれている。

孫子は春秋戦国時代、BC500年頃に孫子(孫武)によって書かれた。しかしあくまで原作者が孫武というだけであり、実際には長くに渡って改良や解説の追加が行われている。ほぼ今の形になったのは三国時代のAC200年頃、有名な曹操による魏武注孫子で、それだけでも少なくとも700年に渡って編集されていたと言うことになる。

いずれにしても何千年にも渡って高く評価されている一冊であり、その価値は計り知れず、多くの歴史的偉人に愛されている。兵法や軍事なんて何それ、と言う人であっても武田信玄の「風林火山」は知っているだろう。あれは軍争篇の「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」という一節である。

他にも名文がたくさんある。

彼を知りて己おのれを知れば、百戦ひゃくせんして殆あやうからず。(謀攻篇)

は戦略好きには殆ど常識であり、座右の銘とする人も多い。

孫子曰く、およそ兵を用うるの法は、国を全うするを上となし、国を破るはこれに次ぐ。軍を全うするを上となし、軍を破るはこれに次ぐ。旅を全うするを上となし、旅を破るはこれに次ぐ。卒を全うするを上となし、卒を破るはこれに次ぐ。伍を全うするを上となし、伍を破るはこれに次ぐ。このゆえに、百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。(謀攻篇)

も「敵だから叩きのめすべき」という短絡な思考を戒める非常に重要な一節である。良く荒れた中国が脅威に立ち向かうには日本の国際化 ― 外敵の脅威をインターリージョナリズムに昇華せよはその次の「ゆえに上兵は謀を伐つ。その次は交を伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む」の一節を念頭に置いて書いた。ここで書かれている中国包囲網というのはまさに「交を伐つ」そのものである。

まあこんな当たり前の話は置いておいて、「孫子」がどう読むべきかというとこれが難しい。なぜならこれは読む本ではない。そのエッセンスを頭にたたき込むべき本である。書かれている内容はいかな編集を繰り返したとはいえ、あまりにも古い。例えば作戦篇の冒頭。

孫子曰く、およそ兵を用もちうるの法は、馳車千駟、革車千乗、帯甲十万、千里にして糧を饋るときは、すなわち内外の費、賓客の用、膠漆の材、車甲の奉、日に千金を費して、しかるのちに十万の師挙あがる。

今時戦車千両などの品目が役に立つはずもないし、千金などと言われてもいくらか全く分からないし、そもそも10万人の兵を動員する必要など全くない。そのような読み方をしても、全く役に立たず、ここはちゃんとその意をくんで「大きな事業を興すためには諸処の準備が必要で、その上多数の手間と多額の金があって、ようやくこれが実現可能になるのである」というような読み替えをしてあげなければならない。

またその内容の深さと比して、全文はあまりにも短く、きわめて抽象的に書かれている。風林火山のくだりもそうであるし、計篇の出だしも「一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法」とか、わずか1文字で重要なことが集約されている。これを読むためには書き下し文ではやはり不足で、優秀な解説に当たる必要がある。また、解説に当たるだけではなく、それを実体験とマップし、自分の中にその字を取り込んでいかなければ、本質が見えてこない。そのため、孫子には多数の解説書がある。これは古代から現代までずっと。

そしてやっかいなことに、行間の読み方、自由な解釈にこそその神髄があるのが孫子の特長だ。有名な「背水の陣」の故事などがその一例だが、しばしば「普通に読むとこうだけど、しかしこっちのほうがうまく解釈できる!」と言うケースにでくわす。そして、ここまで出来るようになれば一人前の孫子読みなのだ。

L.starが推奨する読み方は、まず基礎として、とにかく数回(出来れば10回ぐらい)読むことだ。この本はとにかく濃縮されているので、最初の頃は読めば読むだけ発見がある。意外なところに意外な名言がちりばめられている。まずはそれを知識としてたたき込むことだ。

そしてその次に、実践として個別事例の他のビジネス本などを持ち出して、比較考量すること。そうすると、実際に孫子の基本的な事項が、現実のどういう部分に結びつくのかわかる。もちろん孫子の解説書などを読むこともその助けになるが、自分なりに工夫して読むこともいいだろう。おすすめは、アプリケーション・クラウドの利益モデルで紹介したザ・プロフィット。

実は本書の中で参考書として紹介されているのだ。中盤あたり、主人公がかなりプロフィット・モデルの考えに習熟した頃に「じゃあそろそろ孫子を読むべきだろう」と出している。早すぎれば関連性が見いだせず、遅すぎれば勉強とマップする時間が取れない、と考えるとその時期は絶妙ともいえる。利益モデルは戦略の実践例としても優れているので、ビジネスとのマッピングにも役立つだろう。孫子を読み、こういった戦略書を読み、さらに孫子を読めばまた見えてくる。

そして最後に自分で戦略的なことを実践することだ。L.starは最近は主に社会派ブログを書くことでそれを実践しているが、書いたあとに読んで「ああ、ここの部分を勘案したらうまくいったのに」とか思うことしきりである。もちろん「ここの部分とこの題材を組み合わせると面白くなる」と言う例もある。

そんなことをしていると100回ぐらい読むことになるし、実際そのくらい読んだだろう。。しかし100回読んでも全く神髄が理解できた気にならない。そんな奥の深さがあるのが孫子である。

最近はTPP談義で盛り上がっているブログ界。個人的にはこのTPPは単なる貿易問題だけにとどまらず、外交や戦略にまで踏み込む話で、経緯まできっちり読み込まないと本当の理解には行き着かないのではないか、と思う。だからTPPの賛成/反対に関する直接的な議論は差し控えたい。

しかし賛成・反対の議論を見ていると既視感に襲われる。そっくりなのだ。外国人参政権問題で盛り上がっていたときと。

外国人参政権なんかよりずっと重要な話をしないか – あなたは開国派?それとも鎖国派?

あたりがそのとき提起した内容。個人的にはそこからネイションシリーズと題した一連のエントリ群なので日本のありようについて考える方向に向いたのだが、最後に「これは合意形成の問題だ」ということになった。しかし、見事なまでその当時となんにも変わっていないようである。また無限ループを繰り返すのだろう。懲りないことだ。そんなわけで、今回は開国鎖国論のアップデート的内容を書いてみたい。

この議論が紛糾するのはもちろん論者の問題があるんだろうが、だいたい以下のような3点の内容が話をややこしくする。

一つ目が、広範囲に適用可能な原則論。例えば三月頃には「絶対安全で、不可逆な災害が発生しないことをを保証できない発電方法は駄目だ」というのが流行った。原発を否定したいのは分かるが、これをまじめに適用すると、既知のかなりの発電方法や産業がアウトだ。あるいは東京都のアニメ規制のときも条例案は「あまりにも適用範囲が不明瞭すぎる」という批判を浴びた。こういう「ワイルドカード原則論」は、一見正論に見えるが、適用範囲を恣意的に制限しないと成り立たない。その恣意的な部分に論理的な破綻がある。

二つ目が、メリット、デメリットの過大見積もりだ。外国人参政権の時は「地方参政権を許せば日本が中国に占領される」などという荒唐無稽な意見があった。こういうあり得ない仮定を元にすると、「ありそうなシナリオ」に対する議論ができない。本当に議論すべきは、もっと現実的な数字だ。プロジェクトマネジメントの例で言えば、「ゲーム開発プロジェクトマネジメント講座」(PDF注意)のP.220あたりで二点見積もり法というのが提唱されている。「80%の確率で完遂可能な悲観的なシナリオ」「20%の確率で到達可能な楽観的なシナリオ」程度が本来見積もるべき数字であって、それ以上を求めても意味はない。

最後が「単に反対だけで自分の意見を言わない」というものだ。「お前は間違っている」というだけで何かの意見を言ったつもりになれる。もちろんそこに「かくかくしかじかという部分は間違っている」等の論理的な部分があればいいが、当然ながらこういう言いっぱなしのやりかたは合意形成の役には立たない。かくいうL.starも「亀井静香(のような頑迷な保守派)があれだけ断固反対しているんだからTPP賛成で間違いないだろう」などと心の中では思っているが、他人を説得する論拠としては完全に間違っているのでネタ以上で発言したことはない。

逆に言うと、上記のような論法を多用することで日本をさらに混乱させられるわけである。日本をアメリカや中国の属国にしたい人には非常に便利なノウハウといえるだろう。延々にガラパゴスな内戦を繰り返せば海軍と陸軍の全面戦争の間に漁夫の利をアメリカに取られた第二次大戦の再来は簡単に起こる。

そう、そもそもの問題は「敵は誰か。何を武器にして闘うか」ということなのだ。敵は「グローバル経済圏(の実態の一部である中国あるいはアメリカ)」なのは、実は反対派も賛成派も同じ。結局のところ「開国か鎖国か」というのは「グローバル経済圏とどのようにして闘うか」ということだ。

グローバル世界を股にかける世界企業という名の蛮族が、日本を繰り返し襲撃してきている。そんな情景がいつも目に浮かぶ。日本版シリコンバレーが成功しないたった一つの致命的な問題を書いたときにも念頭に置いていたが、グローバル企業は騎兵だ。圧倒的な機動力で金を動かし、市場を支配し、法の目をかいくぐって利益をせしめていく。それに対して日本は基本的には城塞都市。やってくる相手を槍や弓矢、ガラパゴスな独自武器で懸命に追い払う。かつて一世風靡したサラリーマンという名の重装歩兵軍団はバブル崩壊とともに致命的な損害を受けた。そして重厚さでは蛮族騎兵に勝っていても、機動力で劣るために常に後手後手に回っている。

鎖国派の人たちは「グローバル経済という蛮族は怖い」と言う。壁を強化してしっかり守りましょうという。確かにそれで当面をしのぐことは出来るだろう。しかし籠城戦を闘うための備蓄はどうするのか?援軍はやってくるのか?そういう耐久型社会はかつて現代において鎖国が現実味を帯びる時 ー 日本第一百科事典財団構想でも考察してみたが、むしろ蛮族の暴れ回る今のような状況より、江戸時代のように孤立を「余儀なくされる」状況がふさわしいように思われる。

もちろんだからといって「開国という形で打って出る」というのが常に正しいと言うつもりもない。何よりも打って出るためには、それだけの戦力が必要になる。かつての日本式サラリーマン軍団では圧倒できないことははっきりしている。グローバルが怖いなら、怖いからこそ彼らと同じように我々も騎兵をそろえて対抗すべき。

そして実はもう一つ、グローバル経済圏を倒すための必勝策がある。それは「世界をフラット化すること」だ。彼らを倒すというのはつまり彼らから適切に税金をがっぽりせしめると言うことなのだが、今のグローバル経済圏の機動力は、実は各国の格差(法律、文化、経済etc…)が大きいことに依存していて、巧妙にそれらの間を動かすことでお金を儲けているのだ。であるからして、彼らを包囲するためには包囲網も世界規模でなければならない。実はTPPは、この点ではプラスである。柵を作って動きを鈍らせるのではなく、他のみんなのスピードを速めることによって彼らの機動力を無効化するのだ。各国が共通の法律等々のフレームワークを持つのはそのための第一歩なのである。

 

などとつらつらと書いてみたが、結局のところ世で言われているようにTPP賛成反対=開国鎖国なのかは自信が無い。本当はそれ自体議論の余地のない割とつまらない選択であって、影響も今までの延長程度なのではないかと感じている。そういう意味では、この「開国か鎖国か」という言い方自体がそもそも「ワイルドカード原則論」のたぐいであろう。TPPを個別に論じるにはあまりにも強すぎるくくりだ。

最後に蛇足的に付け加えると、議論を進める上で「どんなリスクをどれだけ取るか」というのは明示しておかないといけないだろう。それを明示しないことが攻撃材料になってしまうし、当たればメリットがでかいのか外してもリスクが小さいのか、というようなのは重要な論点でもある。あとはFacebookのザッカーバーグのこんな言葉を引用して終わりにしたい。

 

「最大のリスクは、一切のリスクをとらないこと・・・非常に変化の早い世界で、唯一失敗が保証されている戦略はリスクをとらないことだ。」

ザッカーバーグ:「もし今会社を始めるなら、ボストンを離れないだろう」

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