2011年08月

前回

二十一世紀にふさわしい「頑張る」を考えよう…「若い人たちに時間を気にしないで働いてもらう」騒動の本当の意味

がずいぶん盛況で当ブログの1日アクセス記録を更新したわけだが(とはいえそもそも当ブログのアクセス自体たいした数字ではない)まあ良く書けたなと思う一方で、「あー、これ書いておけば良かった」という部分が一つあった。

それは「二十一世紀の頑張る」の例で、L.starのいるソフトウェア業界に古くから伝わるプログラマの三大美徳、怠惰(Wikipediaでは無精)・短期・傲慢というやつだ。

単語だけ見るとプログラマとはなんとろくでもない職業だ、けしからん!と思うだろうが変な言葉を使うのはいわゆるハッカー的偽悪趣味の表れであって本筋ではない。

本筋の部分は@dankogai氏が昔解説した文章がよかったのでそちらを参照していただくとよろしいかと。

404 Title Not Found: #1 プログラマーの三大美徳その1「怠慢」
404 Title Not Found: #2 プログラマーの三大美徳その2「短気」
404 Title Not Found: #3 プログラマーの三大美徳その3「傲慢」

提唱者のラリー・ウォールの真意の翻訳部分だけ引用させていただくと

  • 怠惰(Laziness)
    全体の労力を減らすために手間を惜しまない気質。この気質の持ち主は、役立つプログラムを書いてみんなの苦労を減らしたり、同じ質問に何度も答えなくてもいいように文書を書いたりする。よって、プログラマーの第一の美徳である。
  • 短気(Impatience)
    コンピューターが怠慢な時に感じる怒り。この怒りの持ち主は、今ある問題に対応するプログラムにとどまらず、今後起こりうる問題を想定したプログラムを書く。少なくともそうしようとする。よって、プログラマーの第二の美徳である。
  • 傲慢(Hubris)
    神罰が下るほどの過剰な自尊心。または人様に対して恥ずかしくないプログラムを書き、また保守しようとする気質。よって、プログラマーの第三の美徳である。

なんと志の高いこと。これがどうして21世紀の「頑張る」の参考になる例だと思うかというと、一つはこういう合理的な考えが根性論が根底にある20世紀型日本モデルと合致しないことだ。根性論は20世紀にそのまま捨ててしまいたい行動哲学だと多くの若者が思っているが、そのためには具体的な代替品が必要で、プログラマの三大美徳のようなものはその候補たり得る。

もう一つはなによりこういうモデルを信奉していないにしろそれなりに実践しているグローバル企業のハッカー群が実際に日本企業を蹴散らしているからだ。

いつもこの話をするときに思い浮かぶのはローマ帝国の三世紀の危機で、日本というかつての覇者で最強の歩兵軍団(言うまでもなく「サラリーマン」のことだ)の持ち主が、外敵の騎兵軍団(グローバル企業のハッカーやMBA保持者のようなエリート)に、機動力で勝てないためにぼっこぼこにされる、というシーンである。日本は平均的なレベルの労働者では未だに最強国家の一角を占めていると、外の世界を見て確信している。しかし時代はアカデミックな訓練を受けたグローバル人材全盛期なのだ。

その点プログラマーの三代美徳は、いかにも21世紀らしい行動規範であり、良く文書化もされているところから今後の我々にとって非常に参考になる例ではないだろうかと思うのである。

トヨタ伊地知専務「日本の技術力を守るために労働規制の緩和を」

が話題を呼んでるようだ。特に言うまでもなく以下の部分

「私は若い人たちに時間を気にしないで働いてもらう制度を入れてもらえないと、日本のモノづくりは10年後とんでもないことになるのではないかと思う」

まあこれがどのように解釈されるかというとハム速あたりだともうタイトルだけで分かる。

トヨタ専務「若者をもっと低賃金・長時間労働させたい」

「10年泥のように働く」系の釣り堀としてはこの上なく良くできている。経済界の重役が自分を利する発言をしているという前提に立てばこの言葉は「従順な労働力を安くこき使いたい」と解釈されて当然だろう。まあなんとえげつないトヨタ。若者をどこまでも食い物にする吸血鬼のような経済界と老人層。まさに本音が出た「失言」と言って良い。

しかし本当にそう読むべきだろうか?

今回はこの言葉とその反応が明確に指し示している2つの問題を取り上げたい。一つは「伊地知専務が本当に言いたかったのは何か?」ということであり、もう一つは「若者はなぜ真意を読み取れないのか?」と言う話だ。

伊地知専務の本当に言いたかったこととは?

L.starがこういう発言を読み解く場合に常に心がけていることが一つある。それは「言葉の真意を探るときには、その発言がもっとも善良に見える解釈を探せ」というものだ。むろんこれは相手が騙そうとしているときには成り立たないが、こういう公的な場所で「失言」をするような人は、(しばしば小悪を犯していても)大半が善人なのである。

今回も、これを努力して成功した1私人が若者に送ったエールととらえるとまた違う方向に見えてくる。それは「法律なんかガン無視でしゃにむに頑張った結果手に入れた成功体験を、若者に教えたい。実践してもらいたい。」ということだろう。

それを説明するのが10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に?で言及している10000時間の法則というやつだ。単純に言うと、ある人のあるスキルの実力はだいたいそのスキルに費やした時間だけでだいたい分かるというものだ。

ざっくり10000時間も費やせば、その人は相当な専門家になれる。そこには才能だの何だのというものが介在する余地はあまりない。

このような地味で継続的な努力を邪魔されずに出来るようにさせたい、というのが伊地知専務の親心なのだ。「費やした時間」は絶対に嘘をつかない。

もし10000時間の努力の必要性を否定してやらないならどうなるか?もちろん10000時間の努力は成功を意味しない。しかし君に待ってる人生は100%負け組。他人をだまくらかして生きることすら出来ないだろう。

何故この言葉が通じないのか?

何故こういう言葉が通じないかというのはやはり善意に解釈していけば、老人と若者で前提とするものがいろいろと異なる、と言うことだろう。それは以下のようなものがあげられる。

  • 「あとで報われる」を支える右肩上がり経済と言う幻想の崩壊
  • 女性の進出や文明の発展により、「しゃにむに働く」だけじゃない、価値観の多様化
  • 「とにかく頑張れ」という根性論では通用しないスピードでの世界の発展。戦略や戦術の変化の必要性

これらに対する解決策を政界・経済界の重鎮が指し示せないのはまったくもって残念な話だが、彼らには彼らの成功体験というものがあって、それに縛られていると言うことなのだ。たとえ歴史的英雄であっても、このような大変化を乗り越えるのは困難な話だ。

若者に必要なのは「頑張る」の再定義

ではこの2点の答えを踏まえて我々が本当に必要としているのは? それは「頑張る」という言葉の再定義、あるいはそれに変わる新しい単語の発見だろう。結局のところこの発言の問題はよく言われる「若者と老人の階級闘争」などではなく、お互いの考える理想像の違いに行き着くのだ。若者は頑張らなければいけない。しかしそれは昭和的な根性論的文脈ではない。二十一世紀にふさわしい若者のやり方で、である。

それは「仕事の鬼の夫と専業主婦」というようなステレオタイプから脱却して多様性を肯定し、経済だけでない本人のありようを認め、なおかつこの激動の世紀を乗り切るだけの戦略性と戦術性を確保している。その上で且つ全力を尽くして突っ走るようなものだ。本当にあるのか?と詰め寄られると言葉につまってしまうが、心の中ではこういうものが実際に形をなしつつある、という実感はある。

この件に関して両方の世代に一言ずつ言うとすれば、それは若者には「現状に反発するあまり老人世代の語る真実まで否定しないでほしい」であり、老人世代には「自分たちと同じことをしていないからといって、彼らが何も分かってないと思わないでほしい」であろう。そしてその間で生まれているまだ形にならない新しい概念こそが、我々の本当の希望だということだ。

合意の話の続きをしよう。

前回のエントリからちょっと間が空いてしまったが、引き続き「合意」と言う話をしよう。

合理的な合意は日本国民にとって大変重要なことだとL.starは思っているが、その重要性はあまり理解されていない。合意形成という行為はしばしば妥協と見られ、そして「妥協したら負け」という言葉の方が有名だから、みなさん妥協したがらない。負けたがらないのだ。

それは個人の行動としてはある程度正しい。しかし共同体全体の利益を考えると嘘だ。妥協しなければ共同体の合意が取れず、全体としての組織力を発揮できない。組織力を発揮できなければ外敵に負けるのだ。実際日本は他国に対して以前ほど強くはなくなってしまった。

妥協しなければどうなるか?

それはここ最近でも複数の例がある。まず最初は

ベルギーはもはや国ではない

で紹介されているベルギーの政局。日本は1年で総理大臣が辞めるという異常事態が続いているが、それどころが1年以上も首相が居ない状態が続いているのがベルギーだ。しばしば日本民主党嫌いの人が「日本の総理はあまりにもひどい」と嘆く。個人的にはベルルスコーニとサルコジよりはましだろと思わなくもないが、ベルギーは比較以前の問題。居るだけましというものである。

この問題はフラマンとワロンという二民族の対立が絶えない(ただし対立が絶えないと言っても武器を取るとかそういう話ではない。あくまでわだかまりレベルの話である)ことから発展しているが、それにしても異様としか言いようがない。そして、政権が樹立せず立ち止まっている間にもどんどん問題は山積みになっていく。

例えばベルギーは、現状の50%を越える原発依存率の状態から一気に2015年までの脱原発をすることになっている。しかし、これの進捗ははっきり言って思わしくなく、2025年まで延長せざるを得ない可能性が出ている。延長するにしろ他のエネルギー源整備にしろ、こういった高度に政治的な判断が必要な事項を内閣無しに適切に処理できるだろうか。暫定政府はいまのところよくやっているようではあるが。

また、もはやどれをソースにすればいいか分からないぐらい多いがアメリカのデフォルト問題。今日聞いているニュースでは無事デフォルトを回避できそうだと言うことで安心だが、民主党も共和党もぎりぎりまで妥協の道を探った。それでも本当にぎりぎりまで妥協が成立せずあわやデフォルト、と言う事態にまで来てしまったのだ。最後は共和党のティーパーティー勢力(有り体に言ってしまえば強硬派保守)の妥協しない態度が大変だったとも聞いている。

まあこんな感じで、妥協しないと政治が進まず直面する危機を乗り越えられず、対立する陣営が属する共同体そのものがひどい目に遭うのだ。

政治体制という妥協システム

本来政治体制とは如何にして妥協を形成するか、と言う手法である。例えば独裁制とは独裁者の決定を合意内容とし、間接民主主義とは選挙で選ばれた議員の(多数決による)決定を合意とするのだ。それゆえ民主主義の原理原則的には、合意内容に抵抗する=与党の決定に逆らうというのは、合意を反故にすることと同じであり、それは許されない行為なのだ。まあそういう原則論を振りかざしても対して意味はないが。

それゆえ、民主主義は最大でも50%未満の少数派意見を封じ込めることによって多数派意見への合意を形成する政治形態と言える。もちろんこれは望ましい状況ではないため、議会制民主政治ではいろいろな修正が加えられている。過半数ではなく2/3を要求するような直接的なものから、二院制のような複雑なシステムもある。それはより50%以上という原則以上の広範囲な合意を求めよう、という考えから来ている。

55年体制という「効率的な少数派圧殺」

しかしこの「政治的妥協」に載らない場合、やむをえず原則論に立ち返らざるを得ないだろう。つまり多数派による少数意見の圧殺である。しかしこれは大変不幸な次善の策だ。例えば最近の「反原発vs原発推進」という話にしたところで、仮に現状推進派の方が多数派だったとしよう。しかし反原発派の言い分が100%悪いはずも無く、推進派が多数派だから100%正しい、というはずもないのだ。しかし圧殺すればつまり推進派100%の意見しか存在し得ない。

「政局より政策」というのがその存在を明確にしている。かつての日本の政治、55年体制とは多数派支配をシステム的に確立することによって、社会党や共産党という少数派の意見を圧殺してきたのだ。

残念なことに、このシステムはもう十分機能していない。一党では、豊かになった日本社会の多様性に答えることは出来ないのである。それ故に我々には新しい妥協が必要になる。

政策政党による穏健な多党制、という選択肢

L.starは何度も考察しているが、それは政治で言うならば「穏健な多党制」政策政党による連立政権のような形を取るべきだろうと考えている。多数派とは言えない複数の共同体が、理性と交渉をよりどころに、お互いの政策のすりあわせをやって妥協を形成するのだ。

このような形態のメリットの一つとしては、もはや「反権力」というイデオロギーは機能しないだろうということだ。反権力はあくまで絶対権力の存在があって、それに対して言いたいことを言えるだけ。しかしすりあわせの世界では多数派はダイナミックに変わる。例え少数派であれ、妥協によって特定政策における50%の合意を形成できれば政策は通るのだ。そうなると好きなだけ権力者の悪口なんか言えない。それ以前に自分たちの良いと思うことを通すべき、という道が出来るからだ。

これにより、日本の悪い部分が二つとも消えるだろう。政策に身もないくせに口ばっかりで妥協しない少数派と、少数派の意見を顧みない多数派の両方だ。妥協という言葉は多数派と少数派、両方に対して突きつけられている言葉である。

日本を分裂させない

個人的には考察はさらに続いていくのだが、今の日本は政治だけではなくあらゆるレベルでこの合意形成が崩壊してきている。それは既存の合意形成手法が何らかの理由で毀損してしまっている、ということによる。我々に必要なのはそれを乗り越えて、お互いに妥協して合意を形成することだ。これを放置してなし崩しを続けてしまっても当面は動作するだろう。毀損したのがいつか、というのを答えるのは難しいが、おそらくバブル崩壊後で、実際20年近く動作してきたのだが、果たしてあと何年持つか、と言う話である。あと20年はもつまい。

そう考えるとき、20年後の日本分裂を止めるためにも今から叫び続けないといけないと強く感じている。

「妥協しなければ負け」

日本をベルギーのような分裂国家にしないためにも、強硬的な意見より妥協可能な落としどころこそ求められている。

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