2011年08月

Mixiページなるものが発表されたので調子に乗って作ってみました。本当はあまりmixiやってないんですが。

独り言v6[mixi]

なおFacebookも実は作っていますがこれといって何かをしているわけではありません。

独り言v6 on Facebook

こういったものを、獲得したファンとの交流に使うことによって、より濃密なファン層を形成していくのが今後のやり方とは思いつつ、実際には取り組みがあまり出来ていなかったのはブロガーとしての反省点かと思っています。

ゆっくりですが充実できたらと思っておりますので生暖かく見守ってください。

さて昨日(執筆時の日本時間では一昨日)のツイッターでのトピックはやはり「まんべくんのTwitter」事件。例えば毎日新聞ではこんな感じ。

まんべくん:ツイッターに苦情殺到で閉鎖…北海道長万部町


うちのブログの流れだと海外ニート氏の時のように「他人を煽る発言がどうなの」とか「いくら自分の気に入らない発言だからと言って町に攻撃を仕掛けるような卑怯者はけしからん。全くネトウヨは」みたいな話になるわけだが、ここはがらっと変えてむしろsengoku38の時のような、この状況を利用するような話をしたい。

もちろん炎上マーケティングはよほどうまくやらない限り手痛いことになってしまうのだが、しかし現実には町というより一私人の暴走であり、狙ったわけでは無かろう。だから「長万部町も被害者です」とまあ言ってしまうのもありだ。実際炎上に巻き込まれて火傷したともいえる。

しかし暴走にしろ何にしろ勢いが出来てしまったのは事実だ。なにしろまんべくんのkloutスコアは今日現在85もあるのだし、一気にネットだけとはいえ全国ニュース。それならその流れに便乗してここで動くのが常道であろう。というわけでここは「傷に膏薬」ならぬ「火傷に膏薬」マーケティングで打って出るべきだ。失うものが無いなら恐れることはない。

このタイミングなら、「地方同士の連携」「最新のネットと地方をつなぐ」「地方からのコンテンツ発信」という3つのテーマで集客が出来るだろう。以下に意図を伝えるべく適当な例を考えたので話消費税程度に読んでいただきたい。
「ネット・萌え・ゆるきゃらを利用した町おこし」の総括

ここ数年のゆるきゃらだの萌えだのを使った地方町おこしの例は言うまでもなく増えているが、多少のトラブルはあれどこの「まんべくん事件」のような「不祥事」になったのは最初じゃなかろうか。当然今後も成功例も、問題も、そして問題にすらならず風化していく例もどんどん増えるだろう。そろそろいったんみんなでまとまって総括して、反省点や成功点を洗い出してみてはどうだろうか。長万部町は、それをちょうど言い出しやすい地位にある。題して「第一回日本ご当地キャラサミット」

数カ所の成功例、失敗例の紹介から、パネルディスカッションぐらいまでやれば数百人程度の集客が見込めるだろうし、知見が集まることと、地方の町おこし担当同士のネットワークの構築というのはそれ以上の価値があるのではないか。
「田舎に活用してほしいネット」の宣伝

先のをカンファレンスの1本の軸とすれば、今度は逆、「既存のネット企業から、地方に活用してほしいものの紹介」という反対の宣伝も出来るだろう。今回の問題の一つは、「ネットをあまり知らない市町村側」が「分かっている担当」をうまく使い損ねた例とも言える。それを防ぐためにも、地方の人間が現在のネットを勉強してもらう機会が必要だ。

これは例えば大分で活用されているFacebookの話とかもそうだし、グルーポンのようなマーケティング手法とか、あるいは普通に楽天等のモールもいろいろと地方の人たちに届けたいメッセージを持っている。こういった人たちの架け橋になる良い機会だ。

なお個人的には最近@HAL_Jが最近よく話題にしている「Facebookや位置情報で地方商店街の町おこし」と言うテーマが気になる(彼が何処かにまとめていたはずだが探して見つからなかったのでURLは見つけたら貼る)
「二代目まんべくん」争奪戦

最後は一転して馬鹿話題で。さて終了してしまったまんべくんに対して、早くもそれを揶揄するネタアカウントが登場している。
早くも「まんべくん」ツイッター復活!?殺意の波動に目覚めたまんべくん「ツイッター中止など……なまぬるい!!」【追記有り】

このスピードこそがネットの真骨頂である。今頃こんな記事書いているL.starはその点遅すぎる。自覚はあるが昨日眠かったんだからしょうがない。

「殺意の波動に目覚めたまんべくん」が速攻消えてしまったのは残念だが、こういうまじめという言葉などつゆ知らず、なネット世代に興味を持ち続けてもらうには、なにより火に油を注ぎ続けるのが必要である。

こうなったら町が「真・まんべくん決定戦バトルロワイアル」でも開いて争ってもらってはどうか。

おのおのTwitterアカウントを開設させて

  • Facebookの「いいね!」やはてブの数を競う前哨戦を戦い抜いた人が決勝で町に集まる

  • 町内を歩き回るゲームとか、町の特産品を宣伝させたりとかさせて点数を競う

  • 「どっちの料理ショー」みたいなのをさせてもいいかも。


当然全部ニコ生で中継。途中他地方からのキャラが乱入したりとか、「殺意の波動に目覚めたまんべくん」役の人(しかも元まんべくんの人が中の人とかだとなお良し)が飛び入り参加してきたりとか、そういう仕組まれたアクシデントありでお願いしたい。ついでにオタ系イベントも開ければかなり宣伝になるだろう。

最後の落とし方はいろいろ考えられるだろうが、個人的には参加者みんなが海の幸に舌鼓を売って「やっぱり長万部良いね」とか和気藹々と終了とか、今までの盛り上がりを無視して視聴者がぽかーんとするようなシュールなエンディングを期待したい。

人の心と現実というしばしば相反する問題をどう解決するべきか?ということをどう表現しようか?というのがずっと個人的なテーマで、科学を信じるか、心を満たすかという二律背反を書いたという話はelm200さん、相違より合意の話をしましょうよ。の前書きでもした。

何しろ個人的にも消化不良であったため更新版を作ろうと苦慮してきた。最大の問題は「心」と「現実」をどういう言葉にマッピングするか。今まで使っていた「宗教」と「科学」は意味が明らかに広すぎ、誤解を招く原因だったため、ここをどうにかして突破する必要があった。今回は変わって「セオリー」と「セラピー」という単語を俺定義で使うことでうまく説明してみたい。

セオリー・・・理屈上正しいもの、論理的な支え

「セオリー(Theory)」は本来は理論とか理屈とか言う意味だが、ここでは実験結果とか検証された理論とかに沿った合理的な回答、あるいはそれに沿った意見の意味で使う。「この局面はセオリーなら送りバンド」という用法に近いだろうか。ただし関連する人員の精神面は一切考慮しない。所謂誰にも好かれない正論は典型的な「セオリーであってセラピーではない」といえる

また公正を期するために書いておくと、L.starは基本的にはセラピーよりセオリーを重視するブロガーである。故にしばしば煙たがられるわけだが。

セラピー・・・心理的に満足するもの、精神的な支え

「セラピー(Thraphy)」は「~療法」だが、ここでは傷ついた「精神的なもの」に対する治療行為、カタルシスやルサンチマンの解消とか「癒し」という単語が連想するようなものを指す。セオリーと同様に、現実的にどうかなどは一切考慮しない。例えばニセ医療は典型的なセラピーであってセオリーではないものだ。

「セラピーだがセオリーではない」典型的なブロガーはいわゆるデマ発信者と広く見なされている人たちだろう。彼らは紛らわしい言説を用いて他人の不安に踏み込み、その恐怖を肯定することで(だまされる)読み手にとってセラピーとなる。一方内容は所詮嘘なので、およそセオリーとはかけ離れた結果をもたらすことになる。

「セラピー」と「セオリー」は対立しない。

最初に強く指摘しておきたいのは、以前使った「科学」と「宗教」がなにやら相反しそうなのに対して、まずこの2つは基本的に独立していて相反する概念ではなく、両立可能だということだ。結局のところ前回「科学」と表現したものですらセラピーの要素を含んでいたし、宗教も同様だった。

しかしながら現実には、殆どの概念がどちらかに結構偏っており、両方ともばっちりというのは滅多にない。結果として、その偏り故にどちらかを選ぶ必要は出てくる

また、どっちが特別でどっちが劣っていると言う話ではなく、本来は密接に結びついていて両方ともおろそかに出来ない問題である。例えば完璧に現実的な「人間の惨殺体」を直視できるためには、(一部の倒錯者を除けば)相当の心の準備が必要になる。逆に創作の世界において「なにこれ?こんなのありえねーよプゲラ」と言われないためには相応に現実を踏襲することも必要になる。個人的には「自信は実績に先行する」と考えるので、心と現実では心が土台にあり、現実がその上にある上屋というべきだろうか。

この辺はもうちょっと具体例がないと分かりづらいと思うので、個人的に良くエントリを書いた3つの概念について例を挙げながら示していく。

社畜vs反社畜を例にとって

この「セラピーとセオリー」をよく考えることになったのは海外ニート氏退場に思うことにも書いた「反社畜ブロガー」たちである。思えば退場した海外ニート氏もHAL0213氏も「社畜文化」にひどい目に遭っている若者たちに対するセラピーをかなり重視したブロガーだった。もちろん理論的に正しい部分もそれなりにあり、セラピー100%ではなく、あくまで理論より心象重視、「印象派ブロガー」とでも言うべきだった。一方L.starはその反対の理論重視というか現実重視、「写実主義ブロガー」であり、そのスタンスの違いが彼らに良い印象を抱けなかった原因だったのだろう。

一方「社畜」のほうは、その全盛期の時代は完璧に「セオリー且つセラピー」であった。みんなが嫌なことも我慢して必死にやって社会を回すことは、より強力な社会を形成するためのセオリーであり、それに加わることがまたセラピーとなる、という良循環だった。思えばそれがおそらくナショナリズムの源泉としてのネイションが持つ特徴なのだろう。しかし、現在の「社畜派」にとって本当に社畜であることがセオリーであるかというと、変わりゆく情勢等々を考えるに微妙だろうし、みんなうすうす感づいてはいるだろう。つまり今となっては「社畜はセラピー」なのだ。

この争いが面白いのは、お互いに異なるセラピーに依存している共同体同士の殴り合いだと言うことにつきる。ある人にとって「癒し」であるものは、また別のある人にとって「気に障ること」だったりすることはもちろん珍しいことではない。

このような状況を改善するために考えたのが、二十一世紀にふさわしい「頑張る」を考えよう…「若い人たちに時間を気にしないで働いてもらう」騒動の本当の意味でやったような、基本的にその異なる「精神的な共同体」に対して、「合理的な妥協」を提案することでつなぎ合わせようとした結果である。これは(主に反社畜派からの)反対もあったが、今まで妥協を求めたエントリの中では総じてうまく行ったかなとは思っている。それは「セラピー」の隙間を「セオリー」で埋めようとしたことにつきるのではないか。

外国人参政権、移民、グローバル化問題を例にとって

次に今までコメント欄でもっとも返答したりした外国人参政権問題とかグローバル化に関する話を取り上げるが、先のエントリほどの成功を収めたという感触は全然無い。これらの問題の一方で大きな位置を占めたのはネトウヨやその類の排外主義で、なかなか面倒な相手であった。しかし分析するに、彼らの「愛国」なり「嫌韓」なりが「セラピー」であったことはほぼ間違いないだろうと考えている。

しかし一方で反対側の極にいたのはマスコミにしろ知識人にしろ日本のメインストリーム層であり「セオリー」であった。結果として愛国の人たちの声はかき消されたが、それは力関係の圧倒的な差(しかもメインストリームが強かったと言うより、愛国者層が弱すぎた)によるものであろう。

この問題はまだまだ進行中なので結論は出ていないが、愛国者の方々への「セラピー」は宙吊りになって浮いたままになって、ここが議論上のボトルネックになっている。一般的な解決法としてはボトルネックを迂回するか解決するかだが、戦後日本は常に迂回して、「セラピー」と向かい合ってこなかったために、「反権力というセラピー」が蔓延してしまったんだなとうっすらと考えてはいる。「国士様」も「新左翼」も、特定のセラピーに依存する人というくくりでは同じである。

もちろん「セオリーに反対することがセラピー」という共同体に「セオリー」を説くのは逆効果で、それゆえに今までの「写実主義」な論説が通用しなかったのかな、と考えている。実際国際人たちに聞いてほしいこと。そして排外主義者の人たちにもっと聞いてほしいこと。あたりからは方向性を若干かえて、彼らに対してのセラピーと言うことを考えてみたりはしている。まあでも成果が上がってないのは方向性の間違いかセラピーとして外しているだけなのか、という点は考察しないといけない。おそらく後者だとは思うが。

3.11以降の原発問題を例にとって

最後にもっともやっかいな原発問題を取り上げようかと思う。における「セラピー」は2つの側面で観測できた。一つは「危険厨vs安全厨」だ。ちなみにL.starは安全厨である。理由はシンプルで、警察官・消防士などの「危機対応のプロフェッショナル」は皆周りを落ち着ける方向に持って行く。それを踏襲しているまでだ。

でこのののしりあいに関しては、正直なところ、どっちが理性的であったかなどはあまり意味が無く、突き詰めると「危険だ!」「とにかく落ち着け!」という声のどっちに従うかでかったよた。となると、意外と思う人もいるかも知れないが(当初はL.starも違うと思っていたが)これは典型的なセラピーvsセラピーの問題であった。結局のところこれは大災害を目の前にして、どう心を落ち着かせる、なにをセラピーとしたかだからだ。

結局当初の沈静化に一番役だったのは素早く可能な限り正確な情報発信を行った学者の方々であるがこれは無論「セオリー」であり、「社畜vs反社畜問題」と同じ構図が見て取れる。

 

もう一つの問題は「反原発」である。今回の事故にショックを受けた人は非常に多く。この心理的なショック、「心理的被曝」のほうが「物理的被曝」より広範囲にダメージを与えているのではないかと思えるほどである。もちろん、これだけの大衝撃なのであるから、こういった人がセラピーを求めるのはもちろん当然であり、その原因が原発事故なら当然反原発に落ち着くというのも当たり前であろう。

もちろん「反原発が非セオリー」というわけではない。ただ現状セオリーかどうかは差し置いてでも「心理的被曝に対するケア」が民衆に求められているということだ。これは以下のようなものが観測できることから裏付けられる。

  • 異なる視点を支持する他者への排斥
  • 不正確でしばしば科学的に誤謬のある情報(デマ等)の蔓延
  • そのコミュニティでのみ圧倒的な支持を得る「反原発セラピスト」とでも言うべき人々の登場。

ところで「マスコミはスターを持ち上げてすぐ落とす」と言うが、これも「スターを持ち上げることはそのファンにとってのセラピーであり、それによってファンが満たされると今度はアンチに不満がたまり、そのスターを貶めることで安置にとってのセラピーになる。これで一石二鳥」という流れでマスコミの悪意を使わずにも説明できるな、などと蛇足に思ったりしたが、それは置いておこう。

とにもかくにも、心理的被曝は物理的被曝よりも現状ずっと切実な問題だ。

こういった推移はしばしば3.11が「第二の敗戦」と呼ばれているように、敗戦から反戦平和へと動いた当時と呼応している。ただし大きな相違があるのは、セラピーとして我々が求めたものと、セオリーとして我々が必要としているものの差だ。

「反戦というセラピー」と「戦争は可能な限り避けるべきというセオリー」は共存可能で、世界情勢もおおむねそれを許した。一方「反原発」と「今後30年の理想的なエネルギー戦略」が一致するかというとはっきりしない。超長期的には化石燃料の削減はもちろん目標たるべきだが、炭化水素よりウラニウムが優先すべきかとか代替エネルギーをどう確保するか、そしてそれにどう技術的糸口をつけるか、と言う点まで含めてみると未だ不透明である。

妥協点としては2つ考えられるが、一つは「反原発」でも「脱原発」でも「卒原発」でも言い方はなんでもいいが、なんとかしてセオリーまで昇華してしまうことである。現実的に実現可能な解法を目指す「穏健的脱原発派」は基本的にその手法の明文化だと思っているからこそ個人的に支持している。もう一つは徹底的なセラピーにより「心理的被曝」を治癒させる方法だろう。

しかしその両方をうまく組み合わせるのがもっと賢いやりかたなのだろう。孫正義vs堀義人の対談はまだ全部見たわけではないのだが、最初に素早く大きな声で反原発を叫んで耳目を集めてから現実的に徐々に修正を加えていく孫正義にしろ、広く門戸を開きながら事実を積み上げて合意形成を目指す堀義人のやり方も、単純にどちらかを目指すよりもずいぶん巧みだ。最初の頃はどうなるかと思ったが、案外落としどころに落ちるのかな、というのは見えてきていると感じる。

人の内側と外側をバランスさせることの難しさ

セラピーとセオリーはどんなもので、それによってどのように既存の問題を説明できるかはまあ示せたと思う。うまく突き詰めればこの二者を1つの概念に統合するような方向にもさらに進められるだろう。しかし、この2つは「人間の内側」と「人間の外側」というこれ以上分解が困難なものの写像だから、これ以上融合しないほうがいいだろう。

そしてつくづく思うのが「セオリーとセラピーのバランスをとる」ということの重要性と難しさだ。この2つは関連しているため、どちらかがおろそかになると両方ともが失速してしまう。そして元々直行しているため、よほど考え込まれていないかぎりあっさり偏る。バランスを取るのは非常に難しい。しかし現実に巧妙にコントロールしている人がいる。

それゆえに今後は如何にブロガーとしての自分にセラピストとしての要素を追加していくか、と言う課題を追求すべきだと思っている。その点で本当は一番参考にしたかったのは長い通勤時間を有意義に使えるようになれば日本は圧倒的に一人勝ちするで真似たパオロ・マッツァリーノ氏(実際、他の誰かのスタイルをわざわざ真似ようと思ったことは一度もない)だが、いかんせん文体も違えば笑いのセンスもない。今取り組んでるのは対立するコミュニティをうまくなだめつつ合理的な合意形成に導くという手法もやや古くさい。いずれにしても精進あるのみかと思う。

 

謝辞

なお、本エントリをあげるに当たりTwitterで「ブログはセラピー」とか「デモはセラピー」などと「セラピー」という単語を連呼することでその概念をL.starにもたらしてくれたのはラカンさんである。この場を借りてお礼申し上げます。

ブログ職人の朝は早い

「まぁネタではじめた仕事ですから」最近はホッテントリに入れないと愚痴をこぼした
まず、2chまとめサイトの入念なチェックから始まる。
「やっぱり一番うれしいのは大量の煽りコメントね。この仕事やっててよかったなと」
「毎日毎日角度とかが違う。考えないと出来ない」

今日は更新日。彼は文章を推敲し、更新ボタンを押した。基本的な形は決まっているが、最近のユーザーの嗜好に合わせ多種多様な煽りを入れないといけないのが辛いところ、と彼は語る。
「やっぱ反原発派はキツイね、愚痴ってもしかたないんだけどさ(笑)」
「でも自分が選んだ道だからね。後悔はしてないよ」
「このスレはダメだ。ほら、すぐにネトウヨに荒らされてしまう」
彼の目にかかれば、見るだけでどんな客層が来るかが分かってしまう。ネット立国日本、ここにあり。
今、一番の問題は後継者不足であるという

PVに満足できないとその日の更新をやめてしまうという。3年前は何十ものブログが議論を重ねたこのムラだが今では職人は彼一人になってしまった。
問題はタイトルで客を釣る感触を確かめるのに、2年はかかると、匠は語る
「自分が気持ちよいのももちろんだけど、読んでくれる人はもっと気持ちよくないといけないね」
「もちろん出来上がった物は一つ一つ私自身で朗読チェックです」
ここ数ヶ月は、Tweet並べるだけで記事っぽくなりPV集めるのも簡単なTogetterに押されていると言う。

「いや、ボクは続けますよ。待ってる人がいますから───」
オピニオン系ブロガーの灯火は弱い。だが、まだ輝いている。
「時々ね、わざわざトラバまでくれる人もいるんですよ。お前は売国奴だって。ちょっと嬉しいですね」
「全然関係ないクラスタなのにわざわざ読んでくださる人が何人もいる。心が続く限り続けようと思っとります」
「やっぱねえ、自己流だからこその勢いってあるんです。理論がいくら進化したってコレだけは真似できないんですよ。」

2009年、はてなショックではてブ数が1/3にまで減少し、一時は店をたたむことも考えたという
「やっぱりアレですね、たいていの若い人はすぐやめちゃうんですよ。Twitterでふぁぼりまくる方が楽だとか、ニコ生でなれ合っていた方が良いとか……でもそれを乗り越える奴もたまにいますよ。ほら、そこにいるBLOGOSもそう。そういう奴が、これからのブログ界を引っ張っていくと思うんですね」

最近ではFacebookでも注目されているという。手に付いたポテトチップの油をぬぐいながら
「ノビーに追いつき、追い越せですかね」
そんな夢をてらいもなく語る彼の横顔は職人のそれであった。

今日も彼は、日が昇るよりも早くTLのチェックを始めた。明日も、明後日もそのReplyの無礼さは変わらないだろう
そう、ブログ職人の朝は早い
───――完───――

 

あとがき:

いや@elm200さんから「ブログ職人の称号を贈りたい」と言われたけど、職人と言われてもオナホール職人の朝は早い以外思い浮かばなかったのでのでついかっとなってやりました。原文は

オナホール職人の朝は早い

から持ってきています。

なお、実在するサイト名等を使用しておりますが100%ネタ&フィクションです。ご了承ください。

周りのTweetでびっくりしたが、2chあたりに生息する一部のの心許ない連中から個人情報暴露されたらしい海外ニート氏がブログとtwitterを閉鎖したそうな。直接のソースはないが

海外ニートさんblog閉鎖?騒動

などで語られている。

L.starは割と反社畜的な情報も発信していたから、彼の退場を惜しむ名前に見たことがあるようなのがちらほらと。また同様のクラスタに居ながらやはり去年ブログを止めてしまった@HAL0213ともtwitterでは交流があった。そういう意味では「あいつらの仲間」と思われている節もあるだろう。海外組だし。

海外ニート氏とは実は直接やりとりは少ない。が、2年ほど前に珍しく以下のエントリは彼のブログに対する反応で、向こうでも紹介されている。

明文化されていない制度に振り回されるのはもうやめませんか?

昭和的な日本の労働環境に対して外からの視点を導入することで現状の問題点と改善の方向性を指摘する。@HAL0213にも海外ニート氏にも言い分に一定の理があったのは事実だろう。

しかし二人とも攻撃中心で、脇が甘かった。融和(最近の言い方だと「妥協」)に対する目標を提示してこなかった。江戸の敵を長崎で討つような卑劣な手段を使った相手に問題がないわけではないだろうが、それに対する防御策をちゃんと練ってたのか?練ってなかったら自業自得じゃないか。

しかし、その「反社畜」に特化したブログのスタイルがそういう防御をなおざりにせざるを得なかった最大の理由だと思う。実は、さっきのエントリの彼の反応に対して、さらにもう一個、以下のエントリを書いたのだ。

必要なのは攻撃ではなく融和 – 相手をそっくり取り込むのが上策である

今回あらためてこの文章を読み返しながら、ちょっと悲しい気分になってしまった。このときにはもう、ああいう一方的な既存体制側のプライドをずたずたにしても平気な論説ではいずれ躓くと言うことが分かっていた。

L.starは煽るエントリも嫌いではないしたまに書く(そしてほどよく炎上して叩かれる)が、むしろ最近は対立する2つの派閥の真ん中の絶妙な、お互い妥協しやすい位置を狙ってオピニオンを書くようにしている。いや、少なくとも本人はそのつもりである。それは「一方的に叩く」というやり方では本当の幸せにはならないと思うからだ。

しかし、結局のところ全然不十分だった。自分の所属するクラスタすら止められてなかったのだ。突っ走っていた彼らを止められなかったのは至らなかったところと反省している。

ちょうど先2つのエントリも労働関係だったが、言葉や様式や慣習など違うことは多々あっても、我々(つまり社畜の人も反社畜の人も反・反社畜の人も)の目指す先は同じはずなのだ。だからこそ陰湿な喧嘩やいじめなどやめ、協力できるところは嫌々ながらでもしなければならない。

この間のエントリそのままだが「妥協しなければ我々が負ける。」のだ。

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