2011年06月

前回の科学を信じるか、心を満たすかという二律背反、特にBLOGOSの方でいたく好評で、個人的には受けない自己満足エントリだと思っていたのに意外でした。

しかし自分の文章力不足を感じたエントリで、ここまで困難を覚えたのは日本人が英語をしゃべらなければならない理由以来。これも「グローバル社会はローカルを抹殺するのではなく、相互補完的な存在にならないといけない」という重いテーマと取り組んで、自分なりの結論は得たもののなかなか書けずに苦労して、できばえも満足とは言い難いものでした。今回も特に「科学文明」「宗教」とした単語に対応する概念が結構広範囲な意味をカバーしなければいけない上に不明瞭で、自分でもぶれがあったし、またそれゆえにおのおのが好きな解釈をして自分勝手な感想を述べているのがあったりとか、隙も多かったかなと反省することしきり。

実はこの思想は、元々は1年ほど前、ホメオパシーが発端になったニセ医療バッシングが合ったときに「なぜ人はホメオパシーのようなニセ医療に走るのか。そしてなぜニセ医療叩きの人は西洋医学以外の代替医療を頭ごなしに否定するのか」というのがスタート点です。が、そのときはついに書ききることは出来ませんでした。医療という話題が重すぎましたし、当時の代替医療バッシングの勢いたるやものすごく。「エビデンスという形で代替医療も信頼のあるものだってある」というわずかながらの反論もはてブで袋だたき、と言う有様で、まさにヒステリーの様相で。

この思想とジャレド・ダイアモンドの環境問題感をつなぐところにあったのは彼が自分(の思想)のことを「グリーンピースのような環境主義者からは企業の犬と言われ、企業からは環境団体の手先と言われる」と評していたことにあります。まさに医療のときもその構図でしたから。

ホメオパシーという単語が出てくるあたりからも、今回あつかったのは「科学文明にどう相対するか」という心の問題なんです。「この記事で扱っているのは科学ではない」と言われたけどそれはある意味正しい。あと結構反・反原発っぽく解釈されてしまったのも確かなんですが、L.star自身としてはそれは本意じゃなくて、自分の意見がバイアスが掛かっていることを理解しつつ、その上で中立的な観点を、そして原発問題心がけて書きました。それらがうまく伝わらなかった文才のつたなさは恥じております。

本当はこれを機にもう分裂の続いているエネルギー問題についてつぶやくのは辞めようかと思って書いていたのですが、

■L.star さんの「科学を信じるか、心を満たすかという二律背反 」によせて

というメッセージをいただいたので返さないわけにも行かず。

L.star さんにとって原発は科学技術の象徴のように見えるようですが、はたしてそうでしょうか?

L.starの意見は終始して「原発は科学技術文明の一部」としてしかとらえていません。たとえばここ

大事なのは原発ではない。文明の効率だ。

つまり「原発という一部で科学への信頼が揺らぐ」という論調なのです。となると、お互いに「お前は原発を重要視しすぎている」と言い合っているわけです。実に面白い。

技術としての原発は、結局、以下のエントリのような存在ではないでしょうか。

「核変換」抜きの原子力は未完成な技術

(中略)

私は、現行の原子力技術には、その欠点を上回るだけの利点はないと判断しました。むしろ、その欠陥たるやきわめて深刻であり、非倫理的とすら断定せざるをえません。

その見積もりには、人によって今でもまだまだずいぶん大きな差異がありますね。例えば「消極的原発推進派」の殆どの人はリスクを把握した上で「それでも他に選択肢がない」とまで考えるわけです。

例えばL.starが危惧する最悪のシナリオというのは、「科学的に十分完全とは言えず、非倫理的ですらあるウラニウム核分裂による発電」も含めてあらゆるエネルギー源を最大限使っても、未来のエネルギー需要を賄いきれない可能性です。ジャレド・ダイアモンドもそうですが、Thomas Friedmanも指摘しています(リンクは/.J。そういえば二人ともピュリッツァー賞作家ですね)

このような状態が予見されるときに、「原子力は危険だから使わない」などというわがままは人類に許されるのでしょうか?

最終的にこのシナリオを回避したときには原子力を使わなくていいかもしれませんね。それには長い年月が掛かります。危機感を募らせた某大国がWW3を始めるかもしれません。そうすると何千万人の死者が出るか想像も付きませんが、およそそれは幸せな社会とは言い難いでしょう。

このように、お互いの相違について言い合いをすることはもちろん出来ます。いくらでも。

でもね、そういうのもうやめませんか?

我々に必要なのはどの意見が正しいかなんかじゃありません。どの政策が一番我々を幸せにしてくれるかですよ。何が嫌いか、何が好きかだけで政策を通そうとしても、それは多数派による少数派の圧殺しかありません。まさにかつて自民党が、そして今民主党がやっている政局ってやりかた。今の政治は、我々のやり方の縮図です。変えませんか。

そのためには、意見の相違を乗り越えて合意形成しましょう。L.starはだれの宗教も軽んじるつもりはありません。ただし、その主張のベースとなる理論やデータのつたなさには反発しますが。違いをぐっとこらえて、協力しましょう。残念ながら我々にはそれほど合意できる事項はまだあまりなさそうですが、いくつか思い浮かぶものはあります。

まず「究極の目標は日本の持続的成長」というのは大丈夫でしょう。「成長」が指す言葉には経済なり幸福なり技術の発展なり、子どもの幸せなりいろんな解釈がありますが、広い意味で見て推進派から反対派までこれに反対している人は殆ど見たことがありません(ただし一部、社会の不安を煽って楽しんでるだけの人がいるように見えるのは残念な限りですが)

そこへ行き着くために必要なやりかたとしてマキャベリの「天国に行くための最良の方法は、地獄に行く道を熟知すること」をあげたいと思います。elm200さんは原発続行を選ぶことで地獄へ行く道をいくらもあげられるでしょう。残念ながらL.starも脱原発によって地獄へ行く道をいくらもあげられます。とりうる政策の組み合わせは膨大ですが、それらを全部ひっくり返して調べ上げ、正解を探さなければならないんです。反原発か、原発推進かはあくまで手段に過ぎません。目的であってはならないんですから。

また、個別の政策についても例えば「自然エネルギーの推進」や「社会の効率化」は誰も異存がないはずです。問題にされているのはこれらの政策の是非などではなく「いつまで」「どれだけ」といった具体的な目標です。反原発派の人はしばしばこの点についてかなり楽観的な数字を口にします。原発に安全神話が無かったように、悲観的に現実的な数字を詰みませんか。いざ当てにしてやっぱり無理だった、は何にせよ好ましくないのですから。

三月十一日、あの日Twitterを見ていて日本に希望を感じた。そこには本当に「目の前の惨事を、懸命にみんなで助け合って乗り越えよう」というはっきりとした力があった。

しかし、その「力」はいつの間にか無くなってしまったようだ。日本はまた日常の分裂に戻り、平時のように政局が繰り返され、TLは反原発と原発推進が乱れ合うようになった。最近極端な意見ばかりを尊重する人をだいぶん切ったので私のTLだけはやや平時に戻ったが、Togetterとか見る限り、未だにそうでもないらしい。

しかしこの「反原発(or脱原発)vs原発推進」という論争は全く不思議だ。L.starの立場だけからみてもこんな感じである。

  • L.starを含む穏健的脱原発派(当面継続はやむなしだが時間をかけて脱原発)と言う意見がなぜか「推進派」あつかい
  • 反原発派の科学技術的に明らかな間違いを意見の問題点を指摘したら推進派扱い
  • 穏健的脱原発派と反原発派の言う「自然エネルギーへの移行」が何故か全然別物に見える
  • 今まで同じような意見だと思ってた人が何人も「転向」した(なぜかL.starの周りでは全員40歳以上)

といってもなにやら前もそういえばあったな、と言う気がしないわけでもないのだが。もちろんこれは一方的な意見であり、反原発派から見ると別の「不思議」があるのだろう。とにかくしかし個人的には尊敬までしていた人たちがあっさり転向したのを見て、「はていったいこれは何が起こっているのだろう」と頭をかしげるに至った。

で、考えた結果とりあえず辻褄が合う解釈が見つかった。そしてそれは結局また「ネイション」の問題に行き着いた。だから今回のエントリは如何にして日本が分断されたか、ということとその意味を論じることになる、「ネイションシリーズ」の最新作になってしまった。

相反しないのに対立する2つの意見

それをはっきりさせてくれた「反原発」と「穏健的脱原発」の意見を一つづつ出してこよう。

「反原発」のほうは村上春樹のカタルーニャ国際賞でのスピーチだ(翻訳は例えばここ)。ちなみに、村上春樹は確かに好きな作家だが、別に「転向者」の例ではない。昔からそういう、何というか「文明の持つ危うさ」というところにずっとフォーカスしている作家である。今回も(意見の相違を持つファンとしてはちょっと悲しいが)ごく当然の行動だと言えよう。

「穏健的脱原発」のほうはそれに対する馬場正博の反論文

村上春樹氏への手紙に代えて

だ。この文章は「イースター島」という単語と内容だけで、「文明崩壊」で著者ジャレド・ダイアモンド氏が開陳した彼のエネルギー・環境問題観をベースにしていると分かる人には一発で分かる代物で、L.starの価値観もそれをベースにしている。(本の)著者は環境問題については非常に熱心であり、彼がこの本を通じて投げかける価値観は1行で要約すると「資源の不足が急激な文明崩壊を招く。だからこそ我々は今ある資源を出来るだけ大事に使い、破滅を避けなければならない」というものだ。

この意見は反原発派の主張する「自然エネルギーの実現」と中期的(今後100年以内ぐらいか)には目標を同じくする。しかしこれが目標が同じであるにもかかわらず「原発推進」と言われることに、問題の本質がある。

じゃあこの意見の違いは何だろう。一つは原発を否定しているかしていないか。もう一つは文明の効率を否定しているかしていないか。大事なのは原発ではない。文明の効率だ。

村上春樹氏はおそらく全部分かった上で、そこであえて「非現実的な理想家として」文明を否定しに掛かったのだろう。その結果として、彼は原子力を否定した。有名な壁と卵の比喩で言うと、壁は「原発」などというつまらないものではなく、我々が恩恵に浴している「文明」であった。馬場氏はそれに乗って文明を肯定したのだ。

急性反原発症候群=屠殺場を見たショックでベジタリアンになる

これを手がかりにL.starは反原発に転向した人たちを「単に原発の恐ろしさに気付いた」と言うだけでなく、「原発事故の被害を見て科学を肯定し続けることに怖じ気づいた」と推測した。

科学による文明の進歩は、きれい事だけじゃない、という一言では生ぬるいほど罪深い。まさに馬場氏が指摘するとおり「血で汚れている」。その文明の血塗られた手が、同時に恩恵を施してきたのだ。こういうきつい現実に思い至ったとき、取るべき選択肢は「開き直る」「逃避する」「罪を意識しつつも辞めない」のだいたい3つである。卑近な、例えば「動物を殺して食べて生きる」と言う例で言えばこの選択肢は

  • 開き直って肉をがんがん食うどころが、道楽のためだけに殺しはじめたりする。
  • 自分の罪にうちひしがれ、ベジタリアンになる
  • 罪を自覚しつつも、殺された動物に感謝しつつ肉を食べる

となる。ちなみに上から「強硬的原発推進派」「反原発派」「穏健的脱原発派」である。分かってみれば何のことはない、突然反原発に転向した人たちの心理とは、と殺場を見学してその凄惨さにショックで肉を食べれなくなることと枠組み的には同じなのだろう。ただし、これらは思想的には基本的に等価で、そこには善悪も優劣もない。ここに行き着くと残りはわかりやすかった。

律儀なベジタリアンに「今野菜等が少ないからとりあえずあまっている肉を食べて、そのあと野菜の調達が出来たら野菜を食べればいいよね」という理屈は通用しない。

そしてこのような経緯を経てベジタリアンになったのであれば、野菜を食べるのは今まで肉を食ってきた償いとしてである。穏健的脱原発派は来る自然エネルギーを単に技術進化の結果として淡々と食べて文明が滅亡しなかったことに感謝するだけなのに対し、反原発派は自分たちの贖罪が神に認められた結果のように、楽園の到来のようにとらえるであろう。

科学文明を肯定する難しさ

この宗教的価値観のデメリットは、その「罪」が自分の思考の中に絶対的なポジションを占めてしまうことにより、客観的な思考を妨げることだ。他方メリットは、精神的救済をもたらすことである。科学文明が要求する、あるいはグローバル化がと言い換えても良いが、その本質は、絶え間ない闘争である。それは我々の生活を便利にしてくれるが、心を満たしてはくれない。

これは別に今回の原発事故に限ったものではなく、例えば医療界隈でもしばしば見られる行動で、西洋医学を信用せず代わりに代替医療に走ったりするのと同じことだ。また一概に全部科学不信になるわけでもなく、特定の分野(一般に専門でない分野が多い)だけ不信になる。

L.starは「科学」も「宗教」も、「自分にとってブラックボックスとしか言いようのないものをどうやって理解するか」という命題に答えるものである、と言う点で同じだと考えている。今は神だの精霊だのを使わないと正しさを担保できない宗教より、単純に数式と概念だけで説明できる科学の方が優勢であるが、2000年前にはそうではなかった。神だのなんだのという補助的概念を導入しない限り理解するは難しかっただろう。

しかし宗教はもっと包括的なシステムであり、宗教的救済という形で文明の罪を「許す」ことができる。科学はより理解に特化しているため、罪をそのまま受け止め続けるしか方法がない。それゆえ、科学の欠陥(常にどこかしこに存在している)は、宗教への道しるべになることがある。それをとどめることは出来ないのだ。

我々は科学の進歩に飽いて、心の救済を望んでいるのか

この「科学流思考」と「宗教的思考」の分裂は文明に依存して生きている我々にとって恐ろしい問題の一つである。科学重視という暗黙の合意こそが、我々の文明の進歩の鍵であり、分裂はその崩壊を意味するからだ。

先に紹介した「文明崩壊」では、食糧資源の不足が引き金となって文明崩壊を起こし、そのときには共食いのような恐ろしい行為まで行われ、規模としては激減、あるいは完全に滅亡して後生からは「栄華を誇っていたのに忽然と消えた」と評されることになる。このときに「精神的な支柱」という資源については何も語られていない(し、理論に乗せることも難しいだろう)が、ある種の相関があるだろうとは想像している。

例えばローマ帝国末期には蛮族との力関係の逆転等により国力が大きく乱れたが、内部では同時にキリスト教が勃興し、最後には帝国はキリスト教に乗っ取られた。理性的なローマ人は、キリスト教的な日本人の思うような宗教的価値観に勝つことは出来なかったのだ。そしてヨーロッパは暗黒時代になった。

科学を肯定できない人が増えるということは、それが原因にせよ結果にせよ、現状の文明の衰退のサインなのではないのだろうか。

追伸:

なお、これをみた反原発派の人は「お前(ら)の方がよっぽど宗教だ」と反論してくるのは想定の範囲内だが、L.starは反原発派以外も同様になにがしかの宗教観を持っていることは認める。なんとなれば、「殺された動物に感謝しつつ肉を食べる」こと自体を説く宗教もある。

ただ、自分の属する原発許容派をここまで客観的に見つめるのは困難だし、推進派に至っては最近はなりを潜めている。ために、その宗教観がどのようなものかという分析は難しい。やるのであればそういう派閥を客観視できる他芝の人におまかせしたい。。ただ、推進派の中にはオイルショック時に「このまま火力偏重していると国が滅ぶ」というショックを受けて「転向」した人が少なくないだろう、ということは何となく分かる。

そして本当は選択肢は4つあって「自覚した罪を誰かになすりつける」というのがある。ただこれはそもそも下劣な行動であるので、選択肢としては理解するがそれ以上の詮索はしない。

日本の政治の迷走はとどまることを知らない。なんと管政権は1年も持ったらしいが、近々退陣と言うことで、これまた1年前後の短命政権になる。個人的には民主党の党首推移は山勘で鳩山-管or岡田-前原等の若手-小沢と予想していたので、想定の範囲内ではあるが。

しかしどうしてこれほど短命政権ばかりになるのだろう。民主党、あるいはマスゴミのせいと結論づけても駄目だ。自民党が小泉以外に長期政権を持てなかったことを説明することが出来ない。そう考えると要は元々おかしかったのだ。民主党も政権を維持できないのは、政権寿命の問題は自民党の体質のせいだったわけじゃなく、自民党と民主党が共有するシステム、つまり日本の議会の持つ暗黙のシステムに根ざしている問題だということを示しているのだろう。

それはつまり、一党優位多党制の崩壊である。日本の多党制は、永らく強固な政権与党があり、野党が何を言おうと無視できるだけの権力を持つことが出来た。そのための常に過半数を維持するだけの基盤を自民党が持ち続けることが出来たのが大きかった。

この暗黙のシステムは勝者総取りなので、まず選挙で勝たないことには政権運営できないから、どんな政策を打ち出すかよりも、自分の権力基盤を維持し、かつ相手をたたき落とすことが重要になる。政策より政局、となるゆえんである。しかしもはや維持できないのだろう。巨大な組織を運営するには巨大なコストが掛かる。

この破綻は外から見れば明らかと言えるのだろうし、多数の政治家もどうにかしたいと思っているのだろうが、実際につぶすのは大変に難しい。なぜならそれを変更するためにはまず政局を制して政権を取らねばならない。しかしどの政党にもそのための圧倒的な権力基盤は失われている。かくして政局という内戦は延々と継続する。不幸なことに。

そして内戦が継続すればするほど日本の政権はさらに混迷を極め、政権を持続させることが難しくなる。大連立のような方策も取られるだろうが、それも長続きしないだろう。小泉のように、巧妙に各勢力を誘導できる権力者だけが長期政権を維持できるだろうし、小沢一郎がそれをやってのけるかもしれない。しかしそれは結局のところ延命策であり、強大な権力と、こんがらがった勢力図を理解して巧妙に動かす職人芸の持ち主だけがそれをできることになる。

しかしそれを職人芸ではなくシステムとして食い止める策はないのだろうか。個人的にはいくつか思いつくことがある。

議員減

である。ブルックスの法則を拡大解釈すれば、組織の複雑さは構成員の2乗に比例するといえる。というわけで、例えば議員数を半分にすれば掌握しやすさは1/4になるだろう。ただしこれがうまくいくと、最後には誰かが議員数を極端に減らすこと、すなわち独裁を思いつくだろう。この発想を敷衍すると大統領制や首相公選制のような、任期のはっきりした代表者を選ぶ制度と考えても良いだろう。ただ、トップだけ選んでも下が付いてこないと始まらない。有能な将軍二人より無能な将軍一人の方がまし、と言ったのはマキャベリであったと記憶しているが、ましな結果を得ることは出来ても、それが日本の政治を回復させるまで強くなるかどうかは未知数だ。

民衆が与党をもっと支える

間接民主制は(日本の場合は多数決の選挙により)権力を委任する代理人を選ぶのであるから、例え選ばれた議員政党が気にくわなくても、ソクラテスが毒杯を仰いだようにその決定に従うのが原則である。嫌だのなんだのいわず、無能な総理であろうが駄目な与党であろうが、多数決で勝った以上心中する覚悟を決めないといけない。

しかしそのように民衆を誘導するというのは、議員よりも民衆のほうが遙かに多いという一事だけでも非常に困難であることが分かるだろう。かつて20世紀初頭にはマス・コミュニケーションという必殺技があったが、もはや限界に達している。代用になりそうなものは思い浮かばない。ネットは今のところ意見の集約より、多様化の推進に向かっている。

穏健な多党制

で、最後の選択肢は、ヨーロッパに多い政策政党による連立政権だ。ばらばらになっていく議会を収拾するのはもはや誰も行使できない巨大な権力基盤ではなく、シンプルな政治原則による緩やかな政策政党になる、と見ている。それは80%にほどほどに好かれる総花的な政策でリーチするより、熱狂的少数の20%に熱狂的に支持される方がずっと簡単で効果的だ、という話で補強できるだろう。政策政党なら今までのような地盤による権力基盤のようなはっきりしたものを持たないので、よほど日本の世論がはっきりとその特定政策を支持しない限り巨大化は難しい。が、組織も小さい故その分維持コストもかからない。理念を曲げなければ他党との協力も容易である。

おそらくは既存の超党派の政策集団がより組織化し、従来政党とは独立してより筋道立てて精査された意見を述べるような形に変貌するのがスタートだろう。その次にこういった集団が超党派で重要な法案を通すことができるようになれば、一気に流れは傾く。もちろん与野党執行部は全力でそれを止めにかかるだろう。それを払いのけることが出来れば、あとは政策集団が政党化するのは時間の問題になる。

このような形は、多様化した我々の価値観を如何にして調停するか、という主体を与党と官僚から議員と政党に移して可視化する、と言う意味でも現状にそぐうのではないだろうか。当然選挙制度改革は、優越する衆議院で全数比例代表、というのが中心になるだろう。一票の格差も消え一石二鳥である。最終的には憲法改正で議院形態を見直す(例えば参議院の弱体化など)ところまで進めないといけないだろう。

しかし現実にこのようになったとして最初は連立体制もぎくしゃくするだろう。

全議席比例代表制度にする前に日本の政党が変わらなければいけないこと

でも考察したが、連立政権の組み合わせというのは、今までの日本があまり経験してこなかった組み合わせを強いることになる。それゆえ、実際に始まっても殆ど手探りになって、当面安定するとも思えない。しかし、数年間失敗しつづけてもそれは不慣れなのが理由なのであって、失敗により連立成立のためのノウハウというのがたまってくれば、ようやく安定して2-3年政権が維持できる、と言う形に落ち着くだろう。

 

政策本位の政治に立ち返ることで、日本は今まで政治の混迷で損してきた分を若干取り返すことができるだろう。しかし歩みのさらに遅い連立政権で、しかも官僚制度は手付かずで残ったままでは、日本の発展は限定的にならざるを得ない。と言う意味では本当は日本の官僚制にも切り込まなければいけないのだが、こちらはさらに難しい。漠然とここに切り込むのはグローバル経済力を背景にした外資や新興企業なのではないかと思うが、長くなったことだしここで筆をとどめておきたい。

↑このページのトップヘ