2010年11月

かれこれブログを再開して二年経ってしまった。最近いろいろ書きたい項目もたまっているがここで一つ、今までのエントリを振り返ると言うことをしてみたい。もうちょっと毎月とか定期的にすればいいのだろうが。ちなみにこのブログを始めた2008年は1000Pv、2009年は一気に40000PVと急上昇、今年はすでに100000PVを越え、時々は月10000PVを越えることもある。特にBLOGOSへの参加という大きなイベントであった。とはいえようやく芽が出てきたとでも言う程度であり、今後もこんな政治っぽいネタを続けるのかと言うのも含めて考え、精進が寛容だと考えている。

それはさておきまずはアクセスランキングを。そのあとにはもうちょっと自分のエントリを分類しつつ、整理できればいいなと思っています。

一位 オランダに住んでいるからこそ思う、外国人参政権論を考えてみた
二位 「オランダが*外国人参政権導入により*ひどいことになっている」というのはガセ
トップは去年書いてこのサイトが大きく政治に舵を切るきっかけになった、そして二つめがはてブトップのいずれもオランダ+外国人参政権ネタ。あとのほうが瞬間風速は凄かったが、全体としては先に書いた前者が上回った。この件についてはいろいろと派生エントリもあるが、結局のところ例の「オランダの悲劇」なるものはガセだろうと今でも思う。ソースはPVVあたりの一部の極右の意見そのままのPVぐらいしかないし、そもそもどこの都市でどんな悲劇が発生したか言えない時点でおかしい。

ちなみに去年このアクセスで振り返るのをしなかったのは、一位のサイトでコメント炎上中で忙しかったから。

三位 PostgreSQLを本当に高速化したい人のための10のポイント
昔取った杵柄、のPostgreSQLネタが三位。ちょうど乗っかった感じで書いたのがうまく回った感じ。ちなみに実際のデータとかは除いても、内容は実経験に基づいているので確実です。多分に9.0になっても通用する内容と自負してます。

四位 もう民主党に売国されちゃいなよ、日本人!

外国人参政権ネタ。つりっぽいタイトルが特徴。ここはコメント粘着で良く荒れた。ちなみに「~を考えてみた」とこれの続編である二種類の日本人は、一番にいたいことが詰まっているのだが圏外。

ところで日本はまだ残ってますね。当時は「明日にも崩壊する!」とまで言われてたのにねぇ。

五位 オランダ料理がなぜまずいか、君は考えたことがあるか

料理から迫る文化論。だからといってオランダに行っても全く美味しいものが食えないわけではありません。他にも日本とオランダの共通点って何だろうとか開放的な貿易立国だったオランダが直面する右傾化と排外主義という試練とかオランダネタはいっぱいあるけど、外国人参政権以外で上に来ているのはこれだけ。

六位 VoltDB登場 – RDBMSのようでRDBMSではない新システム
昔取った杵柄のDBネタ。VoltDBは本当に衝撃的なシステムだったと思うが、昔hstoreについて読んでたので、そんなに惑わされることなく理解できた。ちなみにまだ使ったことはないスマイル

七位 態度の悪い客が日本の素晴らしいサービス業の最大の敵
BLOGOS掲載エントリでトップ。これはBLOGOS側でもランキングトップを取るなど大活躍でした。読者の外に敵を作ると受けるよね・・・と言うのを実感しました。

八位 日本版シリコンバレーが成功しないたった一つの致命的な問題
タイトル一本釣り。歴史から入る文化論で、時代の変化と民族の特性がかみ合ったりかみ合わなかったり、と言う話にシリコンバレーを持ってきただけ。

九位 日本人はどの程度英語をしゃべれるべきか

これ以前は滅多に使わなかった英語ネタ。実践的な点が受けたのだろうと思う。日本人が英語をしゃべらなくて済む方法日本人が英語をしゃべらなければならない理由と併せて三部作なのだが残りは圏外。全体として「日本はグローバル社会とどうつきあっていくべきか」という内容になっている。

十位 社員20人から先に進めない小規模ソフトハウス
社員20人のソフトウェア屋には夢がない、と言う話。どっちかというとはてブ受けが良かったです。ちなみに、未だに解答は見つかっていません。たぶん「社員二十人のソフトハウス」にならないことが唯一の正解だと思っているが、正解が分かったときはたぶんブログに書かずに起業すると思います。あしからず。

十一位 日本人は外国で「宗教:なし」と書く ― 民族と宗教が不可分な人たちが犯す間違い
これも文化論の話。言いたかったのは「殆どの人間は宗教に対していいかげんで、ただ符号だけを求めている。例え欧米ですら」だったんですが。これに限らず、日本人は他者の宗教に対して勝手に厳密に解釈したり過激派だけを見た印象だけで勘違いを繰り返している。

十二位 PostgreSQLを使っている人が使いたい外部ツール
三位のやつの続編。もっぱら外部のツールの話なので、先のエントリと違って今見ると役立たない可能性は大。

十三位 国際人たちに聞いてほしいこと。そして排外主義者の人たちにもっと聞いてほしいこと。
elm200,koshianと反排外主義でBLOGOSトピック荒らしの一端を担いました。そして残念じゃない日本ってどんなのか、考えたことがありますか? - みんな、自分に自信を持とうを筆頭にした「自信」ネタで一番トップでした。

十四位 VoltDBは何故早いのかは問題ではない。何をするためのシステムなのかが問題だ
VoltDBその2。もうちょっと踏み込んで書きました。ちなみに三部作として「短いトランザクションが何故正義なのか」というのがあるんですが、結局まだ着手しておりません。Node.jsあたりと絡めて書こうと思っています。

十五位 10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に?
Koshianに絡んだらいたく気に入られた話。努力は簡単ではないが、誰にでも平等に機会が与えられているものでもある、ということだろう。姉妹エントリの10000時間積み上げるために – 今はダメでも、20年後があるさは圏外。

十六位 外国人参政権なんかよりずっと重要な話をしないか – あなたは開国派?それとも鎖国派?
外国人参政権のようで参政権じゃないお話。結局のところ、あらゆるこの2派を統合する試みは情けないことにことごとく失敗している。

十七位 叩かれるべきはムラ社会制度ではなく、ムラが小さすぎることに対して
これもKoshianにいたく気に入られた。この文章の書き出すテーマは実際2010年のこのブログの大きなトピックになっている。日本を如何に拡大すべきか、如何に拡大可能なのか?と言う方向に進んでいく。

十八位 HP 2140かぁ。
二十位HP 2140で検索してくる人が多すぎる件について。
うっかりブログにHP2140と書いてしまったせいでgoogleからいっぱい来てしまってすいません。

十九位 高校や企業と理系大学の間にある、価値基準の深い溝
微妙に順位前後。空気と価値基準のお話。ここから踏み込んで行って明文化されていない制度に振り回されるのはもうやめませんか?や自信の話にいくきっかけになった話。

例の尖閣諸島での衝突事故で、ついにビデオが漏洩され国民の知るところとなってしまい、しかも犯人が逮捕された。TwitterのTLは犯人擁護にかなり染まっていたようだ。しかし個人的にはそれも「愛国無罪」のたぐいでどうかと思ってしまう。

一方官房長官は当然のごとくご立腹。まあ普通に考えて「機密だ」と言っているのに下の奴が勝手にばらまいたらそりゃ腹も立つだろう。だからまあ普通に「厳罰を」となる。しかし本当にそれが唯一の選択肢だろうか?

まあそれで一つ思い浮かんだことがあったので軽い記事に。とりあえずニュースから官房長官の発言を引用しよう。

【尖閣ビデオ流出】英雄扱いするな-仙谷氏 流出で色なして批判

「逮捕された人が英雄になる、そんな風潮があっては絶対にいけない」

 

だからこそ、L.starは絶対にsengoku38に厳罰を処してはならないと主張する。海上保安庁の情報取り扱いの不備だったとか何とか言って適当に当人含む責任者の降格とか減俸とかそういうので済ませてしまって、大事にしてはならない。

なぜか?

厳罰を科したら科しただけ、彼を英雄にするからだ。それはすなわちキリストの十字架と同じく、国民の代わりにsengoku38が罰を受けたことになる。一見正しいが法に触れる行為をして罰せられるのは、英雄化へのテンプレートだ。

冷酷な話だと承知でするが、厳罰よりも英雄化に貢献するのは彼の死だ。獄中死など最高であるが、熱心な民主党支持者と見られる人に刺されるとかもいい。彼が受けた「罰」が衝撃的であればあるほど、世間は彼を英雄視するだろう。sengoku38が果たしてどれほど英雄に値する人物だったかは分からない。熱い愛国の人だったかもしれないし、ひょっとすると実は口だけの愉快犯だったのかもしれない。しかし、死んでしまえば彼の行動は全て美化され、愛国に殉じた理想の象徴になるだろう。

そうなってしまっては、賭けても良いが現政権は終わりだ。生ける仙谷由人は、死んだsengoku38には絶対に勝てない。

もちろん緩すぎる刑罰も「やっぱりsengoku38は正しかった」となるのでさじ加減が難しいが、民主党打倒の象徴になってしまうよりもはるかにましである。こういうのはムキになっては負けなのだ。彼を如何に笑い飛ばせるか、と言う点に民主党政権の器量が問われる。残念なことに今のところおよそ合格点からはほど遠いが・・・

グローバルな商品におけるアンナ・カレーニナの原則っていうのはどうなんだろう、と唐突に考えた。アンナ・カレーニナの原則は

10000時間積み上げるために – 今はダメでも、20年後があるさ


でも取り上げたが、「銃・病原菌・鉄」に書かれているもので、元々は動物の家畜化の話で引用されている。グローバル商品とガラパゴスにおけるアンナ・カレーニナの原則は「グローバルに展開できた商品はどれも似たようなものだが、できなかった商品はいずれもそれぞれにガラパゴスだった」とでも言うべきだろうか。

  • 価格と品質
    大量調達にしろ人件費削減にしろ、グローバルのリソースを極限まで使い切ってきっちり安価なものを作らないと既存のものには勝てない。たしかに世界中で売れる商品は、今までの品質に比してどれも安価、といえるだろう。逆に高品質であるかどうかは大きな問題にはならない。

  • 物流
    どんな商品でも、的確な物流無くしてグローバルにお届けすることはできない。例えば保存の困難な特産品はグローバルで成功することはきわめて難しい。冷凍や飛行機がこれを大きく進歩させたし、またソフトウェアに至ってはもはやネットがあれば全部OKという凄い状況が実現している。

  • 文化基盤
    これは流通に入れて良いのかもしれない。流通すべき殆どの国の慣習を公約数的に乗り越えることができないと、広がり方は限定的にならざるを得ない。これはもちろん商品を生み出す元になった文化がどれだけ普及しているかで軽減ができるだろう。しかし、おかげでグローバルで成功する商品はだいたいにおいて最大公約数的な、悪くいうと没個性的になる。

  • 体験
    商品がもたらしてくれる今まで見たことのない素晴らしい体験、めざましい御利益は既存商品を乗り越えるのにもちろん必要である。これは先進国が世界に売るべきモノは「体験」を参照してもらうと良いだろう。特にグローバルでないと体験できないようなもの、というのが重要だろう。

  • 知名度
    最初の段階では必要がないが、普及には必須だろう。知名度が普及を後押しし一定の閾値を超えれば、巨大になればなるほど美味しい目を見ることができる、という正のフィードバックに支えられるようになる。もう勝利の方程式である。逆に誰にも知られていないようではお話にならない。


必ずしも完全なリストだとは思わないが、全て持っていないと成功できないような内容にはなったと思う。で、このリストを挙げたのは別に日本はこれとこれが抜けているからガラパゴスだ、と言いたいわけでは全然無く、逆にグローバル化が進んでいくことでこのリストにあるような項目で不利になるような状況はないのか?と言うのを考えたかったのだ。

で考え至ったのは、「地産地消で、多様性に富み小回りのきく少数による生産モデルが台頭する結果になる」というものだ。

  • 物流は圧倒的に地産地消が有利である。なんといってもコストも違えば品質管理も圧倒である。

  • 価格においては引けを取っても、工芸品のようなものはグローバル商品に対してむしろ品質面では圧倒的なリードを持てる。

  • 文化基盤と体験は、文化が障壁ではなく、チャレンジすべき体験に変わり、むしろ有利ですらある。

  • 知名度に関して言えば、ローカルだから、グローバルだからと言う差はない。歴史的経緯の豊富さは、むしろ有利ですらある。


このように画一化というグローバル商品がよにあふれることは、逆にローカル商品にとってチャンスを生み出すことになる。もちろんそれ以前にグローバルに押しつぶされず、しかも上記のような説得力を有していなければならない。

しかし、これはつまり「画一化した現代日本」に対する「ご当地ブーム」そのものではないか。

となると「クールジャパン」も、グローバル化する世界に対する「日本ご当地」という方向で考えるとある種の正当性はあるのかもしれない。というか、日本がグローバルに進んでいくためには、こういった「ご当地」の強みをスイングバイのように利用し、それを最初にあげた原則にあうような形に再編成する、と言うことが重要になるのだろう。例えば日本を広報するためには外とのコミュニケーションが欠かせないし、文化の壁を研究して、それをどのように乗り越えるか考えないことには受け入れられないだろう。しかしそれは別に「グローバル化」と考える必要はない。日本を売り込むための営業活動だと思えばいい。どちらにしても同じことなのだが。

これは

日本人が英語をしゃべらなければならない理由


のアップデート版とも言える話である。上記でもグローバルとローカルの関係、ということを「文明」と「文化」という形で題にしていて、この2つの密接な関係を理解すべきだ、と言う話をしている。グローバル化は我々の文化を破壊するもではなく、むしろそれに乗ることで我々の文化をよりよくしたり、あるいは我々の良さをもっとたくさんの人たちに知ってもらえる道具たり得る。それは相反する概念ではなく一つの「波」の別の側面に過ぎない。どのようにつきあうがの問題なのであり、自分たちの持っているものをより高く相手に売りつけるための道具と考えればいいではないか。

最近のBLOGOSのコメント炎上を見て(ここからたどると記事一覧が見れる)、時には「おおっ」と思うこともありながらまあうんざりしたり、あるいは同じエントリに対するコメントでもTwitterとではずいぶん温度差があるな、と言うのを感じながら、あと@koshianや@elm200とかと会話しつつ、これをどう解釈すべきか、と言うのを考えていた。

まあそういう反応をジンゴイズムだの排外主義だのという言葉で切って捨てるのはきわめて簡単だ。しかし問題は切って捨てても何も解決しない、ということにある。

それで思ったのだが、もはやこういう開国を煽るエントリは何ら必要ないのではないか、ということだ。というのももはや開国論やらグローバル化推進やらそういう話がリーチできる層にはあらかた浸透し終わっているのではないか、と言う気がしてきたからだ。絶え間なく繰り返される同じような罵声の裏には、理解拒否の姿勢がありありと感じられる。かといって、開国派をやっている人から見て彼らの意見がまともにみえるかというと、全くお話にならない。グローバル化を否定して得られる未来が全く提示されていない(ように見える)からだ。

やはりネイションが2つに分裂してきているのだ。「現状の国家民族文化を肯定する」というものと「改革によって得られる未来の文化を肯定する」という2つに。もちろんこういう分裂は別に珍しくもなくそこかしこで見られる。例えば移民問題もそうだし、世代別の対決も、階級闘争も内容が違えどそういったたぐいである。

しかし仮にも「開国派」と、ネイションを広げようという立場に立つのであれば、日本を外に広げるだけでなく、分裂した日本を一つにまとめるのもまた我々の仕事と心得なければならない。我々が開かれた世界を何故信じるに至ったかということを追体験させ、そこに彼らが迎え入れられる知識を身につけさせるように導かなければならないのだ。

これは自戒を込めて言うのだが、排外主義者を排斥することで「反排外主義」という排外主義に陥ることは、我々「開国派」には許されないのだ。彼らを同化できずに取り残されたオランダの一部のモロッコ移民のようにしてはならない。ただそれをどのような形であれ一つにまとめ上げることこそが、唯一の正解なのだから。

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