2010年09月

自分の視点で自分なりにソフトウェア産業のありようというのを見つめ直そうと唐突に考えた

ソフトウェア産業の16の重大なマイルストーン

からの続きで考察篇。元エントリも絡めてみてほしいが、改めて項目だけ抜き出すと以下の通り。

  1. 専業プログラマ。
  2. 複数人開発。
  3. 初歩的な開発プロセス。
  4. 専業ソフトウェア会社。
  5. 低級言語と高級言語
  6. パッケージソフトウェア
  7. 標準ライブラリ
  8. 高度な開発プロセスとプロジェクト管理
  9. モジュール化の推進
  10. 小規模ソフトハウスとアジャイル開発
  11. RAD/軽量言語
  12. ネットワーク対応
  13. オープンソース
  14. 世界規模のプロジェクト管理 /バザールモデル
  15. 知識集約型開発
  16. クラウド/ソフトウェアのサービス化

これを元に時代分けをできなくもないだろう。例えば

  • 1-4はハッカーの時代
  • 5-8はメインフレームの時代
  • 9-12がオープン化
  • 13以降がインターネットの時代

とでも分けられるだろうか。なお、なんか似たような技術(プロジェクト管理とか)が時代ごとにあるような気がするが、実は書いた当人は、並べるに当たって全く意識はしていない。偶然である。

これらを並べてみると、いくつか興味深いポイントがあるのに気付く。

  • 規模が増えるにしたがって複雑化するプログラム構造は、階層化や役割分担によって整理されるようになった。こういったノウハウの蓄積は、一人あたりの生産性を格段に向上させた。
  • 同時に1プロジェクトに従事できるプログラマの数も増加し、管理技術も向上した。
  • 飛躍的に伸びる管理技術と一人あたり生産性の関係によって、少数精鋭か集約型のどちらがよいかは揺れ動いた 。

特に少数精鋭か集約か、と言う問題は非常に大きなポイントである。今回の考察ではその切り替わりは3回あったわけだが、現実にはもっと多かろう。そしてもっと重要なのは、切り替わりが発生してパラダイムがかわるのは、大企業にしろ中小企業にしろ、彼らがその有り様を変えるよりずっと素早いということだ。

翻って、例えば日本の会社というのはどのマイルストーンを基軸にしているだろうか。個人的な感触で言うと以下のようになる。

  • やや旧式の大企業のSI部門=5,6,7
    ->メインフレームの時代
  • 大規模SIer=8,9
    ->メインフレームの時代からオープン化の時代のあたり
  • 小規模ソフトハウス=10(,9,11?)
    -> オープン化の時代
  • 成功しているベンチャー、あるいはネット企業=13,15,16
    ->インターネットの時代

むろん各企業により、あるいは部署により実態は大きく異なるため、全てがそうだ、と言い切るつもりはない。例えば大規模SIerの中には、組織がきわめて縦割りに細分されていて、各部署があたかも独立企業のようにまで見えるところもあったりしていて、そういうところはどっちかというとやや小規模ソフトハウスよりである。しかし、こういう有り様を見ていると、日本のソフト業界の変遷も案外途中までは間違っていない。

これは別に海外でも大きくは変わっていないだろう。欧州にあるSIerもGoogle.Amazonには歯が立っていない。彼らはなにしろ純然たるグローバル企業であり、地力が違いすぎる。世界に名の知られていない米国企業にはもちろんなじみがないが、このようなヒエラルキーがあるだろう。そして勝者になっているのは常に新しい時代のもたらす生産性を味方につけた会社だ。

またこう並べてみると、社員20人から先に進めない小規模ソフトハウスを書いたときには一つの解法として書いていた「プロダクト持ちになる」は、間違っていることが解る。プロダクトを持つことはここでは6.パッケージソフトウェアになる。これは従来ハッカーの時代からメインフレームの時代への進化に必要なものだった。そして、小規模ソフトハウス=ハッカー集団と考えると、それは全く正しく見える。

しかし小規模ソフトハウス自体が、大規模開発に対するアンチテーゼという新しいパラダイムに基づいているのだから、改めてパッケージ化に進むというのは以前の大企業モデルに戻ってしまう。これはパラダイムの後退であり、つまり退化である。うまくいくはずがない。

じゃあどうやればいいか、というのは判然としない。優秀な人材を集め価値のある知識集約型の会社に変身し、サービス持ちになって逆転を狙う、というのがまあここを見ているだけなら正しいようにも感じられるが、それをするならもっと身軽になってしまわないといけない。結局のところ、やはり20人というのは大規模化するには小さすぎ、先鋭化するには大きすぎる、一種の袋小路なのかもしれない。

 

さてここで日本の会社をどうしていくか、と言う話だが、今前インターネット時代にある企業がインターネットの時代のグローバル企業に負けないためにできることはいくつかある。

  • 一人あたりの生産性を高める。
  • 人数を増やして全体の生産性を高める。
  • 自社もインターネットの時代のグローバル企業になる。
  • ここには書かれていない17番目のマイルストーン、5番目の時代を探して飛び込む。

最初の2つは旧来のスキームを維持しつう生産性を高めるということで、どこの会社もやっているが当然いずれも限界がある。人数を増やす方はブルックスの法則の影響を受ける。マージンを減らすこともできるが、そうなれば今度は制約条件理論によりボトルネックにやられる。一人あたりの生産性を上げるために労働量を増やすのは、ただでさえITはブラックと揶揄される昨今、すでに限界に来ている。いずれにしても、短期では数字上は追いつくことは可能だが、長期的には無理だ。

これは現在の日本のIT業界のじり貧を見事に表している。個人的には、こんなことを続けるぐらいならグローバル企業に負けないことなんてやめればいいのだ、と思う。そうなるとローカルの、低報酬低成長企業へ後退することになるが、文化・文明にとって重要なのはそれが持続可能であることだ。持続不可能な無茶に意味などありはしない。

3番目はサービスを軸に優秀な人材をかき集め、とい今成功しているインターネット企業がやっていることそのものである。ただし既存企業にとってはこれほどの転換は大きな賭である。グローバルだからと言って英語や海外支社が必要か?というのはまあその業種にもよるだろう。ただ、正直英語も読めないソフトウェアエンジニアがこういうクラスを目指す企業に必要とされるとは信じがたい。

最後の4番目、次のありようが何か?ということだ。が、時代は小規模->大規模->小規模->大規模と来ているので、次は小規模のターンである。個人的には2点が見えているかなと思う。

  • 強烈な個性と能力を持ったデザイナーによる世界レベルの枠組みの提供
    バザールモデルで構築された巨大なプロジェクトに対する方向性を一つにまとめるような強力なIT業界上のイデオロギーというのが今まで欠けていたように思われる。例えばスマートフォンの世界ではiOS vs Andriodという構図ができている。もしこの推測が正しいなら、Jobsはその発明者であるといって過言ではないだろう。
  • コモディティ化したクラウドを使ったもっと高速なサービス展開
    クラウドが普及することにより、サービス展開もより高速にできるようになった。同時期に普及しているスマートフォンやHTML5/JavaScriptのようなプラットフォームも、それを後押ししている。それにより、顧客ニーズにより素早く対応することができるから、熱心な少数の客を集めるアプリケーションを多数作る、という従来できなかった贅沢ができる。実際ソーシャルゲームを見ていると、今までの大作ゲームとは考えられないぐらいのやりかたが有効に作用していると見える。

もちろん重要なポイントはこれだけじゃない。前者はともかく後者については、米国より数は少ないだろうが、少しずつ実際にそういうベンチャーが出てきている(最近のニュースで言うと、TC Disrupt―日本のGunzooはFabric Videoでビデオ検索方法を変えるとか)このようなベンチャーの挑戦は価値のあるもので、成功は日本の閉塞感への突破口の一つになるだろう。

あるいは、日本版シリコンバレーが成功しないたった一つの致命的な問題で指摘したように、日本にはこういった超小規模より、やや大きめのモデルが適しているのではないか、という話がある。となると、5.5番目の時代ということになるだろうか。ここまでくるとさすがにすぐは見えてこない。

ただ一つだけ思い浮かぶのは、プロジェクトXによくあったような、企業内のはねっかえりが徒党を組んで、と言うパターンだ。アメリカで言うところだとスカンクワークス。ただしこれは大企業が強力な資本プールかつ人材プールであることが必要になり、日本で今それに相当するものが思い浮かばない。しかしかつての日本で2ちゃんねる発のすごいものがきら星のように現れたように、たぶんそのときになって「ああ、これだったか!」と気付くのだろう。

 

改めて自分の目で自分なりに歴史を考察してみて、日本のIT業界は思ったよりずっと最前線のアメリカに食らいついていて、今も決して一部のグローバル企業とは差がついたとはいえ、最前線の方はまだまだついて行ける、と感じた。

ただ一点問題はやはり「グローバル企業に勝てる枠組みを有していないのに数字だけは追い求める」という会社の存在で、これは一つのボトルネックになっている。こういった会社が退場したり、改良を助けることによって、見違えるほど改善するのではないだろうか。

まとめると「ベンチャー大事」「ブラック会社はつぶそう」「グローバルで勝てる会社になれ」とか、ごくごく普通の結論になってしまったようだ。結局のところまたブルックスの言葉を借りると「銀の弾丸はない」と言うことだろう。少なくとも彼が言ったとおりこの10年というスパンでは。

唐突にまたソフトウェア業界について考えていた。元々は受託開発が非効率云々というエントリ(受託開発が本質的に非効率である理由の考察 - GeekFactoryと■なぜ受託開発は非効率になってしまうのかを考えてみた)を読んでちょっと考えることがあったのだが、それがしまいに産業の歴史全体を考えるまでになってしまった。そんなことをやっているとなぜ日本のソフトウェアが世界で通用しないのかというのが目に映った。歴史をひもとけばこういう関係が何処に行き着くか解るかと思い、自分なりにソフトウェア産業におけるマイルストーンを書き出してみた。

内容については必ずしも正確だとは思わないし、また抜けているものも多々ある。特に最初のいくつかは果たして挙げるべきかどうかという点まで考えたが、歴史的にはあるべきと思ったので書いた。ハードウェアも本来考慮すべきだろうが、そこはあまり触れていない。ネットワーク対応やアジャイル(オープンソースより遅いと思われるだろうが、実はスクラムは1986年と古い)などは、順番を悩んだ。しかし全体の流れとしては間違っていないと思うので、あくまで参考程度に読んで、もっと考慮すべきものがあるとすれば是非教えてほしいかなと思う。

引き続き考察篇も執筆中なので期待されたし。

  1. 専業プログラマ。
    特定の一人がプログラミングし、全員の仕事を効率化するようになる。専任になるためその個人の実作業に対する作業量は減る一方、経験値が特定の個人に集中するため、プログラムの生産が効率化した。
  2. 複数人開発。
    複数人数が同時にプログラムを書くことで、一人がプログラミングするより巨大なプログラムを、より素早く開発することが可能になった。ドキュメント化や、ライブラリの作成と言ったものが含まれる。
  3. 初歩的な開発プロセス。
    設計・開発・テストという大まかな枠組みができることで、行き当たりばったりではなく、計画したとおりのソフトウェアをリリースするという形態ができた。ただし、プロセスが固定化することにより、成果物の柔軟性は減った。
  4. 専業ソフトウェア会社。
    「初歩的な開発プロセス」と「集約化」を受け、複数の組織をまたがってソフトの開発を請け負う形態が可能になった。同じようなプログラムを多数開発していくことにより、共通基盤的部分が洗い出されるため、それを共通部品として抜き出し定型ライブラリ化することにより、あらゆるプログラムをスクラッチから書くより生産性は向上した。
  5. 低級言語と高級言語
    定型ライブラリのようなものができてくるに従い、ハードウェアに依存しないより高度な言語の発明が可能になった。また、これにより特定のハードウェアに依存しないソフトウェア技術者が存在できるようになった。同時に低級言語がハードウェア依存度の高いところを担当し、高級言語とハードウェアの橋渡しを担当するようになる。
  6. パッケージソフトウェア
    専業ソフトウェア会社のさらに次の段階として、ライブラリのようなプログラムそのものだけでなく、複数組織の仕様をとりまとめて、一つのソフトウェアが複数の組織から利用できる、パッケージソフトウェアができるようになった。プロプラエタリなソフトウェアの発明もこの頃か。
  7. 標準ライブラリ
    「高級言語」が「パッケージソフトウェア」として普及し、しかもそれが複数のソフトウェア会社で使われることによって、各ソフトウェア会社を越える規模で共有される、全体の標準となるようなライブラリが構成された。
  8. 高度な開発プロセスとプロジェクト管理
    専業会社、高級言語、ライブラリによって飛躍的に高まった開発力を生かして、巨大なプロジェクトが運営されるようになると、それを運営するためには組織管理技術が必要になった。これにより、多数の人数が関わることで飛躍的に増大する不確定要素を最低限に抑え、大プロジェクトを成功させられるようになる。ソースコード管理ツールなどが使われるようになったのもこのあたり。
  9. モジュール化の推進
    プロジェクトが巨大化するにつれ、プログラム内部の依存性も飛躍的に増大した。これに対して、プロジェクト内のサブシステムの独立性を高め、インターフェースを明確に定義する、つまりモジュール化を行った。これにより巨大なプロジェクトも複数の独立したソフトウェアの集合となり、より単純化してとらえられるようになった。また、オブジェクト指向言語などの、よりモジュール指向の強い言語が台頭することになった。
  10. 小規模ソフトハウスとアジャイル開発
    巨大プロジェクトは大規模な変化をもたらすことができる一方で、コストも掛かるし、素早くリリースをできない。全体のスループットは巨大プロジェクトに劣っても、少人数によるコスト削減のほうがコストは削減できる。あるいは細かいリリースによりレイテンシや素早いフィードバックが期待できる。これにより、時代の変化により追随しやすい、安価でレイテンシの少ない手法が誕生した。
  11. 中級言語?軽量言語?
    従来高級言語と低級言語と大きく2つにくくれる言語も、よりソフトウェアの用途が複雑化するにつれ、高級言語ほど業務よりではないが低級言語ほどハードウェアよりではない、ちょうど中間にあたる言語の必要性がでてき、Cより使いやすく、Cのライブラリをモジュールとして扱える中級言語とでも言うべき環境が登場した。当初この地位に収まったのはいわゆる第四世代言語やVBのようなGUI/RADツールであり、のちにWebの時代になるとJavaや現在LLと呼ばれる言語群が主流になった。
  12. ネットワーク対応
    ネットワークの普及と、ソフトウェア規模が巨大になるに従い、1台のマシンで収まらないようなソフトウェアができるに従い、複数マシンにまたがった形のシステムが形成されるようになった。また結果としてインターネットを生み、ソフトウェア業界を世界規模で連携させる役目を果たした。
  13. オープンソース
    本来プロプラエタリなソフトウェアへのアンチテーゼとして誕生したFLOSSだが、単純にクロースとオープンという対比ではなく、一社主導によって開発されるパッケージに対する、複数社によって共同開発/利用ができるソフトウェア開発手法として定着した。これにより、プロジェクトは大企業を越え、世界規模での開発が可能になった。また、優れたソフトウェアが多数公開されることで、
  14. 世界規模のプロジェクト管理
    オープンソースの発達とグローバル化に伴い、従来の小さなソフトウェア開発モデルを越えた、世界規模でのプロジェクト進行を支えることが必要になった。メーリングリスト、チャット、BTS、Gitのようなバージョン管理ツールや再帰テストの自動化などがその代表的なものである。
  15. 知識集約型開発モデル
    多数のソフトウェアやライブラリ、軽量言語などが開発効率を飛躍的に向上させ、またアジャイル開発モデルが素早くニーズに合ったソフトウェアを提供できるモデルを提示することで、優秀な少人数による開発が非常に強い力を発揮するようになった。もはや大規模かどうかより、どれだけ精鋭かが重要なのである。
  16. クラウド
    おそらく今起こっている一番重要なムーブメントだと思うが、WebアプリケーションからASPという過程を経て、パッケージソフトよりもよりたくさんの顧客を相手に出来、また発達した知識集約型開発モデルにてより迅速にリリースをできるという2点が卓越していると思われる。しかしまだ結論づけるには時期尚早だろう。

ちまたでは新卒採用が大変だという話をよく聞く。L.starも就職氷河期時代に就職しているので、それがどれだけ大変なのかは、ある程度はよく分かるつもりだ。もちろん漏れ聞く話は当時を軽く越えているし、人ごとのように言われてもむかっとするだけだろう。

そんな中で海外就職のように、海外に目を向けるべきだと叫ぶ人たちがいる。それに反抗する人もいる。当然海外就職はビザの問題もあるしハードルが高い。しかし海外就職だけが、世界に目を向ける行為だろうか。もちろんできるならそれが最善だ。しかし、どの国もほしいのは一部の高機能移民だけ。魅力的な国は、だいたいみんな狙っているのだから、競争も半端無い。それこそ国内就職の何倍も大変だろう。

しかし、何も日本にだってグローバルに匹敵するものがない訳じゃない。立派な会社はそれなりにある。背を向けなければいけないのは日本の特定の悪い部分に対してである。今日するお話は、海外にいけるだけの実力も、新卒で最高の企業に就職できるだけの能力もないが、さりとて今までのやりかたにも納得できない、と言う主に大学生の君に、職歴15年のL.starが個人的な経験に基づくアドバイスをしたい。

 

会社は3年で辞めるつもりでいけ

「なぜ若者は3年で会社を辞めるのか」という新書があったが、その題名の逆を行く行動である。3年もたったら、その会社の良し悪しは分かってくる。もし君が優秀な人間なら、だいたいそのくらいで会社を追い越してしまって邪魔になることだろう。また適正があわないなら、そのくらいで先がないことに気付くはずだ。

あわない会社なら、そんなところにかける時間は無駄である。そんなのは辞めてしまえばいいのだ。ただし、適職と思ったなら辞める必要はもちろん無い。

転職がキャリアアップの唯一の手段と心得よ

3年で辞めるつもりなら、昇進は見込めない。というのも、社内昇進は往々にして3~5年ぐらいで行われるものだから。昇進の代わりは転職時のキャリアアップになる。給料は都度相場で決められるから公平だ。ただし、同時に世間の厳しい目でさらされることになる。

もちろん適職な会社で長くいるやり方を取ったら昇進の機会があるが、もしそれを受けるとしたら、「社内転職」と思った方が良い。同じ会社で何かを続けているのではなく、たまたま転職した会社が同じだったと考えればいい。

社外で役立つ知識と人脈が全てである

世間の厳しい目に打ち勝って上のポジションを転職で勝ち取るために必要なのは、社外の人も認めざるを得ないような専門知識と、会社を離れてもずっと役に立つ人脈である。社内政治とコネではない。そんなのは転職でリセットされるのだから、むしろちょっとばかしマイナスでもかまうものか。悪名はどこまでもついて回るから、まあ悪用しすぎるのも良くない。

身につけるべきは英語や科学的教養のような一般的なスキルから専門分野の知識まで多岐にわたる。学び続ける姿勢はいつまでも変えてはならない。なにしろ3年ごとに転職という名の試験があるのだから。

新卒就職活動は捨てろ。あとで挽回できる

以上を勘案するに、世間一般で信じられている新卒という武器は正直ゴミだということに気づけるはずだ。もちろん最初の就職先が良いにこしたことはないが、どうせ3年で辞める会社に最高を求める必要なんて無い。必死で1年2年かけてそのポジションを取りに行くなら、その分は知識と人脈を引き続き磨くのに充てろ。

2年あれば実力を磨く時間が2000時間ぐらい捻出できる。この差は大きい。6年後、3社目に突入するぐらいには10000時間達成できるかもしれない。そうなればあなたはいっぱしのプロである。個人的な観測結果として、新卒社員として入社して同等の時間頑張るにはだいたい10年程度かかる。ということは年間約1000時間というわけで、1,2年の差はきわめて大きいと言って良いだろう。

会社の人になるな、業界の人になれ

会社という単位を絶対視するのをやめたら、業界というもっと大きい単位が見えてくるはずだ。自分を社員と思わず業界の一員と思えば、転職もあくまで業界という共同体の中の異動に過ぎないのだ。そんなに特別なことでもなんでもない。あるいはそれを突き詰めれば業界という単位を越えて日本とか世界というもっとでかいものが見えてくる。でも見えなくてもかまわない。自分の見える、一番大きい範囲で自分という武器を最大限活用しろ。

常に前向きで。そして自分の身は自分で守る

今までの日本社会というのは会社が守ってくれるのが前提だった。しかし、こんなやり方をしていると、はっきりいって会社という組織の中である程度孤立するのは目に見えている。だから自分の身は自分で守る。体調面においても精神面においてもだ。

特に精神面は難しい。自分のモチベーションは自分で高める必要がある。なにしろ転落したら負けの世界。モチベーションを落とす理由なんて、ブラック企業の空気、頭の悪い上司、まともに働かない部下、ゴミのような社内政治、不公平な社会、などなど数えだしたらきりがない。しかし、この生き方をするなら、そんなものに足を取られてモチベーションを落とすことは許されない。とにかく前に進め。

 

 

これ、実は何かというと欧米流ジョブホッパーのやり方そのものである。彼らはこうやってどんどん職を変えていくことで、自分の名声と給料を高めていく。そりゃ最上級エグゼクティブの給料が青天井でも納得せざるを得ない。そして世界と勝負すると言うことは、そうやって自己を鍛えたエリートと闘うことなのだから。それに勝つためには、少なくとも同じだけの努力が必要とされるだろう。かつては、そういう努力の場を一大企業が終身雇用モデルで提供できたのだ。しかしそれがないのなら、自分で見つけ出すしかない。

そして実は日本でもこういう生き方を実践している人はすでにけっこういる。ちょうど9月1日に「Greeに転職しました」だの「DeNAに」だのというのがいっぱい出ていたが、彼らはこういう生き方を実践した結果として、この就職難と言われる中で、いい職にありつけているのである。まだまだ捨てたものじゃない。

 

ひょっとすると、こんな大それたことをやる自信が無い、と言う人がいるかもしれない。そういう人にはこんな苛烈なかりかたよりも、もっとゆるやかな人生がふさわしいのだろう。でもここに書かれている本質はそんなに変わらない。狭い世間じゃなく、広い社会で通用する人間を目指し、あらん限りの努力をしろ。そうすればそれがどんなものであれ、君の居場所がきっと見つかる。いや自分で作り出すことができると言ったほうがいいだろう。

あるいは心ない人が君の見つけたその場所を見て笑うかもしれないが、その人の本当の居場所ほど尊いものは世の中には滅多にない。それが分からないバカこそが軽蔑されるべきなのだ。そういうのはあなたの人生に何の価値ももたらさないのだから、無視して何の問題もない。

海外ブロガー仲間の@HAL0213さんの記事
「日本のサービスを海外で実現できたら・・」が机上の空論である理由

彼が占めそうとしている視点は分からなくもないし、結論としての「日本のサービス業は海外には出て行けない」というのは大きく間違っていないと思われる。ただ、彼は東欧、こっちは西欧とかなり文化の違う国にいるからか、その思考過程については違うなと思うことが多々あった。同じ問題提起を拝借しつつ、ちょっと違う視点から攻めてみたい。
欧米人に、日本並みのサービスが出来ないわけではありません。実際に、欧米にも一流ホテルはあり、一流のサービスをしています。また、ヨーロッパ、特にイギリスなどのでは、自宅でパーティーを開く文化があり、そのホスピタリティーの高さは日本人に負けるものではありません。

この点は全くその通りである。ホスピタリティだけじゃなく、工芸品のようなものでもそうだ。例えば職人が手で丁寧に作るイギリスの高級車は工芸品としては間違いなく一級品である。日本もレクサスをはじめとした高級車ブランドがいくつもあるが、工業製品としては一歩どころが三歩先んじていても、内装とかでにじみ出てくる、品格というかそういう点ではまだまだ学ぶべきところがある。もちろん、平均として高いのは日本である。

しかしそれは何故かというと
では、なぜ日本並みのサービスを実現できないのかと言うと、単純に「割に合わない」と感じるからです。

といった、経済的な理由では簡単に言い表せないように思われる。というのも、いろいろ見ている限り、ヨーロッパにおけるホスピタリティの高いところと言うのは、金の掛かっているところと言うわけでは必ずしもないからだ。むしろ一致しているのは、ホスピタリティの高いところにやってくる人たちは、そうでない人と身なりや仕草に大きな差が感じられる、というところだろう。

つまり、ホスピタリティの高いところは、階級の高い人が集まるところなのだ。

ヨーロッパにいると、この「階級社会」というのをまざまざと感じさせられる。もちろん公式にはこの階級とやらは消滅しているが、生まれや教育によっての差別に近いものはまだある。マクドナルドのようなファストフードは基本的に下層階級の人たちが食べに来るところだし、ミシュランに乗るようなレストランはどこも曲がりなりにも上流層向けである。

ちなみにミシュランと言えば、☆の数、メニューの高さ、ドレスコードの必要性は大体比例しているように感じる。味はいわずもがなであるが、そういう「ちゃんとした階級の人をおもてなしできるようなお店」というのが基準としてあるのだろうと思われる。三つ星がつくようなレストランはどこも大変に高価だし、星がなくてもやはりTシャツで入るのはちょっと場違いに感じられる(ただし、観光客なら場違いでも許されることは多い)

まあ階級といっても越えられ無い壁でなくなったというところが平等と言うことなのだろう。別に収入も学歴も無い人だって、たまにはちょっとしたおしゃれな衣装を着て高級レストランにいくことは、階級の高い人のような振る舞いができれば何ら問題ではないのである。

一方日本はと言うと、このような階級意識はかなり希薄になってきている。だから、特定の高級レストランだけで良いサービスをしなければならない、というような格付け意識はない。ミシュランの審査員はさぞかし苦労しただろう。

しかし階級意識がないおかげで、普通のスーパーやマクドナルドのような、欧米では全く身なりなどを気にしなくても良いの店と見なされるようなところにまで高いホスピタリティを実施できる原動力になったとも言える。階級という、手抜きの免罪符が日本にはなかったからだ。

いずれにしても
上記のことから、日本の低賃金良サービスを実現している主要な要因は、日本企業の経営能力ではなく、日本従業員の国民性やビジネス文化であるとわかります。

(中略)

もちろん、私が様々な障害を全て越えて、日本のような質の高いサービスを供給する商売を海外で実現することは可能かもしれません。むしろ、私はスロバキアにいても日本人なので、日本企業が海外に進出して欲しいと思っています。

と言う大元の結論に関しては、特にそれほど違いがあるようには思われない。長期的に見れば、日本式のサービス業品質を輸出するための決定的な技術が発明されるかもしれないが、そのためにはここであげられたような障壁を取り除けるようなものである必要があるだろう。
社畜にとっては、「けしからん!」なことなんでしょうけど、自給600円で、理不尽な客に頭を下げさせることのほうが、私としては「けしからん!」ですねwwww

ところで、一番食いつきたいところは実はここなのである。というのも、欧州では「階級の高いところではそれにふさわしいサービスが受けられる」という裏には「階級の高い人は、階級の高いなりの振る舞いが求められる」という前提があるからだ。振る舞いとは例えば身なり服装であったり、仕草や言葉であったりだが、店員に対しての態度もそうだからだ。

階級の高い人は身なりがきちんとしているし、丁寧な言葉遣いを心がける。サービスが良ければチップを払う。かりにサービスレベルがいまいちだったとしても、店員相手であろうと暴言を吐いたりしないし、失礼な仕草で呼び止めたりせず、それ相応のやんわりとした立場の示し方がある。高いホスピタリティを受けられる階級にいる人には、それなりの義務も課されているのである。

この対称性は、ホスピタリティの高い社会を持続させるために非常に重要なポイントだと思われる。態度の良い店員は、みんながみんな良い給料をもらっている訳じゃない。しかしながら、例えばレストランのウェイターは名誉な技能職であると見なされているわけで、欧州で、一部だけにしろそういう社会が存続しているのは、やはりお互いにそのような合意ができていたからではないだろうかと考えずには居られない。

翻って日本はどうだろう。日本には確かに高いホスピタリティというのはあるが、この種の対称性を客側に強制するルールというのは実は無いように思われる。サービスを提供する側はおおむね高い方に偏ったが、客の方はあくまで個人に任されている。態度のいい人もいるし、暴言を吐いて理不尽に店員に頭を下げさせる人も見たことがある。受けられるホスピタリティに対して、客の態度が一致しているとは到底言えないのではないか。

この非対称性は、日本のサービス業の成熟度と、それについていけない社会の未成熟さを如実に示しているのではないだろうか。そして、もちろん低い方が高い方の足を引っ張るのである。つまり、日本のサービス業が苦境に立っているのは、客の態度がそれにふさわしくないからだというのは、主因とは言わないまでも一因には違いないだろう。

有名な間違って引用される言葉に「お客様は神様です」というのがあって、それにあぐらをかいて居る人はそれなりにいるようだ。しかし、日本の神様だって品格のある存在である。いつのまに神だからといって下々に暴言をはいていいようになったのだろうか。神様たるもの、神様らしい品格というのがあるのではないだろうか。日本というのは経済や文化で立派な社会だと国際的にも十分認められているのだから、日本人たるものそれにふさわしい態度がとれるよう、努力したいものである。

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