2010年08月

夏期の旅行に行っていたりその後で体調を崩したりでずいぶんブログともご無沙汰になってしまったが、そんな間に「文明」と「文化」に関する非常に興味深いコメント(英語)をもらったりしてけっこういろいろと考える羽目になってしまった。自分の考えている概念ををうまく言い表す言葉がない、というのは実に難しい。ゲマインシャフトとゲセルシャフトが一番近いのではないかと考えはじめたが、まだまた考察の余地がありそうだ。

そんな「文明」と「文化」のありかたを考えるひとつのケースとして、今日は唐突にヴェネツィアの話をしたい。美しい景観と、運河にゴンドラで有名なあのヴェネツィアだ。2年前の謝肉祭のシーズンに訪れたが、もちろん大変印象深い町で、堪能させていただいた。

しかし、あれほどまでに「開発され尽くした」と感じたところは未だ無い。余すところ無く家が建てられ、路地は細く入り組んでいて車が入る余地はない。物資搬入は手押し車で行われている。水の都、というからには水運は発展している。しかしカナル・グランデには水上バスがあるが、それ以外の運河はきわめて細い。あれを通るにあたり、ゴンドラ以上の船はないだろう。モーターボートもあまり役立つとは思えない。

ゴンドラと手押し車、それがヴェネツィアにおける最高の物流インフラである。別にそれが風流だからそうしているのではなかった。大幅な改革を施して、車やモーターボートを受け入れられるようにするのは不可能だろう。もちろんすでに観光スポットとしての多大な地位を確立しているのでその必要はないが。

特筆すべきは、このような状況は、「文明」から逃げた結果発生したわけではなく、むしろ「文明」を突き詰めた結果袋小路に陥ってしまったことだ。もちろん同様のケースは歴史上いくらでもあるだろうが、ただその限界点を「見て分かる」ことができたことが大変興味深かったところである。それが起こるのは何故か、というのはケースバイケースであろうが、現状に最適化し続けることにより変化に対応するコストが高くなってしまうからというのは挙げて良いと思われる。

ところで、一般に「~のベニス」というと運河のきれいな町のことを指し、日本でも柳川などがあげられる。しかし、同様の視点で一番似ているな、と思ったのは東京だ。環七から246へと、渋滞回避のために世田谷区の狭い路地を通って泣きを見たことがある。あそこには早く東京外環が通ってほしいと思うが、そういう再開発も難しそうで。そういうところも似通っている。

東京も、いや日本もまた、世界に類を見ない「文明」である。あの品格に対抗できるのは、ヨーロッパではパリとロンドンぐらいだろうと個人的に思っているし、世界的に見てももちろん上位である。しかし、それは必ずしも今後も「文明」でありつづけることを保証しない。むしろ、高度化していけばしていくほど、変化に対応できなくなる危険と隣り合わせである。そして、今分明であることを降りてしまったら、ヴェネツィアのように袋小路になってしまうのではないか、と言う危機感はある。

近代日本はかつて幕末、戦後と少なくとも2回、「文明」であり続けるための躍進を成し遂げた。それはそれで凄いことだともちろん誇って良い。しかし今目の前にある危機に対して、もう一度できるだろうか。「文明」であるかどうかよりも、「文明」であり続けられるかどうかが問われているのではないだろうか。

@Sophie525さんから日本への移民は2010年時点では時期尚早で反応をいただいているが、その続編の日本が移民を受け入れられるようになるための条件と提案と併せて読んでいて、どうにも違和感がぬぐえなかった。基本的なことは殆ど同意がとれていて、内容にも異論がないというのに。たとえばここ。

僕は日本が移民を受け入れられる体制になるには、少なくとも以下の条件が満たされる必要があると考えています。
人生で1年以上外国で過ごしたことがある日本人が過半数になること

簡単に言うと「そんなことができるようになるなら、別に移民をわざわざ受け入れようという必要はないよね」と言いたくなるのである。個人的には過半数ではなく20%で十分だろうと思うが、数の問題とは思えない。Togetter - 「移民に賛成する二人が異なる視点から意見を交わす」を見ても同じ感想である。

考え抜いた結果、これは「目的と手段が逆なのだ」と言うことに気付いた。L.starは移民は手段だと考えている。元々達成すべきグローバル化と言う目的があって、その目的のための過程の中の(とても有望な)選択肢の一つと考えている。@Sophie525の論法は実は逆である。移民という目的があって、それを実現するためにはグローバル化の達成と言う手段を使いましょう、というものである。

違和感の正体はここで、例えばブレインストーミング的に「東京タワーに振りかけると日本をグローバル化する薬」という怪しいアイテムを仮定してみよう。Sophie525氏は「これを使えば移民を受け入れられます」と言うだろう。L.starは「これがあるなら移民など必要ない」という。

これはつまり「グローバル対応が先か、ローカル強化が先か」という、卵と鶏問題の亜流である。ここがかなり根の深い問題で、多くの対立を引き起こしている。実際には、「グローバルもローカルも強い日本」に反対している人は多くない(スーパーペシミストを中心に少なくもないのは泣ける)のだから差異が発生するのは、今の日本の弱さがどっちから来ているか、と言う分析結果にある。

グローバルもローカルも現在の組織を引っ張る両輪なのだから、最終的には両方とも強くならなければならない。それをローカルで行うのか、グローバルで行くのか、はたまた両方をどうバランスさせるのか。あるいはこっちはグローバル、あっちはローカルという分担になるかもしれない。

 

さてここからはL.star個人の分析を言わせてもらう。日本ローカルは弱くない。日本人は勤勉でタフ、今まで不戦敗状態だった中国に負けつつあるとはいえそれでも上位の経済力を誇る。政治についても、EU諸国を見ている方がよっぽど危なっかしいぐらいで、ベルルスコーニやサルコジではなく鳩山が総理であったことに感謝すべき、と思うぐらいだ。日本の弱さの多くは、ローカルではなく日本の非グローバルにある。

移民政策に、いやグローバルを先にするために必要な施策全般にはデメリットがあるという。それはその通り。でも、そのデメリットは、21世紀を生きる我々みんなが乗り越えなければいけない障壁だ。ものすごく極端に言うと、デメリットを見ること無しに本当の意味でのグローバルを知ることはできないし、そのメリットを得ることができない。

もちろん日本は全てのデメリットから逃げている訳じゃない。でも他の国だって同様に闘っている。試行錯誤で痛みを受けながら前進しようとしている。特にオランダはこういう戦いに関しては果敢で、その点は本当に敬服すべきだと思う。闘っているのは移民賛成の人たちだけじゃない。コーエンほどイスラムと向き合った政治家ももちろんだが、ウィルダースほど懸命にイスラムと闘う右翼も日本にはいやしない。その戦いの中にこそ、本当のグローバルというのがあるように思われる。

だからL.starは繰り返し言いたい。メリットを見つめ、デメリットをつぶす問題解決を繰り返すこと。それが日本がグローバルと向き合うのに必要なことだと。いや本当はローカルと向き合う時にも必要なことだ。グローバルと向き合うのは、何も移民問題だけじゃない。諸外国と、グローバル企業と向き合うのもそうである。

あるいはもう日本は先進国であり続けるのに疲れたのかもしれない、とも思う。向き合わずに痛みを避け続けていれば、いずれどっかの民族が痛み無しにグローバルを受け入れられる方法を発明してくれ、それを使ってグローバル化を成し遂げることはできよう。しかし、そのように進んだ国から技術をもらって生きる国を人は「後進国」と呼ぶ。そして、日本は明治元年から高度成長時代までの100年間、そんな道は一度も選ばなかった。

ここで@Sophie525のエントリのまとめに戻ると、

30年も待ってたらその前に日本が沈没しますよという意見もあるでしょう。日本経済の弱体化が加速して行けば行くほど、日本人は職を求めて海外に出ざるを得なくなってきます。つまり、日本経済の弱体化が加速して行けば行くほど、日本経済を強化できる移民政策の実現に近づくのです(すこし皮肉ですよね)。

個人的に彼の作戦が成功するとして前述の通り閾値の考えに差があるので、30年かかるとは思わない。しかし我々にはたぶん30年などと言う悠長な時間は残されていないだろう。ただし、日本経済の弱体化によって海外に出て行った人たちは、たぶんもう日本には戻ってこれない。なぜなら弱体化した日本経済にはもうそういう人たちを雇う余力が無くなってしまうからだ。

だからL.starは繰り返し言いたい。そうなる前に我々はグローバルと闘わなければ手遅れである。そのためにはメリットを見つめ、デメリットはつぶす問題解決を繰り返すこと。必要なら過去の自分たちとも決別できるだけの強い意志で。それが日本がグローバルと向き合うのに必要なことだ。いや本当はローカルと向き合う時にも必要なことだ。グローバルと向き合うのは、何も移民問題だけじゃない。諸外国と、グローバル企業と向き合うのもそうである。

グローバルと向き合って闘って勝利を得るか、はたまた勝負を投げて後進国として生きるか、そういう時代にいるのである。であれば誰かにケチをつけて溜飲を下げるのでなく、グローバルと、ローカルと、どうやって闘うかまずは真剣に議論したいものである。そういう意味では、今回の一連の移民政策議論は大変意義深かったと思うのである。

 

しかし、こういうとき、「グローバル」だの「ローカル」だの、と言う言葉が微妙に自分の意図している何かとずれていることがもどかしい。たぶん日本人が英語をしゃべらなければならない理由で使った、茂木健一郎さんの地域の固有性を守るためにも、グローバル化に関与しなければならない。にある「文化」と「文明」が一番近いのだろうが、その概念を、ローカル、グローバル、そしてそれらが混じり合って調和した理想的状態を示す単語がやはり必要になりそうだ。

いろいろ日本についてつらつら考えているけど、国際人たちに聞いてほしいこと。そして排外主義者の人たちにもっと聞いてほしいこと。でもやったとおり、結局日本人に足りないのは自信、とかそういう結論に落ち着きつつある。まず自信を持つためには自己暗示が必要なのだが、それが不足している。

やれ移民だのなんだの、と具体的に日本を強化するような政策アイデアはいろいろ出てきているから、それを実行すればいいのだ。どんな政策にもメリットとデメリットがある。とにかくメリットを重視してデメリットと戦い、もう駄目だと思ったらさっさとその政策は捨てる。

そういう果断さが求められているのだが、局所解にはまってしまっている日本にはそれができない。確かに日本は素晴らしい文化を持っていて安住できる地かもしれないが、そこから変われなければ沈むだけである。まあそんなことを言っても、みんな自信が無いから実行できない。これは政治家だけの問題じゃなくて、全員の問題だ。

たぶんそんな状態を脱するために必要だったのは、理論でもばらまきでも経済復興でもグローバリズムでもなく、自信の裏付けになるものなのだ。果たしてそんな都合の良い銀の弾丸があるのか、というとあるのである。イデオロギー、あるいは宗教。イデオロギーさえ確立されれば、あとのものは、経済も社会改革も自然とついてくるだろう。

イデオロギーが世界を席巻した例は何度もある。イスラム教やキリスト教は、いずれも世界的な役割を果たした。精神論とバカにする事なかれ。日本版シリコンバレーが成功しないたった一つの致命的な問題ではマクニールの独特の考察の話をしたが、彼は別に武器防具の話だけをしたのではない。宗教やイデオロギーも又、決定的なテクノロジーとして作用したと述べている。第一次世界大戦の集結を決定づけたのは、民族自決と共産主義の2つだったとまで言い切っている。

そんなことを「自信」と結びつけてエントリにしようと思ったのは最近ドイツのトリアーにいって、ローマ時代の遺跡とともにカール・マルクスの家にいってきたからなのだが、戦後という時代からの変化に戸惑っている今こそ、多数の迷える民衆の空白を埋めるイデオロギーの時代ではなかろうか。そして、イデオロギーを伝える役目としては、強力なコミュニケーションツールであるインターネットがある。

これは排外主義者としての「ネトウヨ」の成立過程を考えたときに興味深く思った点から来ている。彼らはネット上から自然発生し、判で押したように均質な発言ができる勢力を作り上げた。これは驚くべきことで、他の国では、排外主義にせよ宗教にせよ何にせよ、思想勢力が隆盛するにはそれを糾合できる指導層が不可欠である。ところがこのケースではそれがない。にもかかわらずある程度統率された行動力まで有しているのは驚く限りである。

実は黒幕が居るとか、未だ議席も持たないんだから隆盛の前段階に過ぎない、と言う可能性はある。でもネットによって新しい形のイデオロギーが発生しうることを示唆していると思うと興味深い。そうするともっと極端になると、例えばTwitterで運びうる140文字程度の計算され尽くした言葉が、Retweetによって伝搬して新しいイデオロギーの中心にさえなるのではないか、と思えるのである。

もちろんそうやって生み出されるのは殆どゴミなのだが、しかし人類の、あるいは地球の歴史などと言うのはそういうゴミのようなものまで含めての大量な挑戦の中から生み出されてきたのである。打率1厘なら大成功も良いところである。

そして、もしも本当にそんな言葉が現れるなら、それはもはや聖書やコーラン、「共産党宣言」に匹敵するような影響力を持つだろう。だから、以下のような特徴を備えているだろうと予言できる。

  • 個人の自信の礎になること。そのまま信じて実践することが、自分の成功の元であると確信できるようになること。
  • 現状と未来を説明できる。読んで「なるほど!」と思い、さらに「こうすべきである」という目標が明確になること。
  • 「中庸」を定義できること。「文化」と「文明」の関係にしろ、進歩のスピードにしろ、自分と個人の関係にしろ、極端にならず、現状の一番良い状態になるような形を説明できること。
  • より大きな「想像の共同体」を定義できること。多国籍企業の例などを見れば分かるが、もはや世界は国家の枠組みを超えたところで進行している。今の経済のありように合致した共同体を提案できること。
  • 悪者になるのができるだけすくないこと。以前の悪行はある程度リセットできること。「これから頑張ればまだ勝ち目はある」という思いを確認できること。

果たしてそこまで徹底的に研ぎ澄まされた内容を140文字にできるか?という問題はあるかもしれない。しかし思い返せば、かつての宗教とて、原理原則とて長い文章ではなく、民衆に記憶されたのは短いスローガンにすぎなかった。140字のスローガンなんて、長すぎるではないか。もちろんその言葉がスローガンにすぎないなら、その裏には膨大な思想が隠されているということでもある。

まあそういう意味ではタイトルは言い過ぎかもしれない。しかし、かつて出版が宗教革命に大きな役割を果たしたように、21世紀には21世紀のやり方で新しいイデオロギーが示されるのではないか、とは漠然と思う。その上でもしTwitterが有望な役目を果たすのなら、140字のスローガンが登場する、ということだ。

Twitterは200億tweetを達成したそうだが、逆に言うと200億回そういう試みがなされたとも言える。中にはどうしようもないのが99.99%だろうが、それでも200万は超えるのである。この100万回では効果が無かったが、次の1億回では何かそういう言葉が生まれないとも限らないのでは。そう考えると、今我々は本当に凄い時代に生きているのだな、ということを実感できるのではないだろうか。

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