2010年07月

池田信夫氏が文明の生態史観を紹介していた。農耕民族と騎馬民族の関係が文明の形態に影響を及ぼした、と言う話である。

マクニールは「世界史」で同様の問題について深い考察を書いている。遊牧民と農耕民の力関係がテクノロジー(例えば古代戦車、鉄器、鐙、銃などに)によって変化する、などである。例えば戦車のような機動力に勝るが高度な技術が必要な武器が優勢な時代が統率力に勝る遊牧民が強く、文明国家があっさりと滅ぼされる。逆に鉄器や銃のような大量配備が容易で、扱いが簡単な時代は農耕民が優位で、巨大な帝国が勃興する要因になる。

もちろんこのような遊牧民と農耕民というパーツをそのまま21世紀に持ってきて、正しく考察できるかというと、なにしろいろんな要素が変わりすぎてしまっているので無理である。しかし、その骨格は十分応用できるだろう。

つまり、優勢な武器と、それにあった習慣を持った社会は、世界で優位を確保するのである。今現在「武器」の地位を確保しているのは産業だろうが、それに対応する社会習慣は3種類あるかと思う。

  • 優秀な少数(数人から数十人)のスタンドプレー物事を成し遂げる個人主義的なもの

  • 高品位な中規模(数十人から数百人)の連携チームプレーで物事を成し遂げる集団的なもの

  • 品質はさておき数的優位を確保、明文化されたルールで制御していく組織戦


こう考えれば殆どの人が「日本は2番目の典型例」と考えるだろう。池田氏も以下のように書いている。
他方、社会が自生的な生態系を形成しているため、地域や企業などの中間集団のまとまりが強い。

ところで米国シリコンバレーは明確に1番目だろう。彼らの企業規模は基本的に少数精鋭で、Googleなどは今や万単位の社員を抱えるが、5000人の時ですら殆どのプロジェクトは少数で構成されていたという。このような集団ではもちろん巨大なものを成し遂げることができないが、小さな突飛もないアイデアで小さいが突拍子もないアイデアで大逆転を狙うには適している。

そして実際ソフトウェア開発というのは小さなものである。巨大なシステムでは例外もあるだろうが、プロジェクトでのコアなエンジニアはせいぜい10人程度で、それでも実際に凄いものができあがる。極端な話だと、数千人月つぎ込んで作ったものより、数人で気合いを入れて作る方がよほどましなことがある。それがソフトウェアというものだ。

この2つを掛け合わせると、シリコンバレーモデルは、ソフトウェアシステム開発という小数人数向け武器と、少数の個人の組み合わせで起こっているムーブメントである、といえるだろう。日本はもっと大きい集団を得意とするから、日本版シリコンバレーは絶対に根付かない。

逆に言うと、少数精鋭が似合うソフトウェア開発で日本が優位に立てないのも当然だろう。大企業は集団モデルを明確に持っていて、それしか提供できない。他方少数精鋭というソフトウェア開発の特性に合わせた中小ソフトハウスは、諸事情により有効な規模まで大きくなることができない。その点は昔社員20人から先に進めない小規模ソフトハウスでも考察した。大きなジレンマを抱えている。

もちろんこれはマクロ視点なので、ミクロに見ると間違いだ。日本にも優秀な少数というのはいて、彼らも成功する。しかしシリコンバレーのような、閾値を超えた成功を得るには至っていない。シリコンバレー並みの個人の扱いを社会が覚えなければこれからも無理だろう。

むしろ日本に必要なのは、少数のスタートアップの補佐より、中規模への発展を補佐する仕組み、そしてうまくそのグループを効率的に編成して成果を上げる仕組みが必要では無かろうか。劣っている部分を強化したり、弊害を除去するのはもちろん必要で、例えば日本版シリコンバレーに必要な事情の整備であるとか、組織戦のノウハウの整備であるとかも重要である。しかし、せっかくの長所が見えているのだから、同時にそれを使わない手はない。

それに、ソフトウェア開発にしたところでいつも数人が最適ではない。残念ながらゲーム業界をよく知っているとはいえないので、推測に過ぎないが、日本の大作ゲームの一部が世界でも評価されるのは、大作の開発には大きなチームが必要になることと一定の関係があるかもしれない。もっとも多数の世のデスマーチの噂を聞くかぎり、単純にソフトウェア業界は力不足だから、ともいえそうである。

他方中国の昨今の産業政策は3番目のように思われる。欧州はと言うと難しいが、私見では彼らは3番目である。ルールを明文化して制御するのは日本に比べてめっぽう強い。もちろん日本でも、大企業はこのような組織戦のノウハウをある程度持っている。しかし単なる組織力は、今世界ではそれほど重視されていないようである。

もちろん、米国の少数精鋭が指示し、中国の人海戦術がそれを実行するというタッグは、あくまでモデルとしては完璧であるように見える。世界と日本が戦うということは、そういう新しい傾向とも戦うことである。

そのために日本の弱点を強化するか、あるいは長所にあった武器を考案するか、あるいはここは一手休んで傾向が日本に有利になるのを待つのか。多数の答えがあり、多くが正解になり得る。ここではその元になる仮説を提示するだけで、それ以上は随時やっていくなりしたい。ただ個人的には、日本の弱点を克服する最良の方法とは日本の長所であり、それは表裏一体と考えている。日本は中間集団になることによる弊害があるなら、その弊害を破るのも中間集団のもつ力ではないかと思う。

なんかいろいろ書きたいネタがたまっているがなかなか書く時間がとれなかったりして難しかったりする。オランダは今年はずいぶん暑く(といっても日本の夏に比べれば雑魚なはずなのだが)疲れているのもあるのだが。

ところで、今回は日本人はどの程度英語をしゃべれるべきかからのアップデートである。ここではLilacさんやelm200さんにならって、日本人のかなりがレベル1ないしは2の、いわゆるリングワ・フランカとしての英語をしゃべるようになるべきだ、という主張をしているわけだ。もちろんそれには合理的なものも感情的なものも含めて、いろいろ反論がある。

しかし、リングワ・フランカなどという単語を出すからには、ここでいう「英語」はたまたま世界共通語になっているのが英語だから英語というのであって、それ以上でも以下でもない。世界標準が英語からタガログ語に移行すれば「日本人はタガログ語をしゃべるべきだ」という論調になるだろう。

そして「日本語がリングワ・フランカになるなら、日本人は外国語など覚える必要がない」という論が出てくるのも当然だろう。これは全くその通りだ。そうなると世のエリートビジネスマンは日本語をしゃべるようになり、彼らの不利な立場で、我々が堂々と有利なことができるようになる。全く素晴らしい究極の解決策である。

ただ、これを実現するのは相当大変だ。まず、経済的にるいは文化的に圧倒的な影響力を日本語圏(日本国が、ではない)が持ち、英語圏を越えなければならない。「これからは日本語」と世界のビジネスマンに理解され、日本語の教育システムが世界中に整備されて、日本語のレベル1やレベル2の話者が、英語以上に世界中に増えるまで影響力を維持しなければならない。日本は1980年代から一時的に世界一の経済大国になって、しかも未だに上位を維持している。それでも英語が確固たる世界の中心と言うことは、日本語を世界標準にするには、その程度の偉業では全く足りないと言うことだ。

「日本」”JAPAN”から”NIPPON”へ・・・経済は停滞しても文化浸透は止めないでも書いたことである。しかしもっと高い目標と言っていいだろう。魅力ある「日本文化」が世界のスタンダードになれば、同時に日本語も次のリングワ・フランカになる。そのためには繰り返すが、魅力ある日本を世界中の人にもっと理解してもらう必要がある。理解してもらうためには日本の中で日本語をしゃべって日本人にビジネスをしてはいけない。世界の中で世界の言葉をしゃべって世界中の人と対面しなければならない。

皮肉なことに、いま世界中の人との対話を最も効率的に行う方法とは、リングワ・フランカとしての英語をしゃべることなのだ。JMMのfrom 911/USAレポート / 冷泉 彰彦の最新刊(メルマガ本体は発行済みだがバックナンバーは未公開)でも言われていたのだが、結局世界全体への話しかけは、現状英語でするしかないのだ。

いや英語はあくまで1スキルに過ぎなく、中身の方がずっと重要だと言われるだろう。そのようなコメントも前回のエントリでいただいた。しかしL.starの日本の外の経験からすると、日本文化は大変優れていて、欧州人がそこから学ぶべきことは本当にたくさんある。他方日本からのアウトプットはあまりにも少ない。

確かに英語など1スキルに過ぎない。でも、それがボトルネックになっている場合だけは例外で、それ以外の全てのスキルを合わせたより重要である。もちろん100%ではないだろうが、今重要なキーワードであることは間違いないだろう、当然、今後コミュニケーションが増えていくことでボトルネックは当然移動して、それとともに英語の重要性は薄れる。英語をしゃべれるようになるのが今必要なのと同様に、英語を重要視しなくするタイミングも重要である。

ちなみに外国語をしゃべらなくて済む方法はもう一つある。それは「完全な鎖国」である。全く正反対に見えるが、世界の境界と文化圏の境界を一致させる、と言う点で完全に同じである。ただ広いかせまいか、という重要な点が違うだけで。

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