2010年07月

最近のうちの周りのブログ、排外主義がテーマである。

不景気だからこその移民政策のススメのコメント欄から始まって移民もまた人間であるそして日本人が本当に大嫌いなのは「異質な人々」まで飛び火している。実はあなたの国際人レベルはどのくらい?も元々はそこをテーマにしている。

ところでこういう排外主義が日本特有かというと、そうではない。排外主義は世界的には珍しいものでも何でもなく、反イスラムという形でならオランダ自由党PVVをはじめごまんといる。アメリカで最近話題のティーパーティーもそうである。最近東欧では反ユダヤが流行りだそうで又恐ろしい話である。そうでなくても、民族ジョークには差別ぎりぎりのやばいものまである。

さらに誤解しないように付け加えないといけないのは、排外主義は確かに勢いがあるが、いまだ非主流ということだ。例えば欧州では。オランダのPVVは先の総選挙で24議席を取って躍進して大きく注目された。しかし、与党に食い込めるか怪しい状況である。ハンガリーでは第二党を取ったという話は聞いている。しかし、ドイツ・フランスなどの主要な国では、そこまでではない。

前回のエントリでは国際人としての分類分けをしたが、レベル2、つまりグローバルで活躍することを選ぶと、グローバルが速いペースでの進化を要求するため、どうしても保守的な排外主義者とは対立してしまうことになる。もうそれは運命である。しかもグローバルの世界は圧倒的な強さでこちらを追い詰めてくる。前線にいる国際人としては、前門の「文明」後門の「排外」、とでも言いたくなる状況に追い込まれてしまう。せっかく日本のために戦っているのにこれでは報われない。

でもあきらめずに頑張るしかない。グローバルとの戦いに簡単な解答などないように、排外主義との戦いに簡単な答えなどない。

L.starにとっての排外主義との戦いはオランダに住んでいるからこそ思う、外国人参政権論を考えてみた前後あたりがスタートである。そのときは外国人参政権と絡めて知的移民の必要性について論じたが、ネタがネタなのもあってまあよく荒れた。しかしその1年後に書かれた、参政権のさの字もないLilacさんやelm200さんのエントリのコメントを見る限り、何一つ進歩がないように感じられることに愕然とする。

ただ、個人的に排外主義者のコメントにはうんざりするが、それでも彼ら自身を嫌いになることは難しい。と言うのも彼らのコメントには、自信のなさがはっきり見えるからだ。「差別と外国人が嫌いです」とでも言わんばかりの相手に対するステレオタイプ的蔑視、ノー・トレランスに近いリスク回避傾向、マスコミや政府などの他者への転嫁。

全て自信が無い人の行動である。与えられた要求に最適化したゆとり世代や、ただただ自分たちの目の前に忠実な官僚を責められないように、やっぱり排外主義者も責める気にはなれない(とかいいつつ暴言コメントは吐くけど)

自信が無い人は答えとして別の何かにその源を求める。しかしそれは間違いである。残念じゃない日本ってどんなのか、考えたことがありますか? - みんな、自分に自信を持とうでも考察したが、自信は結果より先に醸成されるべきものであり、それを生み出す機構に欠けているのが日本における精神的な問題であるのだ。

だから排外主義者の人たちには、今一度自分と日本文化とのあり方をしっかり考えてほしい、と思うのである。あなたの信じている日本という国の、地方の、文化の与えてくれる自信は本当は幻想に過ぎず、自分の中に最初からあるものだと言うことに気付いてほしい。日本が素晴らしいから日本文化が素晴らしく、それに属するあなたも素晴らしいというのは間違いだ。あなたが素晴らしいから、それを要する日本文化も日本も素晴らしいのだ、と言うことに気付いてほしい。

ここで言いたいのは「日本を愛するのは駄目」というのではないことにも注意してほしい。何を愛するのも何を嫌うのも個人の自由だ。ただ順番がある、あなたがあって、世界がある。それが唯一の正しい解答だから。そしてその上で日本を好きというのは何一つ問題ない。

そして、日本が好きなのだから、「日本が何をしてくれるか」ではなく「日本に何をしてあげられるか」を真剣に考えてほしい。日本が素晴らしくあるためには、その構成員全員のたゆまぬ努力が本当に必要なのだ。誰かの揚げ足を取るのは辞めて、自分が進んで日本のために何かをまずしてほしい。敵は世界だ、と言うことを改めて認識してほしい。そのためには、日本の中で争っている余地など本当はないのだから。

最後に、たとえ排外であれ国際的であれ、ノー・トレラントは拒否したい。我々の世界は常に問題だらけで、メリットを信じながら一つ一つ問題をつぶして、それでやっと少しづつ進歩するようなことの連続である。いつも成功より失敗の方がずっと多いのである。そこで「失敗するかもしれないからチャレンジしない」などという甘えた考えは、現実を見ないきれい事にすぎない。

プログラマの間では、こんなジョークが知られている。

「バグのないプログラムの書き方?そんなの簡単だよ。1行も書かなければいい」

我々の世界をシステム開発にたとえるなら、常にバグと戦いながら少しづつ改善していくプロセスなのである。よくするためには、悪くなる可能性があるのを分かってでもコードを書かなければいけないのだ。それを怠ったとき、システムは死ぬ。日本を殺したくないなら、良くも悪くも挑戦あるのみなのだ。

L.star界隈のtwitterでこんな話題が。

私は日本人なのだが、たぶん一般的な日本人があまり好きではないのだ。私が抱えているもっとも大きな心理的問題は、民族同一性障害なのかもしれない。

元ネタになる一連のツイートは知的移民問題と絡めてである。L.starも昔やったことがあるが、これは結構荒れる。しんどい問題である。

民族同一性障害、というより、人は根本的に文化に対する接し方が異なる。だから民族に対するとらえ方より、民族と他文化と自分との関わりで類型化できるのではなかろうか。日本人が英語をしゃべらなければならない理由で語った文化=文明モデルを元に、国際人としての分類分けをしてみたい。

レベル0:自「文化」中心型

基本的に自「文化」を真ん中に据えて、他の文化の存在に否定的、あるいは好奇の目で見ているだけの人。世界に関する関心は薄く、ややもするとバカ世界地図に出場できる知識しか持っていなかったりする。しかし自「文化」についての関心は強く、総合的理解度も高く、その効能を強く信じている。しばしば情緒的である。というのもどの「文化」も歴史的地理的経緯から発生する非合理を抱えていて、それとうまく折り合わなければいけないからだ。

基本的に保守的であり、自「文化」を正しく守ろうと言う気概があり、それゆえに他の文化から学ばない。日本国内で日本語で生活していて、外国と交流していない人の大半はこのモデルではないかと思う。

なお、レベル0をこじらせると他文化を強く否定するようになり、立派な国粋主義者になれる。

レベル1:P2P型

自「文化」に加えて、他「文化」の存在を肯定的に認知している人。ただし、それは自「文化」vs「諸外国」という二元論で、通常「諸外国」といっても特定の1国程度で、主に特定の専門分野を通じて交流している。インターフェースそのものは狭いが、その内容は密で、両「文化」の架け橋になる存在である。2つあるどちらかの「文化」を軸足に持ち、他方の良いところを取り入れるのが基本になる。例えば「和風フレンチ」などは典型的な例といえよう。

以前日本人はどの程度英語をしゃべれるべきかにてレベル4の英語をしゃべる人は、と言ったことがあるが通例そういう人はこのレベル1である。

レベル1をこじらせた人は軸足を見失って外国かぶれになる。諸外国のありようが何でもよく見えてしまうわけだ。

レベル2:スター型

「文明」の持つ特性とその長短所を理解している「文明」人。この人たちにとっては自「文化」はたまたまよく知っているものであり、多数ある一つに過ぎない。大抵論理的である。というのもレベル0とは逆に、「文明」にはその成り立ちからも非合理があまりないため、情緒的な人から見ればあまりにも殺風景で、耐えられたものではない。

一見レベル1より良さそうに見えるが、結局「文明」というハブを通じてものを見ることになりがちなのと、多数「文化」を目にするために、一つから大きくは学べない。その代わりに、あらゆる「文化」の長所を組み合わせるようなダイナミックなこともできるのが特色である。近代日本は幕末の混乱の反動からここにうまくジャンプできた例かもしれない。陸軍をプロイセンに、海軍をイギリスに学ぼうなどと言うのは

レベル2をこじらせた人は、実は自分自身を見失って分裂したり迷走してしまう。レベル0,1にはあった軸になる文化が、ここではあまりにも希薄になってしまうからだ。それを防ぐためにも論理によって自分を正当化できることは重要である。

レベル3:真の国際人

レベル1も2も、実は国際的な文化交流のモデルとしては不完全で、完全になるためには両方について熟知する必要がある。

だからこそ「文明」と「文化」の両モデルを完全に理解して使いこなせるのが真の国際人である。ただ、これを今できる人は限られた天才だけだろう。例えば大好きなマクニール先生のような偉大な学者、政治家や芸術家はこのクラスを達成しているかもしれない。個人的には目指したいと思うが、自分自身のライフワークとしてならともかく、生きる武器としての国政制としてはいささかオーバーキルではなかろうか。

番外:世捨て人

そもそも交流を拒否する人。深い説明の必要はないだろう。

 

いかがだろうか。ただし、このレベル分けにしたところで、同じ人でも項目によって異なる、ということだ。例えばNetscapeのCTOだったマーク・アンドリーセンはプログラマーとして、あるいは起業家としてレベル2以上かもしれない。しかし彼は中国に出張してすらピザしか食わなかったと言う噂を聞いたことがあるので、それを真に受けるなら食文化的にはレベル0だったようだ。いやジャンクフード好きというのは立派な食文化レベル2なのかもしれないが。

あるいは逆に日本人がいくらレベル0が増えているといっても、ミシュランが驚愕する東京などをみれば、食に対する豊かさはレベル2であろう。

同じ項目に置いてすら複数のレベル分けが共存しうる。例えば一見伝統的に見える芸能ものが、実際には他文化の同等品を徹底的に研究し尽くしていたり、とかである。フランス料理は伝統料理かもしれないが、最前線のシェフはあらゆる料理食材を研究していることだろう。

最後に一番重要なのは、「文明」と「文化」は相互補完的であるからして、レベル3のような理想像を除けば、どのレベルが正しいというものはない、ということを肝に銘ずる必要がある。どのレベルも本来同じように重要であり、相応の敬意を持って迎えられるべきである。こじらせたやつはやっかいだが、しかしそれはレベルでも同じなのである。

言い換えると日本「文明」はレベル0,1,2「文化」の人たちで構成されているというのは言い過ぎだろうか。同じ構成員なのだから、お互い協力して強い日本をつくっていきたいものである。

また英語ものだが、前2回の

日本人はどの程度英語をしゃべれるべきか

日本人が英語をしゃべらなくて済む方法

と続いた後、その次のエントリとしての「グローバルとローカルの関係」という内容を書くのに大苦戦した。いずれも「世界と日本人がどのような関係を築くか」というのが裏のテーマとして存在していたのだが、頭の中の鮮烈なイメージを具現化するには、いろいろと不足していた。実際4つぐらい没がたまり、そろそろあきらめようとしていた矢先に、イメージそのままの文章が見つかった。

地域の固有性を守るためにも、グローバル化に関与しなければならない。

私たちは、「文化」と「文明」の区別をする必要がある。インターネットの時代に、世界共通の流通のインフラとして構築されつつある「文明」と、それぞれの地域に育まれ、いわば「温存」されていく「文化」と。インターネットを通して、世界の文明がいわば地球規模の「単連結」なものとして発展していくことは、それぞれの地域の文化が消えてしまうということ、あるいはそれが世界中へと流通していくことを必ずしも意味するのではない。

まさにこの「文明」と「文化」という2単語に集約されていると言ってよい。繰り返しになるが、グローバルで話されている英語と英米人が話す英語は別物で、それと同じように、英語の裏にあるものも別物なのである。

 

「文化」同士が交流を行うとき、それはどちらかの母語がベースになってのP2P型になる。しかし、「文化」は地域にしっかりと根ざしたもので、交流は非常に限定的にならざるをえない。

例えばオランダ人と日本とのこのようなコミュニケーションを見る限りでは、いずれもお互いの「ちょっと面白そうだと思ったもの」を楽しむ程度にしか理解しようとしない。オランダ人はSUSHIを楽しむかもしれないが、それはあくまで「珍奇な料理」としてであり、日本食の文化的体系になど全く興味を持たない。

「最近の死ぬほど暑い日にオランダ人にそうめんを振る舞ったら、こんな食べやすい料理があるのか!と驚かれた」と言う話を聞いたが、ひょっとするとそうめんもヨーロッパで大ヒットするかもしれない。しかしその場合、たまたま欧州文化に無かったものを埋めるために輸入するので、そうめんにある日本文化のバックグラウンドは無視される。

同様のことは日本人だってやっている。例えば普通の人にとってカレーライスは日本の文化であり、輸入元のインドや欧州の文化を感じるのはごく少数である。また日本にある厚切りの食パンに相当する食べ物は実は欧州にはない。あれは日本の米食文化にもとづいて、パンを主食と解釈し、主食らしくなるように改変した結果である。日本人からはそう見えないかもしれないが、パンは明らかに米の代用品にすぎず、米食文化の本質には全く傷がついていない。

これは日本と欧州、オランダとの交流の例を取ったので非常にお互いに文化的距離がある。もちろんヨーロッパ諸国内などでは、日本よりもずっと距離が近いために、もうちょっと楽になるかもしれない。いずれにしても困難な道のりである。

このようにP2P型で行われるやりとりは、お互いの文化を尊重した形で行われ、たまたま足りないものがあった場合にそれが部分的に取り入れられる。既存の文化をわざわざ破壊してまで導入する価値があるものというのは多くないし、たとえ多かったとしても毎回都度文化をぶちこわしていてはコストが掛かって仕方がない。だから、頻繁に文化を取り入れないことには合理性がある。

 

そして、世界にはもう一つの「文化」同士の交流法がある。それは「文明」を経由して行われる、スター型の交流である。

「文明」という主体はあまりにも漠然として判別しづらいが、交易などを通じて不明瞭な形を表しつつある。なにしろ土地や民族のような、根ざすものがない。かわりに「文明」は「文化」の中に寄生虫のように根を下ろし、そこから様々なものを吸収して生きている。ただしあらゆる「文化」と上記のP2P型コミュニケーションを大量にこなしている結果として、「文明」は「文化」の最大公約数的なものを身につけている。

「文明」が寄生虫であるメリットは計り知れない。なにしろ実体がないので、寄生している文化から何かを取り入れるときの壁が非常に小さい。それによって、たくさんのものをより少ないコストで取り入れることが出来る。取り入れたものがよいものであれば、相乗効果は計り知れない。取り入れるものが数個程度なら「文化」にもできる。しかし20や30といった爆発的なスケールは「文明」にしかできない。デメリットとしては絶対に100%になることができない。元エントリではそれを以下のように指摘している。

ローカルはロングテールに返還される。グローバル化が進展したとしても、世界各地の文化が全て均一になってしまうわけではもちろんない。

まあ個人的には最後は均質になると思っている。ただし、それは「文明」が「文化」になると言う意味であろう。そもそも何世紀かかるか予想もつかない、我々のあずかり知らぬ話だ。

そんななので、「文明」は絶対に「文化」を破壊し尽くすことはできない。その代わりにあらゆる「文化」の隣人になって他「文化」から学び、あらゆる他「文化」に教える。例えばさっき日本とオランダは距離が遠いと書いた。しかし、両方とも「文明」と近い距離にいる訳だから、文明経由日本発オランダ行は、直通より遙かに距離が近いことになる。まさにワームホールである。欠点は「文明」というフィルタを介したものしか伝えられないことにあるが。

この「文明」と「文化」は、日本における国と地方の関係によく似ている。つまりローカルである各地方があって、その上に我々が日本全国と呼んでいるグローバルがある。江戸時代の藩制度から中央集権に代わっても、日本は完全には均質化しなかった。確かに多数の風習が無くなったりしたが、それでも未だ地方の特色というのは色濃く残っている。方言すら消えていない。もっとも今や日本全国は「文明」から「文化」になったともいえるかもしれない。

ところで、元エントリにかえって

グローバルな文明は、ルールが変わりゆく世界においてはローカルな文化の破壊者ではなく、その存在条件に次第に変わっていく。グローバルな「文明」への参加は、各地域のローカルな「文化」を持続可能なものにするために、どうしても不可欠なことである。どれほどローカルな文化の大切さを説いても、グローバルな文明との関係を整備しなければ、そもそもの存続すらが危うくなるのだ。

ここでいきなり「文明」への参加が「文化」の持続可能条件に飛躍しているのがやや残念と感じた。その理由は一番重要なことだと思うのだが。ただここを理解することはできても、説明するのは難しい。個人的には以下のようなものだと考えているが。

  • 「文明」があまりにも巨大化したから、かつては可能だった「文化」が「文明」に参加しないという選択肢がもう消えている。
  • 「文化」と「文明」が互恵的な交流を続けた結果、もうすでに大半の「文化」が「文明」なしに生きられなくなった。つまり共生状態に入ったから。例えば日本の「地方文化」の殆どはもはや独立不可能である。
  • 「文明」の力が圧倒的になった結果、「文明」の恩恵を受けられない「文化」は圧倒的不利となった。

 

最後にやっとここで「英語」という単語が出てくるのだが、それほど「文明」が強力で重要だからこそ、我々日本「文化」は彼らと対話して正しい関係を築かなければならないし、いまそれが毀損しているなら最優先で修復しなければならない。

そしてさしあたって何が問題かというと、まず「国際共通語の話者が足りていません」ということである。「英語をしゃべれるようになる前に日本人としての中身を」と言われるが、気に病むことはない。必要なのは「文明」型の多文化との交流であり、中身だったらその交流を通じて身につけることができる。

日本「文化」と「文明」の対話インターフェースを改めて確立しなければならない。それが日本人が英語をしゃべらなければいけない理由である。だれでも英語がしゃべれるべき、とは思わない。しかしまとまった人数の英語話者が必要である。

前回の

全議席比例代表制度にする前に日本の政党が変わらなければいけないこと

にて、自民党の河野太郎氏の民主主義の権利と義務と言うエントリを紹介したが、そのはてブを見ると「被選挙権行使はハードル高すぎる」という意見が多いのに驚きつつ、確かに一理あると思った。

統計局の資料(PDF)によると地方議員総数は30000超、国会議員に至っては1000以下な訳で、実際候補者になるにもそうとう厳しい試練である。ましてやノウハウや地盤のことを考えると、二世でもない限りほぼ無理か、と思ってしまう。候補者が居ないなら自分が立候補、というのは民主主義の正しい有り様だが、それを実践する制度に欠けていないか、と言う話になってします。

じゃあ逆転の発想をしようではないか。世の中では議員削減が叫ばれているが、思い切って極端に増やしてしまえばいい。例えば国会議員10万人になれば、競争率は1/1000まで上がり、ちょっと優秀な個人で手の届く範囲になってくる。むろんそうなると今までのように高給取りであるわけにも行かないから超薄給になるが、それはそれで雇用対策と言っていいだろう。

まあなんで10万人とか言い出したのかというと、昔

10万人規模の政治家を擁するインターネット国会を実現する – 狐の王国.

を読み、対立エントリの

ネット衆愚制よりネット独裁者

を書いたことがあるからなのだ。ここではL.starは「10万人の国会によるほぼ直接民主制など衆愚制の極み」と批判しているわけだが、しかし多数が参加するメリットも多数あるのも確かだ。例えばそれにより経験を積める層があり、自分を売り出せる可能性もあるわけだ。

今回は大元のアイデアを継承しつつ、しかしそのような衆愚制に陥るのを避けつつも、政治に参加して意見する、と言う形をどう作るかと言うことを考えてみた。すなわち今の政治システムはそのままに、さらに「市民院」を創設して市民の政治参加を促すことだ。

いろいろ決めなければいけないことは多いが、とりあえず簡単に考えてみた通りをあげておく。

  • 市民院は、衆議院および参議院の下部組織である。
  • 市民院の定員は10万人とする。
  • 市民院議員の任期は1年とし、再選を妨げない。
  • 市民院には、議長(1名)、モデレータ(100名)そのほか必要に応じた役職を設ける。全ての役職は市民院議員による互選とし、再選を妨げない。
  • 市民院議員は、衆議院および参議院議会等にオンラインで参加し、オンラインにて議論する。この議論には、市民院議員の他、内閣や議会等が必要と認めたものが加わることができる。
  • 市民院モデレータは、議論の方向性を整理したり、議論のうち重要と思われるものについて抽出したりすることを責務とする。抽出されたものは議会等のディスプレイに表示されるなどして、議員が閲覧できる状態に置かれる。
  • 市民院は、衆議院等の求めに応じて、特別の議題に対してオンラインの無記名投票を行う。結果はやはり即時閲覧可能状態となる。
  • 市民院の議決は、いかなる法的効力も持たない。
  • 市民院議員は、招集され参加した時間に応じた給与を受け取る。

まあ要するにネットのぐだぐたをそのまま政治に格上げするようなものなのである。しかし、きっちり国会を見て、資料を読んだり自分なりに意見を出したりするだけでも、参加している感は全然違うだろうし、実際の政治に対する理解も深まるだろう。その中でも優秀な発言をした人や、役職の経験を積んだ人は、十分経験があるといえ、上のレベルの政治家になる道も開けるだろう。

これは単なるおもちゃだろう、と言う意見もあるかもしれないが、L.starとしてはこれは共和制ローマにおける市民集会に近いものだと考えている。10万人という多数は大衆の縮図である。ここでは特に選挙方法や選出方法を示さなかったが、極端な話ランダム抽出で問題ないとすら考えている。

重要なのは、議決にいかなる法的効力もない、ということである。議会や内閣は、愚かな大衆の言うことに従う必要はない。しかし声には耳を傾ける必要はああるだろう。だから、議会や内閣は市民院を通じてより正確な民衆の考えを知ることが出来るし、市民院に正しく理解してもらうことで民衆との橋渡しにもなるかもしれないと考えている。

一番恐ろしいのは、議会が市民院の議決がそのまま通ってしまうようなスルー組織に成り下がってしまうことだ。むしろ市民院が議会の議決の追認機関になるぐらいでないといけない。とはいえ、法案の可決否決などは駄目だとしても、役職の選任とう、何らかの議決権があっても良いと考えている。

一方で課題の山積み度は半端ではない。簡単にあげるだけでもこれだけある。

  • 10万人もの多数のコミュニケーションをどうやって取るのか。動画配信はすでに可能だが、意見を集約することが可能なのか。2chに当てはめれば、一人一発言でも100スレ消費する勢い。
    twitterにしても、一時間に一人1tweetで28tweet/秒で、これは現在のtwitterのトラフィックの3%近い。誰かの失言に1秒に5%の人が反応すれば5000tweet/秒、デンマーク戦のゴールも越える化け物っぷりである。
  • 衆議院等とのコミュニケーションをいかにして行うか。
  • 市民院が衆愚組織に堕する可能性は高いが、本当に国政に影響しないか。あるいは衆愚に陥りにくくする対策はできないのか。
  • 市民院議員からのキャリアパスを本当に作ることはできるか。
  • 国政に導入するのは良いとして、地方にはどうするか。
  • どうやって投票するか。議決権がない、あるいは限定的な故、各種議会選挙ほどの厳密性を持たないオンライン投票で良いのではないかとも考えているが、組織票で埋め尽くされたりしないのか。
  • 時間管理、報酬等をどうするか。

最後に自分がそれをやりたいか、と言われると日本にいるならイエスと答えるだろうが、個人的にはむしろそれだけのコミュニケーションを成り立たせるアプリケーションやそのバックエンドを構築する方にずっと興味がある。そういう部分L.starは、残念ながら骨の髄まで技術者らしい。

週末はやや体調を崩していたが、頑張って夜のオランダ=スペイン戦を見ていた。勝ったスペインにはおめでとうと言いたいが、しかし・・・

確かに荒れた試合だったが、イエローカード総計14枚というのはいくら何でも多すぎるように思えたし、所々誤審も(しかも重要な場面で)あった。実際スペインは守備陣に隙がない上攻撃も果敢と、確かに強かったし勝つのは順当だろう。しかし素人目にあまり後味の良いものではなかった。

後味が悪いといえば先週末の参議院選挙。twitterで「選挙も後味悪し…」とつぶやかれていったいどんな、と思っていろいろデータをあさってみたが、確かにどうにも解釈しがたい。得票数で勝る民主を一人区でことごとく破るなど圧倒した自民が大勝、と言う結果はいったい何と読めばいいのだろうか。

もちろん今回の獲得議席は決定で、そこに疑義を差し挟む余地はない。違憲だと裁判を起こすことはもちろん可能だが、どうせやり直しにはならない。そもそもそういう戦略が有利になるような制度で投票するのに合意したのは今までの議員で、しかもそれを選んだのは国民なのであるからして、結果に文句を言う余地などない。

問題はやはり、5倍にも達する一票の格差だろう、と言う分析がなされている。それに合わせた戦術を駆使した自民党が勝ったと言うことなのだろうが。選挙戦術の善し悪しが一人一人の票に勝るというなら、いったい何のために投票すればいいのだろうか、と考えされられる。

そんなこんなだからなのだろうか、今回の結果というか過程と言うかには思うところもあった人が多いらしく、選挙制度改革を求める声がブログ界には出てきていたようだ。今は自民党一党独裁体制の昔とはずいぶん勢力も変わってしまっている。次はもっとより世相を反映しやすく、国民にとって受け入れやすい妥協案を探してくれるように、というのはあるだろう。こういった選挙制度改革はそれ自体が国家政党の枠組みを決めてしまうので簡単にこれと決めるわけにも行かない。

どれもBLOGOS仲間(もっとも仲間といってもL.starは末席を汚しているに過ぎないが)になるが、上脇先生の

やはり民意を歪曲する選挙区選挙は廃止するしかない!

が数字がまとまっていて面白い。dankogai氏も

民主党が負けた本当の理由

にて同様の指摘をしている。面白いのは二人とも参議院にて全議席比例代表を、という主張をしている点だ。逆にアメリカ上院や国連議会を範に「格差上等、もっと地方色を高めろ!」という意見も木走まさみず氏の

参議院は「一票の格差」是正を思い切って放棄してみてはいかが

にてみられる。いずれにしても衆参で大きく違う制度を、という点では一致している。

ところで、個人的に以前

オランダの総選挙に学んでみる

で、実際に完全比例代表制のオランダ下院総選挙について学んだ。その中のポイントで比例代表は穏健な多党制に収束しやすい、というのがある。その場合多政党による連立が組まれ、与党内の協議により現実的な落としどころが生まれるということだ。

ここでは仮に今回の結果だけをベースに与党組閣を考えるとして、上脇先生の上記のブログから「各政党の選挙区・比例代表選挙での合計当選者数、比例代表選挙の得票率および比例配分試算議席数」という試算値をお借りして、実際に多政党連立がどのような形になるか検証してみよう。まずはわかりやすいように試算値を抜き出して表にした。

政党名 試算議席数
民主党 38
自民党 29
公明党 16
みんなの党 16
共産党
社民党
たちあがれ日本
国民新党
新党改革
諸派
幸福実現党

これで61議席以上を確保できる組み合わせというと以下のようなものが考えられるわけだ。

  • 民主+みんな+公明(70)
  • 民主+自民(67議席)
  • 民主+みんなor公明+共産(61)
  • 民主+みんなor公明+社民+その他1(61,2)
  • 自民+公明+みんな(61)
  • 自民+みんなor公明+共産+社民+その他2(61,2)

こう並べてみると、かなりあり得ない組み合わせが多く見られるというか、今までの経緯等を考えると、とんでもないと言ったほうがいいだろう。最も鳩山内閣に近い4番目はいまさらないだろう。共産党が与党というのも想像がつかない。そしてみんなの党が民主とは組まない、と言うのを真に受けるなら、2番目の大連立か。あるいはまだまともに見えるのは5番目だが、第一党が野党というのからして普通あり得ない。

ここでいう政権交渉というのは、あらゆる政策案や行動指針をぶちまけて、お互いに「ここはOK」「ここは妥協できない」といったことをいちいち検討するのである。その交渉の中で当然マニフェストにあったことをあきらめないといけないことだって出てくるわけだ。別にオランダにしたところで連立交渉は大変なわけで、選挙から一ヶ月まだ決まっていない。

全議席比例代表の問題というのは、はたして圧倒的な第一党があるのが普通だった日本の政党に、今までのわだかまりと政策の差を乗り越えて政権を樹立するという根気強い行為はできるのだろうか、という点につきる。それができるように変わらなければ、より一層の迷走の度合いを強めるだけである。

又そうなったときには、各政党が、より個性的な、わざわざ選ぶ価値のある特色を持った形に変わらなければならない。どれも同じようでは、結局民衆に見透かされるだろう。もっとも多党制を受け入れられるようになるなら、移ろいやすい多数に働きかけるより熱心な少数をがっちり味方につける方がずっと効率的になるため、そのような流れは加速するだろう。

個人的には、こういう完全比例代表を行うなら、それがより国民の一票を反映するが故に上位にある衆議院にすべきだろう。これにより日本は二大政党制からおさらばすることになるだろうが、与党間の合意による日本全体の合意形成に役立つだろうと考える。他方参議院は完全選挙区(ただし格差はある程度是正する必要あり)として、国民全体の意見が地方の意見に優越する印にすべきである。オランダの二院制に近い形(下院は比例代表、上院が地方議会による選出)と非常に似ているが、若干影響は受けている。

ちなみにこのような制度になった時、空白地帯になっているのはより右翼的な、例えばネットの保守層をカバーするような政党である。今のところ消極的ながら自民党やみんなの党支持となっている層だが、こういったところにマッチする政党があれば現状の不満層をかなり吸収できるだろう。麻生元総理とかがトップになってやらないだろうか?彼ならネット保守層の信望も厚いし、彼らの要望を現実的な政策に落とし込む能力にも長けていると思うのだが。

まあそういう与太話はさておき、他にもいろいろやることはあるだろう。ネット選挙の件もある。想像してごらん?日曜日以外に選挙があることを。では、日曜日以外に選挙を行うことでの会社員フレンドリーなあり方を検討すればどうか、と言う話もした。どの党のマニフェストにも熱心には書かれてなかったようだが、こういった議員と選挙システムと国民との垣根をなくすような選挙改革は是非どんどんやっていただきたいと思うのである。

 

P.S.

今回の選挙後の記事をいろいろ見ていて一番ほっとしたのは自民党の河野太郎氏の民主主義の権利と義務と言うエントリ。現実認識も優れているし、必要な適度な危機感もある。そして民主主義についてもよく分かっている。氏の言う「あたりまえの国会」ができるようになれば、国会は今の迷走から一歩前進できるだろう。このようなきちんとした政治家がいるなら、日本の政治もまだまだ捨てたものじゃない。

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