2010年04月

最近いつものシリーズが又行き詰まっているので、月並みなことであるが、なんかふと気考えたことを書き殴ってみる。

「日系企業の海外法人において、日本人の価値はやはりよく働くことである。タイムラグを埋められるだけの超過労働もするし、いきなりバカンスとかいって長期休暇で休んだりもしない。安い現地人の現地採用者や、中国インド等の労働者よりも結果としてお得である。」

これは典型的な日本企業の海外法人が日本人を使うときに考える論理である。というか、日本ではそういう人材が昔からずっとありがたがられているのではなかったか。もちろん雇う側からすれば金額に見合うパフォーマンスが出ればなんでも良いんであって、これでいい。しかし今日問題にしたいのは、雇われる側からすればどうだろう、ということだ。つまり「日本人」という労働者の商品性はどうか?ということだ。

最初の文章をひどくざっくり言い換えてしまえば「中国人よりお得です」となる。つまり、こういう発想に従って勝負している以上、我々が競争している相手は安い労働力なのだ。安い労働力と競争するなら、そりゃ休暇も返上してサービス残業ばりばりでやらなければ戦えないに決まっている。そう考えるとふと得心してしまった。なるほど社畜であることには合理性がある。

しかし、それはこのまま根性論で突き進むと今以上にアジアやアフリカの安い労働力と競争することになることを意味する。どうあがいても人間は一日に3倍以上の労働はできないし、日本は一度反映した分高い社会コストがある。だから、安い中国やベトナムなどに対する日本の敗北になることは分かりきっている。

考えてみたら日本がこれだけ物資も経済も豊かなのにいったいどこにそれらが消えて一般人が苦しんでいるのか、という命題はこれで説明できるのかもしれない。勝負する相手を間違えているのだ。先進国なら、先進国と戦わなければならない。

勝負の仕方は2つある。高効率化した組織や技術により、途上国一人より遙かに高い労働力を発揮すること。独自性を確立して、交換不可能な人材になること。ただし、それは「日本の中で」高くても何の意味もない。世界と比べてどうかが重要である。例えば悪い人材の例として自分の仕事を抱え込むのがあるが、これは好意的に後者と言い張ることもできる。ただ、交換不可能であるが、世界的に独自ではない。

2つの方法のどちらも、単純な根性論だけではどうにもならないことはおわかりだろう。同じ社畜のような16時間労働でも、デスマーチプロジェクトに参加するのと、こういった方向に努力するのはまったく質が違う。そういう努力は否定されるべきではない。しかしそれは先に質の高さありきであり、根性ありきではない。そこはどちらの方向にもはき違えてはいけない。

まあすべての日本人がこれをやっていないわけではないし、もちろん誰もがやらなければいけないものでもない。しかしやはりシンプルに、自分がなりたいものになれるように行動するというのは重要である。そして、根性ありきで闇雲に頑張る、と言うのは途上国の労働者と競争して貧乏になる、ということなのだ。そうなりたいならもちろん止めない。

とはいえ、まずは高効率を目指して無駄な残業を減らすこと、有給消化率を上げることからはじめて見てはいかがだろうか、と常々思う。サービス残業や休めないことによってもたらされる経済損失っていかほどだろうか。ふと調べてみると睡眠不足と不眠だけで3兆5000億円とか、予想より遙かに大きい額が出てきた。いったい根性論による機会損失が何百兆円になるのか、ちょっと計算してみたい気になった。

BLOGOSに参加してそろそろ1ヶ月になっただろうか。編集部から今月のテーマというメールをいただいて、その中で以下のものが目にとまった。
・教科書の検定結果発表、"脱ゆとり"に…学力低下に歯止めはかかる?義務教育で教えるべき教養とは?

調べてみると「ゆとり教育」は失敗だったとしてその反対に舵を取る方向だ、ということだが、これを機に昔書ききれなかったエントリにもう一度挑戦して、それを通じて2つの問いに答えてみたい。題して「ゆとり教育はこれから大成功」というものである。

常々思っているのだが、正直老人が若者を馬鹿にしているような「ゆとり教育」の悪い意味での使い方は、本当に感心しない。彼らがもし本当に何も学んでないとすれば、教えられなかった我々の責任。自主性がないのは、自主性を教えない我々の問題なのである。時々「今年の生徒は本当に馬鹿で」と授業中にのたまう先生が何人かいたのを覚えているが、考えてみればそれは「私は生徒にちゃんとたたき込めない馬鹿です」と告白しているようなものだ。

蛇足だがL.starは体罰反対ではないし、生徒はお客だから神様として扱えとか全く思っていない。ただただ、子供がきちんと必要なことを学ぶために、最善のことをなしてほしいだけだ。そこには多少の体罰や暴言も含まれる余地があっても良いと思っている。イデオロギーやら思想やら根性論やらで教育を語られるのを見ると、非常に気持ちが悪く感じる。そういう議論はたいてい「子供の学びをいかに最大化するか」という一番重要な視点が抜け落ちているからだ。

そう、我々は詰め込むにしろゆとりにしろ、効率にフォーカスしなければならない。そして効率とは、教師の手間でも教育コストでもなく、生徒が実際に学んだ質と量に基づいて考えられるべきである。

ゆとり教育が失敗した最大の理由は、ずばり言って「ゆとり教育を評価できる人間が居ないから」につきると思っている。学力低下?低下の原因になっている「試験」は詰め込み教育の結果を計測する方法だ。しかし教育方針を変えたところで、世の中は引き続き「試験」を中心に回っているのである。だからどれだけゆとりにしたところで、試験対策をしないといけない。だからその評価基準のレールから降りるわけにはいかない。必死で塾通いをさせ、良い大学に行かせ、新卒採用に必死になるのである。

だから間違っているのは入り口でも過程でもない、出口だ。フォアグラのように要領よく知識を詰め込んだ無垢な学生をほしがっている企業の採用担当者と、それに最適化して子供の有り様を無視してとにかく詰め込ませることで結果を出させようとする学歴ハッカーの親。こいつらが評価を握っている限り、永遠に日本には詰め込み教育以外の選択肢は現れない。

ただしご存じの通り、この流れは今変わりつつある。硬直化した評価基準を支える構造は崩壊中である。だから、「ゆとり教育」に分類される教育法は、それにふさわしい評価軸において今後大成功を収めるだろう。

そのような社会では、試験の結果なんかより、自ら人生を切り開く力を持っているかどうかがずっと重要になる。それは詰め込み教育で教えることはできない。L.starの友人の中に、ずば抜けた知性の持ち主というのが2人いるが、どっちも詰め込み教育の敗残者で、両方とも学歴はしょぼい。もちろん高学歴で能力が高いのもいる。正直そういう「したたかさ」とでも言うべき能力の高さと、学歴にはあまり相関性は見受けられない。東大クラスになれば話は若干変わるが。

「学力低下」は止まる。必要なのは我々が価値観を変えることである。チートと呼ぶだろうか。いやむしろ個人的には詰め込み偏重こそチートと呼びたい。

誤解をしないでほしいのは、だからといって「詰め込み教育は全くの間違いだ」というつもりも毛頭無い。詰め込み教育は一部の子供には最適ではない、それだけである。「ゆとり教育」にもし失敗を求めるとしたら、それを画一化して導入したことにある。効率を求めるなら、個人個人が異なる存在であると言うことを認めて、個々に最適化した教育を施すことが画一化から一歩進んだ方法であろう。コンピューティングの世界でも同様のことが起こってきている。静的に、画一的な最適化することから、動的にケースバイケースの最適化を施していく方向に。

2つ例を挙げたい。一つ目は、オランダに住んで頻繁に耳にするようになったモンテッソーリ教育やシュタイナー教育といったオルタナティブ教育である。個人的には自分で受けてみたかったとすら思う。これは正直万人に向いた画一的教育とは到底言い難いが、一部には適した教育形態だろう。実際にそういう教育を受けて成功した超一流人物リストも興味深い。

もちろん、これらの教育を日本に導入するのは大仕事である。現状日本におけるオルタナティブ教育は合法教育ではないし。それゆえ普及もせいぜい幼児教育にとどまっている。法改正に始まって、その環境を整備しなければならない。そもそも文化の違うヨーロッパ人向けのカリキュラムだから、日本に合うように調整しないといけないだろう。そうなると、今の日本の義務教育程度まで持って行くだけでも軽く20年は掛かる大事業である。

もう一つはそもそも動的な教育そのものを実装してしまう試みが実際にある。ということである。やや旧聞になるが、ものすごく感銘を受けた「学校の授業を19世紀(工業化社会)型から21世紀(情報化社会)型に変えてしまうTime To Know」と言う試みがある。これは今の教育現場に巨大な改革を強いるため、導入は相当大変だろう。しかし、全体の学習の質を高めることができるなら、それをする価値は絶対にある。このようなブロードキャスト的カリキュラムは実際画一化した義務教育にぴったりだろう。従来の職人的授業形態は、私学教育のようなところで実践を続けることもできよう。

だから「義務教育で教えるべき教養とは?」に対しては「多様性」と言いたい。個人個人に即した成果があり、個性があり、それを組み合わせてよりよい共同体を作ること。そのパーツとしての個人の有り様を肯定することこそ、今の画一性の代わりに教えるべきことでは無かろうか。

あと、強いて言うと話が飛ぶが「メタ学習」というのもあげたい。つまり学習するための方法、ということだ。これの重要性は、多くの「能力のある人」があげるのだが、実際には現在のカリキュラムにはなく、先生個人が自分の技量で教えるに任せられている。効率的な勉強方法、興味が持てること、勉強の楽しみを知ること。そこを最初に教えられないから、自主的に学ぼうという体制を子供に植え付けることができないのではないか。もう根性論はうんざりである。この結果興味は個人の専門分野に分かれるだろうから、これもまた「多様性」なのかもしれない。

最後にもう一度効率という言葉に立ち返って主張を整理しよう。画一的な詰め込み教育は大学受験と新卒就職に特化してしまっている故に効率が悪い。だから代わりに効率を追求するための方法として「多様性のある教育制度」を、ということになる。ここさえぶれなければ、日本の教育もきっと再生すると思うのだが。

2週間ぐらい間を開けつつ、とはいっても実際にはいろいろ書けなくて苦労したけれども、ネイションシリーズの第4回。

一応おさらいしておくと、発端になったのは日本のナ ショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説という考察から。第一回は国家民族に再フォーカスし、鎖国によって日本の良さを守る、超効率エコ社会を訴える「現代に おいて鎖国が現実味を帯びる時 ー 日本第一百科事典財団構想」、その次は経済と企業システムの再興を宗教改革になぞらえた「意義の ある「労道」がしたいー21世紀の日本で宗教改革の波が」。そして第3回は日本文化シンパを増やそうぜ!という「日本」”JAPAN”から”NIPPON”へ・・・経済は停滞しても文化浸透は止めない

で、第4回で考えるのは国家という枠組みを維持しつつも、超国家組織によりより大きな共同体を実現する「インターリージョナリズム」である。

実はこのような形態の失敗例は多数ある。国際連盟と国際連合は代表例で、結局のところ「国連のため」に何かをする国家はほとんどない。むしろ国家のために国連を利用する連中ばかりである。しかし、さすがに、これは純粋に今の世界に国連サイズの共同体を運営できる準備ができていないと見るべきであろう。いつの日かこれが実現する日は来るかもしれない。しかし、ここでいうインターリージョナリズムは、そのような世界規模のものではない。大きめの国家規模、ロシア・アメリカ・中国等の大国に対抗しうる程度の規模の話である。

現状をひもとくと、代表的な実装例はEUであり、多大な成果を収めているのは事実であるが、同時に経済的なものを中心に多数の問題点も抱えているのはニュースの通りである。ただし、L.starは個人的にはヨーロッパにはEU以外の選択肢は無かったと考えている。それは歴史的に小さく分裂した封建制度の下にあった時期が長く、文化および言語で隔絶していて、お互いにわだかまりを抱えている割に覇権国家といえるほどの圧倒的な実力のある国家が居ない横並びのヨーロッパには、ほかに共同体の大きさを広げる方法はなかった。

翻って日本、ひいてはアジアで同様の枠組みになるのはなんだろう。歴史的に見れば、幕末から明治政府までの一連の流れにおいて、それに近いものがあっただろうと考えられる。また、現在民主党政権というか鳩山総理は「東アジア共同体」という構想を打ち出しているが、これもまさにインターリージョナリズムである。もう一つはASEANである。EUほど緊密ではないが、しかし中国やインドに対抗できる程度の大きさの経済圏になっている。東亜共栄圏もこのたぐいに見えるが、インターリージョナリズムが対等な国家連合であるのに対して、大東亜共栄圏は所詮日本帝国を言い換えたものに過ぎない、という重要な違いがある。

ここでL.starの勝手な仮説を又持ってくるが、インターリージョナリズムを形成可能な国家群には、以下のような条件が必要とされると考えている。

  1. 文化的な同質性や、物流・経済などの結びつきが強いこと

  2. インターリージョナリズムによって初めて実現できる高い理想を共有できること

  3. 国家間の役割が対等かそれに近いこと。援助する国とされる国に分裂したりして、不公平感を作らない。


こと(1)に関して、鳩山総理が日中韓を共同体基盤に選ぶのは彼の経験からだろうということは、外国である程度の期間を過ごしていると簡単に理解できる。この3国は、他の国家に比べてずっと文化的に近いのだ。中国人の英語は彼らが中国訛りであるにもかかわらず聞き取りやすい。体調的につらくて欧州の料理を食べたくないようなときにも、ビビンバのようなあまり辛くない韓国料理はまだ食べやすい。西欧社会はもちろん、インド、南米、アフリカ、いずれも日本人とはかなり大きな文化的差異をもっている。アジア人だから信用できる、というのはない。しかし、信用できないアジア人を見分けるのは、信用できないスロバキア人を見分けるよりなんとなく簡単だろうと思う。ここは重要である。

(2)は言い換えると、インターリージョナリズムという技術的な枠組みに対してどのような「ネイション」を与えるかである。EUは環境保護主義を強く打ち出して、長期的な視野に立った文明存続という困難な目標に立ち向かおうとしている。また、経済についても全体の足並みを何とかそろえて、世界規模経済の時代にそぐうような枠組みを作ることに腐心している。ここが今、日本を中心とした国家連合に欠けている。(3)も、アジアの諸国家では一位中国がダントツ、二位日本(ただし下降中)、3位以下が韓国台湾シンガポール等が追い上げている、という感じでけっこう差が大きい。途上国も大きく、当初のEUほど対等でもない。ここは問題だ。

逆に言うと、日本とインターリージョナリズムが結びつくためには(2)と(3)の条件を満たすような連合体があればいい、と言うことになる。(3)については、中国は外して日本・韓国・台湾・シンガポール(と香港か)あたりの経済都市が中心になれば実現しやすいだろうか。そして(2)になるような理想で、環境保護主義と並んでたてるのはネットを駆使した新しい社会形態ではないか、と思う。電脳都市である。技術的にはGoogleを超えるような凄いブレークスルーが必要になるかもしれないが、何もこれはアジア人だけで実現する必要はない。彼らを呼んでくるだけでもいいのである。ポイントは1国では成し遂げられないほどの効率での電脳化で、住んでいるアジア人が幸せになれると信じられればいいのである。ここで思いついたのはどっちかというとサイバーパンクに近い世界だが、糾合できるだけの力を持てる目標はいろいろ考えられるだろう。エコだって良いわけだ。

このようなインターリージョナリズムが成功する場合、日本にもたらす利益は莫大だが、変化も巨大である。道には日本人だけでなくアジア人もあふれ、事実上の第一公用語も日本語ではなくなり、同質的な「アジア文化」が支配的になるだろう。そういう意味で、インターリージョナリズムは文化と強く影響し合うのではないだろうか、と漠然と思う。まあ、それよりなにより一番大切なのは、そういう理念や諸条件を持った国家群をうまくくっつけ続ける政治技術である。統合する理由はあって、長期的にはペイするかもしれない。しかし、短期的にしないほうがいい理由などいくらでも思いつく。ここをうまくコントロールできる世界的なリーダーシップがないと、簡単に崩壊するだろう。

参考文献:

再びテーマを変更。今回はTremocracyのOfficeFolders。前のも悪くなかったが、どうもサイドバーがウィジェット未対応だったり、微妙に日本語に対応してないなど、細かい問題が目立ったので。又デザインも、こっちのほうが洗練されている感じはする。ポリシーはDefaultのテーマに近いもの。とりあえずは当面これでいってみようかと思う。同時にウィジェットも整理。

日本では2010年度の初日になる今日は、趣向を変えて書評を行いたい。

我々プログラマは「コメントはあくまで読みやすくするためのもの」とか「ソースが仕様書」とか言いがちである。しかしそれは明確に間違いである。
この書籍「コメントからの伝言」は、ソースコードにおける、コメントの有用性に着目し、その知られざる効能について克明に示している。これを読めばあなたもソースコードにおけるコメントの重要性を必ずや理解できるであろう。

第一章 驚くべき「ありがとう」の効能 ~ 性能試験


世界中の様々なプログラムのコメントに着目し、「ありがとう」あるいはそれに類する単語が多く含まれるプログラムとそうでないプログラム、あるいは罵り言葉の多く含まれたプログラムの比較を詳細に行っている。この比較結果が示す傾向は気持ちよいぐらいで、バグの少なさ、バイナリサイズの小ささ、メモリフットプリントや性能など、すべての項目で「ありがとう」の多いコードが優れていることは明白である。

圧巻なのはFreeBSDでのネットワークドライバ試験。罵声にあふれたRTL8139向けドライバが圧倒的な性能問題を抱えていることが分かる。また、プログラムによって自動的に付加された「ありがとう」については、全く影響をもたらさないことも検証されている。プログラムを実際に書く人間の思いをコメントで表明することにより、バイナリはいっそう輝くのだ。

第二章 驚くべき「ありがとう」の効能 ~ 内部構造と定性的試験


詳細分析は圧巻であり、に着目し、論理的に同じはずのソースコードでも、生成されるバイナリコードやgccなどの構文木のような内部表現などがコメントによってどのように変化するかを図示している。これも一目瞭然であり、美しいコメントが構文木に与える幾何学的美しさに圧倒される。これは残念ながら言葉で言い表せるようなちっぽけなものではない。是非本当に本を買って、見ていただきたい。

またMP3エンコーダの性能比較も大変興味深かった。lame派生のプログラムに人間の手で様々な種類のコメントを付与したり削除したりしたものを12個用意し、 その音質を比較している。生成されたmp3ファイルは、12個ともバイナリレベルで一致しているにもかかわらず明らかに音質が変化するのが感じられた。

すべてのありがとうを削除した3番などは、500KHz近傍の不快な高周波成分が多く、実際聞くに堪えない。多くのクラシック愛好者にはgccへの愛をコメントに織り込んだ9番が奏でる甘ったるい感じにめろめろだろう。個人的には、ウィットに富んだだじゃれコメントを多数埋め込んだ11番が、音楽に刺激が出て良かった。

個人的には是非IBMのハードディスクと、東北電力の電気と組み合わせて聞きたい一品である。このエンコーダと、計測用のMP3ファイルは付属CD-ROMに納められている。

第三章 「ありがとう」コメントの力をを最大限に生かした会社経営法 ~ 儲かったよ、ありがとう!


この特性に着目した「ありがとう」を生かしたソフトウェア開発モデルについて考察している。ソフトハウス社長を務める著者が実践している方法であり、説得力がある。「お客様は神様であり、納品のために滅私奉公」「一緒に働く仲間のため、定時出勤、終電退社。休日返上で一緒に頑張る」「会社の目標のため、残業をつけなかったり低い給与で満足する」「終身雇用を信じよ」「働けなくなったら静かに会社を去る」「鬱は甘え」などの方法論が、いかにプログラムの「ありがとう」に結びつくか具体的な例を示している。
またそれが会社の高い利益率に結びつくことが良く理解できる。起業の際には是非参考にしたい。特に本性最後の
みんながつらい状況に耐えて「ありがとう」ということで私も儲かった。私もみんなに「ありがとう」と言いたい。

は至言ではないだろうか。

第4章 コメントが教える我々の未来 ~ 救済の時はもうそこまで来ている。


この技術のより広い援用のしかた、例えばバイナリからコメントを復元してありがとうの効用をソースが無くても計測する方法などの示唆に満ちた方法論が展開されている。第1章で「機械的に付与したコメントに効果が無い」と書いたが、ここではよりありがとうを付与したコメントジェネレーターにて限界を突破する可能性についても述べられ、一定の成功を納めているという話は大変心強い。

そして最後に述べられている、コメントの「ありがとう」がついには技術的特異点に達し、世界を幸福に満ちたかたちに塗り替えることが高らかに予言される。もう「ありがとう」は個人の努力ではない。全世界を統御する世界宗教である。「ありがとうコメント」万歳!!!

まとめ


と、このように本書はコピペプログラマ、疑似科学信奉者、ピュアオーディオ愛好者、社畜、悪徳経営者にカルト宗教の設立を考える人まで幅広く有用である。かならずやベストセラー間違いなしである。このような偉大な書籍を先に読めたことは大変な喜びである。

書籍「コメントからの伝言」は、2010年4月1日に民明書房より、前述の通りCD-ROM付きで予価嘘800円で刊行される。要注目である。

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