2010年03月

日本のナ ショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説

から始まった「ネイション」追求の第二回。第一回では「鎖国」に焦点を当てたが、今回は逆に既存の「ネイション」であったとした企業、ひいては資本主義経済が引き続きその役割をつとめる、と言う仮定に基づいて考えたい。今は激動の時代だとは思うが、だからといって既存の枠組みが極端に変化するとは限らない。それに短期的には、引き続き資本主義市場経済は優勢で、鎖国が必要になるほど壊れるとは考えづらい。だから、これはきわめて現実的な選択肢である。

さてその企業ネイションだが、俗にナショナリズムを「宗教のようなもの」と翻訳するからには、やはり企業も宗教のようなものである。L.starは昔某有名大企業で半年間ほど派遣されていたことがあるが、正直「きもい」「宗教のようだ」と感じた。今にして思うのは、それが「ネイション」であったのだろう、ということだ。しかし一方で労働組合的なものの正義も信じることができなかった。やりたいことは好きなだけやりたかったし、時にはそれが仕事と重なることもあった。そのようなときには、一律で長時間労働を禁止するような規則は邪魔者以外の何もでもなかった。そして、あれもある種宗教じみていたと感じていた。

そこでちょうど良いことに海外ニート氏のエントリで日本で は「労働」が「労道」になっている。と言う、これなどまさに労働を宗教と考えているそのままの名フレーズがあるので、「労道」という単語を拝借させてもらいつつ話を進めることにしよう。しかしL.starはここではこれを再び中核に据える、つまり日本人がまたがむしゃらに働くことによって社会を再興しようというのだから、海外ニート氏のように完全につぶす(と表向き主張する)ことは考えられない。代わりに必要なのは「改革」である。

個人的に思っているのは、人間は誰だって有意義なことがしたいということだ。有意義の定義はもちろん人それぞれで、でかい夢を持った人もあれば小さい夢をこつこつやったりする人もいて千差万別である。しかし戦後の高度成長期において、多数の社員が家族から何から全部なげうってでも「有意義なことをした」と信じて自分のなすべき事をなしたのだ。

このような100%自発的な労働形態を否定する人はさすがに誰もいないと信じたい。なにしろ、いま企業社会が否定されているのは、このような労働形態になってないどころが「自発的」に行動することを強制され、それによって搾取されていることにあるのだ。だから旧世代と新世代の温度差は大きい。旧世代は自分たちのやったことの有意義さ、すなわち「労道」を信じているか、無理矢理信じ込もうとしている。ところが新世代はその基盤は一切存在しないから、そもそも「労道」を信じる以前に感じることすらできない。

このようなケースにおいて選択肢は大まかに2つである。労道を否定し、普通の労働形態に戻すこと。逆に労道を肯定し、再び労働者が有意義な仕事をしていると信じられるようになること。L.starはここでこの2つの両方をミックスすることを提案したい。現在の、ぐちゃぐちゃになった労働階級を再編し、完全に2つに分けることである。それは「労働者」と「労道者」だ。

「労道者」は、それこそ過労死するほど働くジャパニーズビジネスマンの再来である。あるいは欧米のエグゼクティブといっていいだろう。仕事量は無限大。常に過酷なチャレンジ。それをやりがいをもってこなし続けることが求められる。もちろん報酬も高額であるべきだし、無能ならびしばし切られて当たり前。それに対して「労働者」はただの人。たいして刺激がない内容の仕事で、普通に働き普通に休み(ここでの普通は日本の普通ではない。欧州とかの、平然と2週間の夏のバカンスを取るような「普通」である)、ほどほどの報酬を手にする。パレートの法則によるなら、この配分率は20:80になるだろう。仕事量が「労道者」で報酬とやりがいが「労働者」の「社畜」はもう認められない。その逆の「給料泥棒」もだ。

このためにどのような「改革」が必要になるかというのは、あえて語る必要はないだろう。封建的な下請け制度、解雇規制の撤廃、有給消化の徹底、サービス残業などの過酷な労働条件の廃止。むしろ「労働三法を遵守しよう」はルターの「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。」という言葉とだぶって聞こえる。法律は聖書ではないから変えることはできる。でも現状をそのまま明文化することはできまい。このあたりは改革派の意図する「社畜」追放に関して、ひとまずの突破点となるだろう。

もう一方の「やりがい」のほうは難しい。しかし試みとしては現れてきているようだ。例えばカンブリア宮殿で紹介されていた株式会社21だが、ここの会社システムは実にユニークであるようだ。株式会社21の実態は知らないので詳細なコメントは控えるが、それに近いルールを採用していたソフトハウスに勤務していたことがある。いろいろ問題を抱えつつも、そのシステム自体は評価に値するものであったと思うし、自分がもし同様の企業をするなら、あのシステムは参考にするだろう。このような新しい「やりがい」のために作られたシステムなら、昭和的な大企業よりずっと良く動作するだろう。それが動作し、金を集め、人を動かせるようになることが何よりの改革である。

また、このような外部からの「宗教改革」が発生するなら、「対抗宗教改革」も同様に期待できるであろう。日本の大企業は確かに苦しんでいるが、曲がりなりにも競争を生き抜いた産物であり、やわではない。何処かの段階で誰かが気づいて、やりがいを再興することは十分考えられることである。ただし、再興できない、あるいはやるつもりはないという企業は消えるべきであり、むしろ積極的に消すことを支援すべきである。

と言うわけで今回は「宗教改革」に範を得て日本の企業ナショナリズムの再興について考察した。読んで分かるように独創的でない。それは、改革が現在進行中で、十分に議論されてきていて、しかも成果まで現れつつあるからだ。そういう意味でも非常に現実的な、というか全く妥当な選択肢だったといえるだろう。しかしナショナリズムの観点から一番重要なのは何かというと、そのために必死で頑張りたくなるような「やりがい」の創出だろう、ということを述べたかった。若者が喜んで自発的に働く社会ができれば、日本は必ずや大回復を遂げるだろう。長い道のりだ。

日本のナ ショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説


は個人的な追求の結果として書いたものだが、それに対する反響として「じゃあ日本の新しいネイションとは何ですか」という新たな問いが発生する。「ネイション」が決定するのは勢力争いの結果であり、それを予測するのは大変困難を極める。それゆえ、喪失したことを指摘するのと、その次は何かを予測するのには、きわめて大きな溝がある。しかし当然、最初にこの仮説を出した以上、そこに踏み込まざるを得ない。実際それに苦しみつついろいろ草稿をしたためたりしていたのだが、実際にいくつか自分なりに積み上がったものができてきたので、一つ一つ時間を設けて書き記してみたい。

まずは一番簡単な、民族(=国家=日本宗教)がナショナリズムの勝者となるケースである。L.starが「鎖国派」と称するものであるが、今回はそれを肯定的にとらえ、それが有効になるような状況を仮定して、どういう社会になるべきか、その一端を考えたい。

日本民族と国土が再びナショナリズムの中心になる、という場合、他国との関わりを最小化する方向に当然向かうだろう。しかし中国が、ロシアが、アメリカがEUが健在な間は、日本を放っておかない。最小化することが最適解になるのは、個人的には「大国が全部崩壊した」ケースになるだろうと考える。つまり「暗黒時代の到来」である。アメリカ帝国が崩壊すると同時に近代西洋社会はついに終焉を迎え、その礎であった世界規模経済に支えられていた文明も崩壊する。技術も文化も多数が失われるのは間違いない。そのような状態においては、グローバリズムに背を向けることは正解である。

その点「中国が脅威だから」というのは鎖国の理由にならないだろう。本当に強ければ日本を踏みつぶすだけだから。そのようなときに世界規模経済という現在最強の武器を手放すのは愚行である。むしろ中国が弱いときこそ、本当の意味の 鎖国と向き合うことになる。崩壊の確率算定はL.starの手には当然余る・・・しかし0ではないだろう。むしろ20%はあるのではないかと感じている。もちろんすぐではない。

そのような時に日本を残すための「鎖国」いやここはあえて「ネオ鎖国」と呼ぶが、世界規模経済に依存できない以上、日本で手に入る限られたリソース中心で成立する社会である必要がある。閉じた社会であるため、長期的に存続するためには当然低成長であるべきである。環境保護主義、つまり「エコ」なのだ。高効率低成長超エコ社会というとこれは当然江戸時代が思い浮かぶが、現代の技術で江戸時代を再現することこそが「ネオ鎖国」である。地球温暖化に疑問を抱く必要など無い。自分たちが生きられるだけの高効率を得られるかどうかは最重要課題になり、寒冷化していようがCO2がどうかなど、一切関係なくなる。人口は当然科学技術がどれだけのアシストができるかに掛かっているが、もちろん江戸時代の4000万はクリアする。しかし1億2000万はまず無理だろう。7-8000万が妥当な数字であろうか。産児制限のようなものは当然行われるであろう。

社会そのものは当然管理社会的になる。効率を維持するための監視社会になり、プライバシーに関する考えも今とずいぶん異なる形になるだろう。適正配分のためには政府の権力は強化され、下手をすると配給制にまでなりうる。身分制度などは分からない。封建主義的な固定身分制度も有効だろうし、社会主義的平等が実現できるなら、ベーシックインカムのような強力なセーフティネットによって後押しするだろう。

しかし個人的に疑問なのは、このような社会がいったいどのようなナショナリズムを持ちうると言うのか、である。しばしばSFで描かれる近未来の管理社会は、たいていの場合効率を重視しすぎて味気ない社会であり、あまりうれしいようなものに思われない。漠然と楽しく生きた江戸時代は、素晴らしい社会となったのは確かだろうが、その後の西洋との戦いの第一ステージは惨敗も良いところであった。まあもちろんそれもいいのだが、しかし一つ提唱したいものがある。タイトルでぴんと来た人にはもう分かっているだろう。「世界規模経済社会の復興」である。

このアイデアの軸になったのは「ファウンデーション(アイザック・アシモフ)」である。だからタイトルは日本をターミナスに見立て、(第一)ファウンデーションにする。そして科学技術や歴史と言った過去に伝えるべき要素を守る役目を担わせ、また復興の基点にしよう、ということだ。この点、大陸辺境部にあり資源に乏しい日本は、ターミナスと見事一致している。そして実際に鎖国経験の歴史を持つ文化になら、まさに適任だろう。当然「第一」とわざわざ銘打っているだけに、「第二」の方は、帝国として成り立つときに必要なものであるし、正直それに類するものの考察すら不可能な存在であるからして、考慮外とするしかない。

まとめると、「ネオ鎖国」が妥当になるケースは世界秩序が崩壊に向かうときであり、その方法をとるに当たって重要なのは「高効率」「低成長」「環境保護主義」といった要素である。ファウンデーションが必要な状況にまでならなくとも、世界に動きが少なく、全体的に閉鎖気味になり、その小康状態で長期間安定するようなケースでは相性は良いであろう。そのような状況になりうるかどうかはよくわからない。個人的にはあってほしくない、避けるべき未来であると思う。

最後に、世界が崩壊しなくても同様に鎖国にならざるを得ないケースが一つあることを指摘しておきたい。それは世界経済が拡大して、単一ネイションが完全に世界全体を覆ってしまうときである。このときには地球全体が鎖国であることを余儀なくされ、しかも確実に周りに交易相手は居ないのだ。主に地球温暖化と切り離してエコの必要性を論じている人の多くは、このような状態に将来行き着くことを認識して発言していることが多い。今崩壊しても、今後成長しきってもどっちにしても問題に直面するのなら、エコを推進することは正しい帰結だろう。

BLOGOS参加記念として、久々に一つあげてみようと思う。といってもL.starは緻密なデータを元に何かを明らかにするような能力には明らかに欠けているし、学術的に理論を積み上げるような人でもない。そこでやはり、ここは自分の経験に基づいたものにしてみようかと思う。また現在日本人のアイデンティティはどうあるべきか、というのを個人的に追求している。だから、自分におけるアイデンティティの形成と言う視点から語ってみたい。

そのアイデンティティというのは、開かれた日本に対する信頼である。閉じた国の中で自分たちの平安を追求するのではなく、開いた世界の中で戦い苦しみ、その中で如何に良い世界を形作るか、ということの素晴らしさと言うことだ。正直に言うが、これは半端無く大変である。誰かに言われるまでもなく、自分の中の悪魔(いや、本当は天使かもしれない)が「もういい加減十分戦ったよ。休もうよ」というシグナルを何度も発してくる。それに破れたことも一度や二度ではない。それでも開かれた日本を信じ、それに沿うように自分を動かそうと頑張っている。残念なことに、結果はまだ伴っているとは言い難い。

しかし、かつてL.starはまあそれほど熱心ではないといえ嫌韓だったし、ネトウヨと同様の思考回路を有していた。ところが今は彼らとコメント欄で言い争いをするような状態である。客観的に見ても、2008/11には「日本人よ、オランダを真似るな」などという題でオランダの政策を日本に導入することに否定的なことを言っておきながら、2009/8には「オランダに住んでいるからこそ思 う、外国人参政権論を考えてみた」で、オランダにある程度感化された発言をしている。いったいどこで、何がきっかけで閉じられた世界から開かれた世界へ移行しようと思ったのか?と考えた。

しかし正直、特別なものは何も出てこない。

  • 自分のルーツと異なる文化を目で見て学ぶ機会に恵まれたこと

  • そんな文化圏に生きる人々とその生活に触れる機会に恵まれたこと

  • その異なる文化圏の中に統合されている日本を見つけたこと


上の2つは日本でも体験できる。L.starはそもそも関西人で東京に引っ越してきたが、これだけでも小さくない違いをいくつも見つけることができた。最後のにしても、関東で見かける関西の文化圏というのも、若干ながらあるわけで、そういうところから見つけることができただろう。もちろん、日本とオランダは、東京と神戸より遙かに大きな違いを有しているが故わかりやすい。メリットと言えばこれだけである。

具体的にそこからどんなことを見つけられたか、と言うのも見ていこう。オランダの文化と日本の文化は、もちろん重なる部分もある(それは日本とオランダの共通点って何だろうで考察した)が、異なる部分も非常にたくさんある。そういう異なる文化圏を、その文化に対する偏見のない目で俯瞰的に見つめることができたことはやはり大きい。そして、旅行を通じて多数の文化に同時多発的に触れることにより、比較考量することができる。そうして比較していくことで、どの文化も「その文化の視点から見れば」おおむね完璧である、という一つの事実に気づいた。これは日本も例外ではない。

例えば「オランダ料 理がなぜまずいか、君は考えたことがあるか」で、オランダにおける食文化を考察しているが、これは特にベルギー、イギリスとの比較から思いついたものであるが、オランダ文化が個別に完璧であるという前提に立っている。そのような視点を持てることが、自分の、ひいては日本のありようというのを再確認できる結果に結びついた。逆に言うと日本人が「日本文化はシンプルだ」と思っているのは、自分たちの考えにマッチするからであるところが大きい。その偏見を捨てて、公平な視点を獲得しない限り、本当の日本は見えてこない。

しかしこれだけは断言しておきたいが、その視点に立って見える日本はなかなかいいものである。L.starが日本人の考え方から脱却できていないということをさっ引いても、日本は実にユニークで、高度で、発信するに値する魅力のあるものに満ちあふれていることがよく分かる。だから、ガラパゴスであることは、決して悪いことだけではない。そういった魅力的な部分は、すでに欧米では取り込まれはじめたり、現地文化に溶け込んでいたりする。

でも良いことばかりでもない。極端な例で示すと、SUSHIやSYABUSYABUはみんな大好きで、でもNATTOは微妙で、KAROSHIは間違いなく嫌い。それを見定めるためにも、お互いをきっちり理解していく必要がある。日本人は文化を相手に伝えるのが下手だ、と言う意見はよく聞くが、その理由として「相手の文化をよく知らないから」と言うのは大きいだろう。我々もまた、同様に相手の文化から学ぶことができる。

これらを一気にまとめて言うと「一歩下がって、全体を見れば日本の良さを再確認できる」とでも言うべきだろうか。その再確認できた良さは、相手を認めることによって発生するものであるから、何も否定する必要はない。だからこそ、自分自身が日本を改めて信じる原動力になっている。二種類の日本人でもオランダ人が日本人をどう思っているかと言うことについて書いたが、日本が強かったときには、相手の良いところを堂々と取り入れることができたのだ。また、堂々と彼らのニーズを見つけ、それにふさわしいものを多数売ることができたのだ。

じゃあ何がいったいその「再確認できた良さ」なのか、と言うことについては、又折りにふれて語ってみたい。

KoshianX氏からの推薦で、このたびライブドアのBLOGOSに参加することになりました。参加メディア200ぐらいですが錚々たる顔ぶれで、下手をすると一日数万PVを稼ぎ出すようなのも。どう見てもこんな年間数万PVの弱小ブログ(歴史は長いですが)が参加して良いようなところには思えないんですけどね。オピニオン系の記事も、書き出して1年ちょっとにしかなりませんし。まあ、氏からの推薦がなければ絶対載らなかったと思います。

ちょっと意外な展開です。しかし、これを機にいっそう文章に磨きをかけようと思います。今後とも独り言v6をよろしくお願いします。

ちょっとご無沙汰になってしまった。本当はいくつか没になったエントリがあるので書いてないわけではないんだけど、今回は最近気づいたちょっとした小ネタを。

去る3月3日、オランダでは市議会選挙があって、現連立与党のトップであるキリスト教民主同盟が惨敗するなど、大きな変化があった。そして崩壊した政権再編のための議会選挙が来る6月9日にある。結果や情勢はさておき、どっちも水曜日であることは実に興味深い。国によっては選挙日はわざわざ休日になったりさえする。ご存じの通り、日本は日曜日と決まっている。

選挙権はないのでしたわけじゃないのだが、これはなかなか斬新な経験であった。L.starを含む日本人にとって選挙は「一般人の仕事のない」日曜日にするのが当然である。しかし選挙管理人なども仕事なのだから、彼らとてわざわざ休みに労働しなければいけないわけだ。一部の観光地などや職種によって例外は多いが「日曜日は休み」が原則のキリスト教国では、なるほど日曜日にやらないのも当然である。

日本が投票日を日曜日にしているのは無意識に「選挙より仕事が大切」と思っているから、というのはうがちすぎだろうか。しかしわざわざ自分の休みを削ってまで投票しろ、というのであれば、そりゃ投票率も下がる、とも思うのである。もちろん公職選挙法の改正などを筆頭として、選挙の改革しなければならないことは山積みであり、こんなのは氷山の一角に過ぎない。しかし、こんな一見当たり前のところにも考えるべきことはあるのではないだろうか。

選挙は苦労しがいがあるはずだという正論はある。しかし馬鹿な計算をするなら、有権者(約1億人)のうち50%が投票するとし、かれらの 手間を平均5分削減すればそれは二億五千万人分であり、約5700人月に なる。仮にこれだけ時間を削減できるとして、国民に浪費させる根拠になるほどの正論だろうか。正論に対して本音を言うなら、誰だって楽したいのである。それじゃあ、せっかくの休みは個人のためにとっておいて、選挙は平日に実施しようじゃないですか。それに正論で対抗するなら、もちろん個人の仕事よりも、国政のほうが大事ですよね?

だからちょっと想像してみてはどうだろうか。日曜日以外に選挙がある日本を。もしも出勤のついでに駅で、あるいは会社で、主婦の方々 向けに はショッピングセンターの一角で投票できたら、ずいぶんと投票が楽になって投票率も上がるのではないだろうか。個人的には、他にもいろいろと投票の手間暇 を削減できそうなアイデアが出てくると思うのだが。

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