2010年02月

嫁によると。L.starがオランダに来て割とすぐに「こんな快適な通勤してたら、日本に戻ったら耐えられない!」といっていたそうである。考えれば日本では電車通勤だとあの地獄の田園都市線を経験したり自動車通勤でも環七の渋滞に引っかかったりで、あまりいい経験がない気がする。とはいえ、そもそもオランダが快適だったのは職住近接になってしまったこと、あと都市周辺部に勤務先があるからなんですけどね。オランダだから常に楽か、と言うとそういうわけでもなくて、まあうちの同僚なんかでも地獄の渋滞をくぐり抜けてたりするわけですけど。

じゃあオランダと日本比べてどうなの?と言う話ですが、今日実際に世界の通勤時間比較結果が公表されているのを以下で知ったわけです。

世界の通勤時間比較(ポートフォリオ・ニュース)


同じデータがEconomistにもでていたのでこれが2009年の8-9月のデータだと言うことが分かりますが、こちらは離職理由として通勤時間をあげる率まで含めて掲載されています。オランダは実に平均28分、また離職理由としても唯一の一桁台と低く実に優等生なのがわかります。一番時間がかかっているのは中国でしかしそれでも42分。離職理由としてトップなのが中国と南アフリカの32%。通勤時間が一番長い中国が一番高いのはわからないでもないんですが、南アフリカは通勤時間のほうが28分でオランダと同じなのにずいぶん高いですよね。この辺は謎です。南アフリカの人には移動したくない理由でもあるんでしょうか。しかし、中国インド以外は、通勤時間の長さと退職理由に相関は見られません。あとはUSとカナダが2トップで通勤時間が短く、北米が実にうらやましい大陸であることが分かります。

しかし残念ながら日本の数字はありません。ここでL.star的にはJRの最寄り駅から徒歩15分のところに長くすんでいた経験から電車に乗ってから25分でつくとかありえないし、また数回の退職もすべて通勤時間とは関係ないので、退職理由としては少ないだろう、と考えられます。この妄想を裏付ける日本についてのデータはいくつか見つかります。ただ、別調査なので当然簡単に比べるわけにはいきませんが、どうせブログなので気楽に比べていいでしょう。離職理由は厚生労働省が調査をしています。

第6回21世紀成年者縦断調査(国民の生活に関する継続調査)結果の概況 より、5 仕 事をやめた者の退職理由


これによると通勤時間を理由とする退職は最大でも9%というところで、オランダと同じかそれより低いぐらいです。まあL.starの予想がずばり当たった・・・わけではもちろんなく、そもそも離職率の低く、年功序列終身雇用という幻想があって、長期勤務傾向の強い日本では、通勤がつらいからといってそうそうやめたりはしない、ということなのでしょう。しかし離職理由の2桁台のものはもっと深刻な理由が多いですねぇ・・・

おっと、今まで非正規だった男性は、正規だった人に比べて退職理由に通勤時間が少なく、1-4%ですね。通勤時間の長い日本では非正規労働を増やすべきだ、という理由がここに一つ見つかりました。しかしそういう人たちに特有の理由は「新しい仕事がみつかったから」「一時的・不安定な仕事だったから」「契約期間が満了したから」などと、身も蓋もない理由が多いですね。ところでこの「新しい仕事がみつかったから」退職したのに「仕事なし」と分類されている人は何なんでしょうか。せっかく新しい会社を見つけたのに肌に合わなかったのでしょうか。なんか哀愁を感じる数字です。

それから、

1日の平均通勤時間はどれくらい? 理想は34分、現実は……


にあげられている結果によると「60分」となっています。まあ一時は2時間通勤もしたこともあるL.starとしてはそんなに短いはずはない!と思わなくもないんですが妥当な感じではないでしょうか。ちなみに、どちらの調査も片道なので、オランダと日本では平均して1日1時間の差があることにあることに注意してください。日本はつまり、仕事・趣味・家庭や健康のために使える時間を、1人あたり1時間、1000万人で言うと1000万時間、つまり6万2500人月(一日8時間、月20日計算)も通勤時間のために無駄にしていることになるわけです。何という無駄遣いだろうか!こんなことだから日本は世界に置いてきぼりなのだ!ガラバゴス日本は、今すぐ通勤時間短縮の手を打たないと終わりなのだ!がしゃんがしゃん!(窓ガラスを割る音

・・・おっと取り乱してしまいました。実は上記の数字は首都圏のみを対象としているとか、持ち家のある人だけだとかいろいろ偏っているのが明らかなので、今回の数字とは必ずしも比較できません。例えば米国でも、ニューヨークやサンフランシスコにすんでいる人は平均23分なんてことはなくてよりももっと過酷な通勤を経験しているでしょうから、これをもって米国よりずっと悲惨だ、と言うのは間違いです。

それに通勤時間自体は、実際にはそれ自体を有意義に使っている人も珍しくないんですよね。その時間をいかに有意義にするか知恵を絞っている人もたくさんいるわけです。本を読んで勉強する人、音楽や漫画でリラックスする人、プログラム書いたり仕事する人、カーレースを楽しんだり彼女といちゃつく人(実物はご遠慮ください)、あげく化粧する人までいます。乗務員やスリに至っては就業時間そのものです(※スリは犯罪です)だから、この時間差も、どれだけ通勤時間が有意義に使われているかが問題になるでしょう。仮にこの数字を信じて日本の通勤時間がずいぶん長いとしても、日本人がそれを有意義に使えるなら、むしろ逆転することすら可能です。だから皆さん、いかに通勤時間を有意義にするか考えましょう。本や新聞を読めば知能が高くなり、化粧時間が長くなれば女性がきれいになり、スリの人の稼ぎが増えれば、経済が活性化します(※繰り返しますがスリは犯罪です)

しかし現実には通勤時間はストレスもつきものです。満員電車に揺られて押しくらまんじゅうは、ほとんどの人にとってつらいものです。せいぜい喜ぶのは満員電車をトレーニングの題材として使う人か、痴漢かスリぐらいです(※痴漢もそうですが、スリは犯罪です)ですから是非緩和していただきたいものだと思うのですが、ところがここ数年はフレックスタイム制度が廃止されているのが増えているそうです。例えば以下のURLでもそれについてデータを示しつつ賛否両論が入り乱れています。

フレックスタイム制度廃止に賛否☆大激論


しかし、個人的に思うのはこうやってみんなが9時に出勤する状態に戻ると、さらに朝の通勤ラッシュが集中して混雑するのではないでしょうか。ただし、夜は退勤時間がまちまちなので事情が異なります。いつも終電まで残る人は残業時間が増えてラッキーかもしれませんが。実際東京の朝9時のラッシュを毎日耐えるのは苦行で、それも年を追ってひどくなっていったような気すらします。そうやってどんどん負荷を集中させていくと、結局さらに混雑して有意義に使うべき時間がどんどん窮屈になって、日本の未来もどんどん暗くなってしまいます。一社のボトルネックを解消しようとするあまり、日本全体に通勤ラッシュという別のボトルネックを作り出してしまっているのです。つまり日本はフレックスを廃止するせいでだめになる!老害が自分たちの過去の栄光にすがっているせいで!こんな日本は駄目だ、打倒大企業!がしゃんがしゃん!(家電量販店で液晶テレビをたたき割る音)

・・・おっと又取り乱してしまいました。こうついつい自分の妄想で事実を次々と的中させてきたL.starも、こういう大企業叩きの内容になると熱がこもってしまいます。では実際のデータでこれを確認しましょう。まずフレックスタイム制の導入率は以下です。

平成19年版  労働経済の分析 ―ワークライフバランスと雇用システム―


そして、混雑率のほうは以下の通り。

三大都市圏の最混雑区間における平均混雑率・輸送力・輸送人員の推移(PDF注意)


残念ながら両者とも平成19~20年度までしかありませんが、それなりの相関が・・・あれ?東京は最近横ばい。大阪名古屋に至っては明らかに減少傾向です。たしかにフレックス制度が伸びた時期と、混雑率が大きく減少した時期はある程度一致していますが、それ以上はみられません。妄想で語ってもなかなかデータはついてきません。例えばひどい話ですが、集中する時間帯に人が流れ込んできても、それ以上に失業者が増えれば相殺されてしまいます。もっともリーマンショック以降のデータはここにはないので、そこを見ると傾向が又変わるのでしょう。しかしそれにしても大阪はずいぶん落ち込んでいて、混雑率も低いレベルになっています。通勤時間を有意義に使うためには、大都市でも混雑していない、大阪で仕事をするのがよさそうです。

まとめ



  • オランダは通勤時間については幸せそうな国ですが、短くても南アフリカでは不幸せです。

  • 特に男性は非正規労働者が増えると、通勤時間に不満で退職しなくなります。

  • せっかく仕事を見つけても、すぐ退職する人もいます。

  • 通勤時間を有意義に使うべきです。ただし、そのためにフレックスタイム廃止に反対するのは微妙です。

  • 大阪はいいところです。そしてお好み焼きは炭水化物だけじゃなくてキャベツと肉も入っていますから、お好み焼き定食はありです。

  • スリは犯罪です。


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今回は反社会学講座で敬愛するパオロ・マッツァリーノ氏の軽妙なタッチを借りて、やや口語文に近いコミカルな文章に挑戦してみました。個人的には彼が「つっこみ力」で指摘するとおり、笑いを交えた文章こそが万人に通用するメッセージにたり得る、という考えがあって、最近の堅い重厚なタッチだけではない文章に挑戦したい、と言うのはありました。まあギャグが寒い、とはよく言われるのでやぶ蛇かもしれませんけどね。またタイトルはマスメディアを殺 せば日本は圧倒的に独り勝ちするあたりからぱくってみました。
カーレースを楽し

前回

kumofsをベース にRDBMS用ストレージエンジンって作れないものか


にて仕様上「不定」と書いているところに意地悪な突っ込みをしたら作者からtweetが飛んできた。

frsyuki 後で書きたい。いつか書く。Set/Get操作の意味論はオリジナルではなく レプリカの整合性の問題だという話。MySQLとの比較で整理が必要かも。RT @L_star: kumofsをベースにRDBMS用ストレージエンジンって作れないものか

とまあこんな感じ。一応軽く調べてみたので補足するとストレージレベル、Tokyo Cabinetは一応トランザクションまでサポートしているし、WALとShadow pagingを備える、とあるためこのレベルでRDBMSクラスの持続性はほぼ維持できていると言ってよい。kumofsはデータ書くと言ってもディスクより下位層ぐらいまでいくともうTCお任せなので、ここが問題になるわけではなさそうだ。これはまず一安心である。setに失敗したからと言ってデータが壊れるわけではない。

なので以上2つを真に受けると、setが失敗して値が不定になるというのは「オリジナルにデータが書き込まれたが、レプリカには完全に書き込まれていない状態」になりうるのを示唆しているようだ。

ソースを見たところも、ここに何かおもしろい小細工があるわけではなく、単にレプリカにデータを書き込ませつつ自身にもデータを書いているだけのようだ。一応書き込みは非同期か同期かできるようなので、同期にしておけば信頼性はある程度高かろう。

逆のGetも同様にたいしたことはしていない。単にキャッシュ見て、あればそっちを返し、無ければ読み込んで返す。なのでどのレプリカに問い合わせているかどうかだけが問題のようだ。

と言うわけでレプリカの整合性の問題ということだそうだ。この種のクラウドシステム使う時点でその辺まで厳密に要求するな、と言われるとその通りである:)

まだ自分でインストールして確かめていないが、kumofsに興味津々である。何が興味深いかというと、まあスケーラブルで且つ耐障害性に優れるところだ。もちろんそれだけなら分散KVSということである程度予想された機能である。個人的な興味としては「この種のKVSを使ってRDBMSもどきが作れないか」というところにある。

この構想は

超 並列RDBMSは成立するか – L.star的デザイン(1)


でずいぶん前から暖めているものであるが、ここでいうリソースノードをkumofsで代用できないかというものだ。引用して、機能的な実装の必要でないものを除くと
リソースノード

  • storage engineである

  • DDL的には、テーブルスペースに近い位置づけとして定義可能であると考えている。

  • sequential scan, index scan, seq scan+sortを行い、その結果を返すDBである。MVCCを持つが、基本XIDを自前で持たない。

  • (たぶん64bitの)論理rowidを全てのtupleに持たせ、これが常に主キーとなる。clustered indexでいいかもしれない。

  • rowidベースのパーティショニングを備える

  • ノード数を増やし、sortのコストを分散することでクエリの高速化を実現する



論理rowidによるindex scanを実行可能なのは明らかで、パーティショニングも自動でやってくれるので、他の部分が焦点になる。

一番やっかいなのはSequential Scanだろう。例えばtableid,rowidというキーを作ってループで流すことは可能である(最大テーブルサイズは管理用キーに置くべき?)が、あまりやりたくないようにも思える。どのみちmemcachedプロトコルでちんたら1件づつ取得をやっていると泣けるので、拡張するなりMessagePackかなにかで直接たたけるように抜け道用意したりして、複数件を同時に取得できるようにすべきだろう。しかし、元がhashなため効率が若干悪いだろう。それを補うだけの性能をノード増でたたき出せるか?

次はindex scanだが、これはあっさりとなにがしかのTree系アルゴリズムを実装できるだろう。何となればtableid,indexid,nodeidという3組のキーを突っ込んで、値はkey-child nodeペア等々の組にしておけばいい。どのアルゴリズムが有効なのかは悩む。

Sortは・・・index scanならともかく、当然自前実装しかない。各kumo-server内で取得したデータを可能な限りオンメモリソートできるなら分散になるだろうが、現実の性能面ではどうなんだろうか。

あと最大の問題はkumofsドキュメントによると
Set(key, value) keyとvalueのペアを保存します。1つのkey-valueペアは合計3台のサーバーにコピーされます。 Set操作が失敗すると(ネットワーク障害などの理由で)、そのkeyに対応するvalueは不定になります。そのkeyは再度Setするか、 Deleteするか、Getしないようにしてください。

value = Get(key) keyに対応するvalueを取得します。 Set中にGetした場合に古いvalueが取得されるか新しいvalueが取得されるかは不定ですが、新旧が混ざったvalueにはなることはありませ ん。

(強調筆者)などという、データの完全性必須な人から見ると寝言としか思えない仕様が書かれている。トランザクションのACIDのうち、A-原子性とD-持続性はこの時点で期待できない。Iは自前実装である。しかし当面はそもそも2pc対応していないためにどのみちトランザクション対応のRDBMSストレージエンジンにはできないのでそもそも問題にはならない(まて

となると、インターフェース的に足りない機能、あった方が便利な機能としては以下か。

  • values=Get(key,...) に相当する機能。シーケンシャルスキャン実現に有利

  • values=SortedGet(sortfunc,key,...)に相当するデータをソートしてから取り出す機能。ソートスキャン用に有利

  • Setのatomic化。まじめなデータを管理するには必須。

  • GetとSet競合時のGetの動作の安定化。MVCCを実現するためにはないと泣ける。

  • 2PC。


まあ今日は軽くブレストぐらいの感じでblogを書いたけれども、もうちょっと詰めてみると案外おもしろいのかもしれない。

(今後続くかも)

昨日は「ネイション」の話をしたが、それに関連する話を一つ。これは又聞きだったかコピペだったか記憶にない。ある日本人がある書類に「宗教:なし」と書いたところアナーキストと勘違いされて一時騒然となった、という話を聞いたことがある。欧米ではなにがしかの信仰を持っているのが当たり前であり、持たないのは異分子なのである。それでテロリストか何かとの疑いをもたれたらしい。

当時はまだ日本にいたが、なるほど確かに自分でもそう書きそうになる、と思った。実態はどうだろうか。「なし」と書きたくなる日本人の大半は、いかなる意味においてもアナーキストではない。ゆえになにがしかの宗教を書いてもいいのだろう。今L.starは英文として正しいかどうかはさておき"My religion is a hybrid of Shintoism and Buddhism."と答えている。仏教と神道のあいのこ、である。あとはそれが典型的な日本人のスタイルだ、と言っておけばいい。幸い典型的なカトリックもプロテスタントも、日本人が神道や仏教に抱く程度にしか宗教をまじめに考えていない。ミサはクリスマスにしか行かない。謝肉祭から復活祭までの断食もまじめにしたりしない。盆と正月と冠婚葬祭以外でまじめに考えない日本人そっくりである。まだイスラム教のラマダンの方がまじめである(といっても彼らが断食するのは日中だけで、日没とともに暴食開始らしいが)

この誤解がおこるのは、結局のところ日本人は民族と宗教の区別をする必要がなかったからである。日本人以外に日本固有の宗教を信仰している人はほぼ誰もいず(アムステルダムにはオランダ人の神主がいて神社もあるが、それは例外中の例外である)、ごく少数の他の宗教の信仰者以外はその区別をする必要がないのである。実際例えば初詣を考えると、これは100%神道の行事のはずなのだが日本人の行事のように思われる。もう一つは国教としての神道が敗戦により否定されたことであろう。当時なら自分たちの信じているものを「神道」と堂々と呼べたであろう。地理的状況や仏教や儒教が定着する過程なども、もちろんこの状態を後押ししただろう。

これがヨーロッパだとキリスト教国家は複数あるため、切り出しが可能である。また他の宗教との軋轢も経験している。だから彼らから見るとこの2つが別物なのは自明である。世界的に見たらこの2つは切り離して考えないといけない。

区別がつけられないのは民族と宗教だけでなく国家と文化も区別がつけられない。民族と国家と文化圏がほぼ一致するというのはレアケースであり、たいていはどれかが小さかったり大きかったりするものである。それは貴重なものだと主張することは可能だ。しかし、それは正しく物事を理解しないことの免罪符ではない。むしろきちんと区別をつけて理解することこそ、正しい理解のありようを学べるのではなかろうか。

ヨーロッパ人はうまみと他の味の区別をつけられないが、日本人は民族と宗教の区別をつけられない。違いとは、意外なところにあるものである。だからこそ異文化との交流はおもしろいものである。

個人的に、どうも話が合わない、と思うことは多々ある。

外国人 参政権なんかよりずっと重要な話をしないか – あなたは開国派?それとも鎖国派?


において、論点を2つに分けて議論をすればいい、と考えたが、合意点がそれなりにあるのに不思議と大きな壁を感じる。議論をする姿勢のない人ともそうだが、まじめな人にも似たものが感じられるのだ。まるで違い宗教を信仰していて、お互いに聖典についての終わりない罵声の投げつけあいをやっているかのよう。彼らとL.starの間には、どっちが悪いか、ということを抜きにしてきわめて大きい壁が広がっていると言っていいのではなかろうか。それを果たして議論のベースにして正しかったのか?という考えがある。

また「日本とオランダの違い」を列挙するに当たり「もし日本の外国人参政権問題とオランダのイスラム教徒問題を同じに扱う場合、それは何を持ってくくれるのか」という逆説的な問いが頭の中に思い浮かんだ。実はこの2つに共通しそうな概念が一つ思い浮かんだ。

ナショナリズム。

L.starが毎度のように使うマクニールの「世界史」では、今の欧州と中東の問題を「宗教的ナショナリズム」という単語で説明している。ナショナリズムとは「ネイション」という曰く説明しがたいが民族のようなものを中心に、エネルギーやリソースの集約的な利用を可能にしている何かである。そこで考えたのがネトウヨさんたちは「民族的ナショナリズム」に退行しているのではないのか、ということだ。退行?しかし何から?退行と言うからには、日本には民族的でないナショナリズムが存在していたことになる。

その問いに答えるために、ここから「ナショナリズム」という単語を拡大解釈して歴史をひもとき、L.starの一つの独自解釈を述べたい。独自解釈なので用語等のぶれがひどかったり、既存の用法と異なっている可能性が高いが容赦されたい。どのみちまだ近似値的なものであり、具体的に定量化されて示されているものではない。

かつて日本が一枚岩だった、そしてその幻想が失われつつある、いうことはあちこちで言われて久しく、改めて示す必要はないだろう。しかしその一枚岩とは何だっただろうというので、以下のようなものが思い浮かんだ。

  • マスコニュニケーションによるブロードキャスト化した議論

  • 親米資本主義

  • 大企業中心の年功序列終身雇用


一番上は典型的な国民国家の戦略であるからのぞくとして、しかし2番目と3番目も大企業中心と資本主義は相反しない類似した概念といえなくもない。そこで独自研究だが、戦後日本は「民族ナショナリズムによる国民国家である戦前から国民国家である部分を、大企業と官僚がそのまま継承した」というのをぶちまけてみたい。誰か同じ言説をしている人がいるといいのだが。しかしこれによって、大企業が日本で果たしてきた役割の多くを解釈可能なのではないかと思う。出世システムと社会的地位の一致、会社への強い服従の要求、そして転職の少ない新卒採用終身雇用などである。またマスコミや政府に対して大企業が強い支配/発言力を持っているといわれるのも、このような社会形態であれば全く納得のいく話である。

しかし大企業が日本の「ネイション」であったとするならば、それがやはり崩壊の危機に瀕しているのもまた事実なのではなかろうか。企業が「ネイション」であったかどうかはともかく、大企業が従前の能力を果たせなくなったことはわざわざL.starが指摘するまでもなくいくつかそういう説があるし、納得できる部分が多かろう。そこで大企業に代わるネイションを、と考えると

  • 大企業:経済面から精神面までをカバー、国際化しており世界中に存在。

  • 言語:日本国土以上の発展は望めない。

  • 領土:海洋国家であるため国境はほぼ不変。一部の島の領有権問題ぐらい。

  • 民族:日本民族はこれ以上の規模発展は望むべくもない。○○系日本人として増やせるのは移民程度。

  • 宗教:神道は日本民族以外に信者なし。仏教国は連携があまりない。

  • 文化:寿司・アニメ等を中心に現在拡大中。


となり、企業より明確に広いネイションを提示することができない。ここで欧米や中東では国家より民族や宗教が大きいケースがあるため、それらが受け皿になるのだ。しかし日本にはそれがないのが状況を難しくしている。文明は拡大するか崩壊するか停滞するかの3種類かしかありえないため、拡大が難しいということは停滞か崩壊か、ということになるからだ。通常勝者になるのは現在の状況にもっとも合理的な説明をできるものであり、現在のネイションに納得できない人がなにかを発見して新しい支持基盤に移動する、というのはすでに多数起こっており、それによって多数の少数派が生じている。以下にL.starが認識している例を挙げよう。

資本主義のありように疑問を感じた人たち


かつての新左翼である。彼らは60-70年代に安保運動を通じて活躍したが、結局多数派となってネイションを確立するまでの大きさを維持することはできなかった。今となっては、ソ連崩壊もあって共産主義はネイションたり得ないだろうと思う。

民族主義と宗教に再び関心を寄せた人たち


L.starは嫌韓ネトウヨをこのカテゴリーに入れているし、そういう意味で過去の自分がこのカテゴリーに属していたことを認める。彼らはマスコミや左翼の報道、隣国のありよう(反日)に疑問を抱き、それよりもずっと説得力のあるモデルを「発見」した。ネットに散見される愛国的なコピペがそれである。おもしろいのは麻生元総理の立場であり、彼はもともとそういう主張に近く、しかもマスコミから強い(しかも不当と思われる)弾圧を受けることによって民族主義的なヒーローの地位を手に入れていたと言ってよいだろう。おもしろいのは、その麻生を叩いたマスコミや民主党は敵、と見なされていることである。彼らが反日にいらだちを覚える中、民族をネイションの中心におくことで自説の強化に走ることは全く妥当な行動と思う。世界規模が民族の中に収まっていられないほど拡大し続ける中で、彼らが「民族」に退行しているのは、L.starとしては叩かずにいられない点である。いや、過去の自分と同じものを見て嫌悪を覚えているだけだ、といわれるとその通りかもしれないのだが。

民族と宗教の分離が明確ではない日本では、神道への回帰もこのカテゴリに入るのかもしれない。しかし、仏教という枠組みは見たことがない。宗教として、現在それだけの求心力を有していないと言うことだろうか。

国家連合など、国家ナショナリズムの拡大に求める人たち


現在のEUがとった道はこれである。また鳩山総理の「東アジア共同体」はここに分類されるべきであろう。他民族とのいざこざを棚に上げて併合しようというのであるから、当然民族ネイションの方々とはきわめて仲が悪い。個人的にはかつてのパクス・アメリカーナこそ拡大された国家(と資本主義)ナショナリズムの頂点であり、世界的にはこの点で新しい枠組みを必要としているのではないかと思う。しかしそれは日本だけでは決められない問題である。世界的な落としどころとして正しいが、日本としてこれを基盤とするのは難しいのではなかろうか。むしろ東アジアより、ミクロネシアの島国とのほうが理解を得やすいのでは(ただし経済的な問題は大きかろう)

現在の企業のありように疑問を感じた人たち


城繁幸の「若者はなぜ3年で会社を辞めるか」や梅田のシリコンバレー礼賛などが典型例であろう、現在の企業の主に非効率なところに焦点を当て、ネイションとして引き続き企業の役割を重視するが、その改善を促す勢力である。ただし、大企業システムは良くも悪くも非効率な部分とも強く結びついて存在しており、これの改善=現在の大企業社会を直接否定すること、それゆえに大きな反発もある。今頃蒸し返すのもどうかと思うが梅田の失敗は結局のところ自分の言説が他のネイションに対する不快感を巻き起こすことに気づけなかったからだと解釈可能である。

国民国家の実現母体としての企業に疑問を感じた人たち


労働運動の人たちや、反社畜、大企業の労働体制を批判するのはこのたぐいである。企業を直接否定しないが、しかし企業が不当に取り分を求めることをやめさせ、自分らしい生活をというものだ。これは当初上と同じものだろうと考えていた、しかし今日まとめていく上で違うものだろう、ということに気づいた。しかし現在の体制批判と改善を求めている点は同じであり、親和度は高いし、両方に同意する人すらいるだろう。ただ、ここから新しいネイションは見えてこないため、そういう意味では「反現在の企業」でまとめてしまっていいのかもしれない。

日本文化の発展に期待を寄せる人たち


世界に広まっている日本文化そのものをネイションと見なし、それの拡大を持って日本拡大と見なす考えである。ちなみに文化をネイションとなりうると見なすのは、さすがにL.starの新説というか珍説だろうと思う。問題はこういうもののうちどれがもっとも説得力を有するか、なので一人支持しても何一つ意味がない。そもそも寿司食うやつが日本の仲間、と単に見なすのは強引に過ぎる、というのは認めなければならないだろう。

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さてこのように考えると、大きな差異を感じるのはお互いに認識している「ネイション」が異なるからだ、ということになる。ちなみにL.starが開国派鎖国派と読んだのは、ネイションのサイズを現在より大きくとるか小さくとるか、ということでもある。

かつて外国人参政権のことを「アイデンティティの問題だ」と言われて頭をかしげたことがあって、それがずっとひっかかっていたが、なるほど確かにこれならアイデンティティの問題である。であるなら、なおさら彼らに対して「No」と堂々といえる。また「想像の共同体」で済ませられるものじゃない、と同様にコメントで指摘されたが、まさに「想像の共同体」の問題そのものであると堂々と反論できる。これは同時にL.starが探していた「救済の言葉」の理解に役立つものでもある。救済とは「ネイション」の確立によってもたらされる。これが分裂している間は、日本の閉塞感も続いていくのだろう。しかし、もっとも説得力と求心力を持ったものが次世代の日本を支える礎になるのだ。「ネイション」が先か、個別政策が先かは難しいところだろう。しかし少なくとも個人レベルでは「ネイション」を念頭に置いて行動でき、それが説得力を持つ結果をもたらしたなら追従者も増えるだろう。

この仮説は、あるいみ去年から参政権問題で、シリコンバレーに関する考えで、日本の今後のありようについて考え抜いたことの集大成だと考えている。むろんおおざっぱで、理論的裏付けにかけるのはその通りだろう。ただこれを文章にできたことで、自分の中にあったもやもやをずいぶんはき出せた。問題はこの仮説を元にどのような行動をとるべきかということで、そこはまあいろいろ考えているのだが次回以降と言うことで。

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