2009年09月


解雇規制の撤廃がもたらす、会社と労働者の力関係のシフト。


最近ふと気になった海外ニート氏の最新のエントリから。海外勤務という点ではL.starと共通するところである。

しかしこのエントリで非常に残念なのは、周りの人間もみんな、日本の社畜文化を「精神論」としてしまっているところである。しかしそれは大きな間違いで、実はあれは「制度」である。しかも何がやっかいかというと、明文化されていない制度なのだ。これにかかわらず日本の企業には明文化されていない部分が多い。欧米に比べて圧倒的に多い。なぜ欧米に比べて多いと言い切れるか?それは日本の会社が、日本人だけが働くところで意思の疎通が容易なことが一つ。国際的な企業では、お互いの意思の疎通が困難なため、明文化されていない制度など絶対成り立たない。逆に言うと、日本の会社でも国際的なところではあらゆる制度が明文化されているだろうし、たぶん現地化されたところでは明文化されていないルールも多かろう。

もう一つの理由は転職回数の少なさと、少ないほど有利であるという労働市場である。勤続が長いことにより、暗黙の社内ルールが醸成されやすくなる。しかしそれが悪であれば排除されていくのだが、勤続が長いほど良いとする社会においては排除する理由はない。それどころが、明文化されないルールはむしろ勤続者に有利なため、それを助長するインセンティブが生じる。結果、明文化されない制度はどんどん強化されていく。例えば海外ニート氏の言う
あと、どうしても腑に落ちないのは、クソ労働環境の改善には「精神論」ではなく「制度論」が必要って言うけど、今ある労働基準法だって「制度」だろ?

という話は、明文化された法律より、明文化されていない制度のほうが優先されているということになる。「会社の勝利のために自己犠牲すべき」なのか「会社は社員を奴隷扱いしていい」なのかは知らない。

明文化されていない制度は、日本では「空気」という別名で知られている。つまりエアリーデンィグと言うのは、書いてないけど守るべきルールを知るという事を要求されるわけだ。もちろん、書いてもないことを理解させるためには大変な時間がかかる。そう、10000時間ぐらい。引用記事で引用されているZopeジャンキー日記の

「精神論」より「制度論」を

というのは、そう考えれば的を得ていないことが分かると思う。海外ニート氏は実は精神論は言っていず、明文化されていない制度を糾弾しているに過ぎない。しかもそれが明文法まで上書きする勢いで、である。となると
「制度」にもいろいろあるが、政府が「強制」する規制と税金こそ、最大にして最強の制度だ。

といっても、明文法は簡単にオーバーライドされてしまうのだから。例えば解雇規制撤廃ももちろんポイントの一つなのだが、実際にそれによって流動性が上がるようになるためには、「空気」に切り込まなければいけなくなる。皆さんご存じの通り日本では空気を読まないことは悪だと見なされているので、これは大変なことだ。やれやれ、古代ローマですら共和制の初期に「十二表法」を持ち、日本だって「十七条憲法」を持ったのは聖徳太子の時代だというのに、世界は未だに明文化されていない法律に支配されているのだ。

しかし、幸運なことにこの「空気」は徐々に死につつある。例えば不景気による雇用の悪化である。この空気の醸成には長い訓練が必要である。だから新卒からたたき込む必要があるのだが、ブラックや派遣のような労働形態では10年持続しないため不可能だ。最近の若者は常識を知らないのではない。最近の社会が常識を教え込むのに失敗しているのだ。また高齢化により、ノウハウがまとめて失われるのもこの場合はありがたい。2007年問題と呼ばれたアレで、貴重なCOBOLのノウハウが失われていくのを、悲しんだ若手と喜んだ若手、いったいどっちがありがたかっただろうか。

崩壊の過程で失われることを嘆く人も多いが、良いものが同時に失われるのは仕方がないことなのだ。良く言われるカルロスゴーンに対する悪口で「あいつは大して有能な経営者じゃない。単に首を切っただけで、そのために技術の日産を支えていた人材が大量に離脱し、技術力は地に落ちた」というのがある。まあ事実かも知れないが、Z33にかつて乗っていたL.starにとってはあまりおもしろい言葉ではない。しかしもっと優秀だったかもしれない日本の経営者はしがらみという名の非明文制度にとらわれてしまって、救済に必要な措置をとれなかった。仮にゴーンが有能でなかったとしても、しがらみのない彼は、非明文制度にとらわれることなく決断を下すことができ、会社を存続させるのに成功した。こういう部分については、池田信夫氏が約束を破るメカニズムと言うエントリにまとめている。

最後に、崩壊のスピードが遅すぎて困る、と言う人のためには、分裂勘違い君劇場に人類史上何度も起きた、クソ労働環境の劇的な改善の原因というエントリがある。まあ1行に圧縮すればフロンティアがあれば労働者と経営者の関係が逆転して変わりますよ、そしてフロンティアを作れるのは民間ですよ、ということだ。しかしここでも、明文化された関係のみが並べられていて興味深い。例えばGoogleのような新興大企業が日本に登場することは、労働環境を変える役に立つだろう、というのはL.starも思っている。しかし、その際にきちんと日本の悪い非明文化制度と向き合ってつぶしておかなければ、また同じ事を繰り返すだろう。そして、そういった大企業が成功するためには、日本人以外の人材も非常に重要であろうとL.starは考えている。そうなると彼らとのコミュニケーションには明文化された制度が必要になるから、いずれにしても崩壊させないといけない。結局、こここそがボトルネックになっているのだろうな、という結論になっている。いやあるいはボトルネックではなく、渋滞のように相変異なのだろうか。

それにしても、分裂勘違い君劇場でしきりに「あなた」「あなた」と連呼されているのが気になる。L.starなら自分自身も当事者の一人だと思っているので「我々」というだろう。明文化されていない制度を崩壊させるためには、当事者全員の脳内の書き換えが必要になるから、多数が参加することが重要になる。個別に誰かが活動しても、それは各個撃破される事になるだけだ。ムーブメントとそれに沿って動く多数の民衆が必要である。理念的であれ、経済的であれ、文化的であれなんであれ。

欧州でご飯を食べていると、日本との文化の違いに考えさせることが多々ある。例えば昨日のエントリの甘い朝食の下りもそうだ。案外受けたようなので、調子に乗ってもうちょっと難しいのをやってみる。まあずっと考えていて書きたかったものなのだが、なかなか書ききれなかったものだ。

L.starはオランダに住んでいるが、日本人からオランダ料理について聞かれることはもちろんよくある。ちなみに一般的なオランダ料理というのを簡単に説明すると「イギリス料理と並ぶまずさを誇る料理」である。個別においしいものはたくさんある。主食のジャガイモ、チーズ(ゴーダ、エダムをはじめ数種。日本では考えられないおいしさで、考えられない安さ)チョコレートにコーヒー(植民地経済の産物。同様にインドネシア料理も多彩である)、決して馬鹿にしたものではない。また、ミシュラン三つ星2点を筆頭になかなかおいしいレストランも点在している。しかし料理全体で言うと決しておいしいとは言えない。相対的においしいものが食べたければベルギーに行くべきだ。ちなみに、ベルギーでもフラマン語圏(有り体に言えばオランダ語)のフランドル地方に行ってはいけない。ワロン語圏(同フランス語)のワロン地方に行くべきだ。

ベルギーの話はさておき、オランダ料理に戻ろう。伝統的なオランダ料理とは皆さんも余り知らないだろうが、以下のようなものだと地球の歩き方に記されていた。

  • 肉料理(主に煮込みやゆでソーセージ)

  • ゆでた野菜(グリーンピース、ブロッコリ、カリフラワー、にんじん、サヤエンドウなど。通常1種類)

  • ジャガイモ(フライ、ゆでたもの、グラタンなど)


幸い、こういうのは勤務先の昼食でよく食っているのでだいたい想像がつく。肉料理は煮込みが中心で、煮込みらしいおいしさはあるがバリエーションにかける。ゆでた野菜は品質そのものは低くなく、日本の安いものに比べればおいしかろう。しかし所詮い1種類だけである。飽きる。肉のソースや塩こしょうで(自分で)味付けするが、もちろん大しておいしくはない。子供向け小説の日本語訳で「うえーん、グリーンピース大嫌いー」とか、椀の半分にざらーっと無造作に置かれたグリーンピースを見ると納得がいく。これに比べればチャーハンに入っている子供の頃食ったグリーンピースは天国だ。ジャガイモは主食であり、むろんおいしいのだが日本食で言うところのご飯である。

まあそれなりに悪くないと思うだろう。ただ、本当にこれ以上のバリエーションがある訳じゃないので単調である。江戸時代の農民の食事を思い浮かべると近いかもしれない。しかし何しろ問題は、ほかにオランダ料理と呼べるものがないのである。たしかに同じヨーロッパの料理でも、我々がフランス料理と呼ぶものは宮廷フランス料理であり、これと比べるのはフェアではない。しかし断言するが、フランス家庭料理の方がうまいだろう。イタリアやスペイン料理に至っては比べるのはもはや無意味である。ローマで食べるピザやパスタなど、それはもう目が飛び出るぐらいのうまさである。だから食べるならやっぱりイタリア料理がいいよねー。ちゃんちゃん。

おっとここで終わってしまってはだめだ。このエントリはその先を書くためにある。で、じゃあ考えよう。オランダ料理がまずいのはなぜか。イギリス料理でもいい。とりあえず普通に、あるいはひねって考えられる選択肢をあげてみよう。

  1. 彼らが味覚というものを分かっていないから。

  2. まずい料理を我慢できる民族だから。

  3. 実はその地方で取れるものを使って作った料理としては、最高のごちそうである。まずいなんてとんでもない!

  4. そもそも、食べる側がおいしさを理解する素養がない。あるいは食べ方をちゃんと知らないが故にまずく食ってしまう。


まあこのエントリの趣旨は読み取れる人はもう気づいてしまったかもしれないが、とりあえず一つ一つつぶしていくことから始めよう。

「彼らが味覚というものを分かっていないから。」というのは実は一理ありそうなものである。

ヨーロッパにおける「うま味」 – あるいは日本のベーコンがおいしくないのは何故か


でも書いたが、彼らには日本食でも重要な部分を占める「うま味」という概念をちゃんと分かっていなかった。あまり理解せず日本食を模倣しようとすると大変苦しむことだろう。しかしこれは2つの意味で間違った解釈である。一つは彼らは単にうま味という概念を発見できなかっただけであり、料理にうま味が感じられること。もう一つは、オランダ人にしろイギリス人にしろ、おいしいは好きだ。それはおいしいものを作り出したり植民地から持ってきた歴史があることからも言えよう。もちろん日本人と全く同じ味覚の持ち主ではないから、日本人から奇異に感じることはある。しかしその差は4.で語られるべきことである。

「まずい料理を我慢できる」という視点では、民族ではなく宗教があげられることが多い。古くからある故に腐敗して世俗化したカトリックと、質素倹約を旨とするプロテスタントの差異だ。実際ここでまずい料理の国としてあげたイギリスもオランダもプロテスタントの国であり、同様にプロテスタントなドイツも(ちょっと論点がずれるがアメリカも)決して料理のおいしい国とは見なされていない。一方フランスもベルギーもスペインもカトリックの国である。イタリアなど総本山である。ヨーロッパにおいてはほぼ「プロテスタント=料理がおいしくない」という視点はだいたい成り立つのではないかと思う。

しかし、この区分は、それが原因か結果か、という点で疑念が残る。例えばカトリックのアイルランドが料理がうまいところかというとよく分かってない。またまずいとあげた国はどの国も地理的に北である。それなら単純に北国は飯がまずい、という結論でもいいのではないか。

そこでL.starが一押ししたいのが「実はごちそうである」説である。これはオランダをだいたい隅々まで旅してみて思ったのだが、オランダは地形が非常に単調である。いやそれはもちろんオランダが低地国であり、多くの部分が池や海を干拓して農地を作った土地である、と言う歴史から見ると当然のことなのだ。なにしろ「神は大地を作り、オランダ人はオランダを作った」と言うほどである。しかしこの単調な耕作地と、樺太なみの北の土地、寒く厳しい気候はオランダの食卓に余り多くのバリエーションを与えていない。ジャガイモ、麦、牛、羊、寒冷地でも取れる数種類の野菜。そんなものであろう。例えばベルギー料理にはふんだんに見られる甘いベリーソースは、オランダ料理としては(おそらく南の方の山がちな地方ではあるのだろうが北では)ほとんど見られない。山がちな土地では豊富に取れるベリーも、海抜以下のオランダでは取れないのだ。

そして、オランダで実際に食している料理を使って、どんなもっとおいしいものが作れるかと考えたら、実際にたいして思い浮かばないことに気づくのだ。もちろん今の世界のトップシェフならいくらでも思い浮かぶだろう。しかしそんな彼らでも、数百年前のオランダ人の知識と技術水準を考えれば、その答えに窮するだろう。現実問題として、彼らは最適解を導き出していたのだ。考えてもみたまえ、わざわざ大航海時代のように世界中をくまなく探して、おいしいもの(主食のジャガイモはアメリカ原産だから、間違いなくこのころ伝来してきた)や商品を持ってきた彼らが、果たして自分たちの領土をくまなく探さなかったはずがあるだろうか?キリスト教の勃興から大航海時代までどう見ても1000年以上あったというのに、そんな暇がなかったとは考えられない。

そういう筋道から、結局彼らの料理がまずいのは、それでも最善を尽くした結果のごちそうなのだ、とL.starは考えるようになった。その考えにたつと、単にまずかった食事も、その国の文化を理解するためのツールに化けていく。まずい食事しかできない国ではそれを許容できる器の広さを持った人間しか居住できない。プロテスタントがオランダやイギリスで受け入れたれたのはもちろんいろんな理由があるのだが、食に乏しい国だったからと言うのも一つの文化的背景にあるのではないか、とか。

ちなみに最後の「食べる側がおいしさを理解する素養がない」というのはオランダ料理についてはあまりないように思われる。というかたいていの場合、議論の余地がないぐらいおいしくない、で事足りる。強いて言うと、マヨネーズ嫌いの人がオランダのポテトフライ(通例大量のマヨネーズと一緒に供される)を理解できないというぐらいである。しかし、ほかの文化圏については、こういうことが生じるのはままある。例えば甘いベリーソースは肉のうま味を増すと言われているが、日本人にははなはだ受けが悪い。逆の例を言えば、生魚を食べる習慣のない欧米人の一部にはにぎり寿司は受け入れられない。文化とはかくのごとく難しいのだ。そういえばL.starもリコリス菓子=オランダ名ドロッペの良さは理解できない。

というわけでなぜオランダ料理がまずいと言われるかについて考察してみた結果を披露してみた。もうちょっと汎化してみると、食はやはり文化の一部であり、文化によってずいぶん多くのことが定義され、制限もされているのだといえるだろうと思う。そういう制限は現代の我々としては不思議に思ってしまうことも多い。が、現代以降の食文化の流れをきちんと追っていくと、文化と食がからみあって少しづつ融合していくさまがきっと観察できるのだろう。今後勉強する課題としておもしろいだろう。

オランダ人の見る「2種類の日本人」とは?【オランダ】


「日本在住の日本人」と「オランダ在住の日本人」というくくりで分けられているところが実に興味深いこの記事。まず後者の方から・
一方、もう一種類の「外国在住の日本人」というのは、日本在住の日本人と違って、外国の文化を取り入れてなじもうとしない、「絶対的な単一民族なのだそうです。

「外国在住の日本人」L.starは絶対にこうならないように、努めて大変な努力を払っている、と信じている。これからもそうしたいと思っている。しかしそれは本当に大変なことだし、とても他人に強制できることではないし、そうなってしまった日本人を見ても、たいていは彼らなりの努力をした結果であるので、馬鹿にしたくはない。正直くじけたくなることは数知れない。

一例を挙げよう。

ちょっと欧州のどこかに旅行に行く。9時頃ホテルのビュッフェで、日本人的米とおかず的発想で、クロワッサンとスクランブルドエッグとかりかりに炒めたベーコンを食べる。するとたいてい昼食を待たずして、10時半頃には燃料切れに陥ってしまう。どうにも調子が出ない。さあここでできる一番簡単な対策は、パンの代わりにご飯を食べることだ(ホテルのビュッフェでは難しいのだが)そうすると、やはり調子が出る。消化の関係があるんだから、やはり日本人はご飯食べないとね。となるとライスが出るような高級ホテルにしないと。ちゃんちゃん。

実はこれは間違った結論なのだ。それに気づいたのは4月にミュンヘンに行ったときで、このときは1日目の昼食にソーセージ(とわずかなパンとプレッツェル)を食べ、元気が出ずにぐったりしてしまった。3日目だったと思うが、行程全体で何となく糖分不足を感じていたのを思いだし、パンは甘い菓子パンを食べることにしたら、何とも調子が良かった。これではたと気づいたのだ。パンはご飯に比べて消化が悪いので、その出だしの悪さを糖分で補わないといけない。だから欧州人はたいていトーストにべったりと甘いジャムやチョコペーストを付けて食う。これはいわば二段ロケットのようなものである。このような配慮は日本ではほぼ必要がないことに注目したい。米は消化も腹持ちもそれなりによく、わざわざ二段ロケットにする必要は無い。そもそも日本の生活は米を食って一番都合がよいように最適化されている。

なんてこった、日本人はヨーロッパにおける朝食の食べ方すら知らないのだ。これはヨーロッパで生活してヨーロッパのパンを食べるなら絶対にどこかで身につけなければいけないものだと思うのだが、彼らにとってはあまりにも当たり前すぎて教える必要すら思い浮かばないだろう。

これはあくまで一例だが、こういう細かいものから大きなものまで、挫折を毎日のように味わうのだ。それを自分が欧州の慣行をよく知らないせいだ、と認めてしまえば、自分は小学生の常識すら知らない新参者の馬鹿だ、と認めることになってしまう。この状況で取り得るのは自分が馬鹿だと認めるか、自分がよく知っている世界に退行するかだ。どっちを選ぶのが楽かなど、わかりきっている。L.starは、自分が馬鹿だと認めた上であえて苦労をしようという二重の大馬鹿ものだというのは知っている。こんな生き方、他人にどうやって勧められるものか。

一つ言えるのは、これは日本人が欧米と大きな文化ギャップを持っているから生じやすいものではあるものの、万国共通である。中国人がどこに行っても中華街を作るのも、にた理由があるのではないかと思う。

でも、この記事を読んでちょっと勇気がわいた。もう一つの「日本在住の日本人」とは
「思想的な面から考えれば、日本人は多民族といえるくらいに、革新的な考えを持つ者もいれば保守そのものという者もおり、均一化されておらず各々が個性的である。その基となるのは精神の強さである。強いからこそ、他国から導入される思想や流行などを素直に受け入れる姿勢をもてる。つまり、『土着の日本人』は、常に柔軟かつ寛大な心と精神を培っている国民だ」

という人間だと書かれている。これはL.starが実際に目指したいと思っている人間像の一つである。これもまた日本人には限らないのかもしれないが、しかし「外国在住日本人」の反対のありようを目指すことは、こういう日本人になるための道である、ということではないだろうか。たぶん、ヨーロッパに来なければ自分の文化的引きこもり傾向は絶対に気づかなかっただろう。類型は危険ではあるが、こういう評価をきちんと受けたいために正しいことをしている、と思ったのは大変な成果であったかなと思う。

これからは、自分に自信を持って二重の大馬鹿者となって、いろんな視点から改めて欧州と自分の両方を眺め直してみよう、そう誓えた一日でした。

追伸:

もう民主党に売国されちゃいなよ、日本人!


オランダに住んでいるからこそ思う、外国人参政権論を考えてみた


と2つ、思いがありながらなかなか伝わらないフラストレーションのたまるエントリだった。だいたいL.starはエントリを3部作ぐらいで考えていて、今回ももう一作を、と考えつつうまくいかず終了かな、という感じだった。しかし前述のオランダ人から見た日本人というのが出てきたおかげで、最後の締めとなる部分がきれいにつながった。何を言っているのか、と思うかもしれない。しかし上記2つの言いたいことはつまるところ「日本人よ、『日本在住の日本人』になれ!」ということである。L.starにとっては、それ以外の内容はすべて、導かれる帰結に過ぎない。今考えればL.starは全く何を言っているのだ、である。

このような人達は実は日本にだけ存在する特別な人たちではなく、世界中に散らばっている。中国人だろうが日本人だろうがアメリカ人だろうが、である。世界がコミュニケーションの発達により相対的に縮小していくなら新しい秩序が必要となる。それを作ることができるのは、お互いの良いところを吸収していける資質の持ち主だけだと思わないだろうか。来るべき未来において日本が一定以上の地位を占めたいなら、世界中のそういう人たちと協力し、日本の良さを広め、悪いところはただし、他者のよいところを取り込むことにある。そして、「日本在住の日本人」がそのように言われることをしたことこそ、我々がかつて日本を超大国たらしめたと考えられないだろうか。

何もかも曖昧で、よく分からないのかもしれないとは自分でも思う。繰り返すが簡単なことではない。具体的な道筋すら今のところ無い。

でも、これを読んだ皆さんがどう思うかというのはとても重要なのだが、私はそれと関係なく自らこの苦難の道を選ぶ。そして、それを自分の誇りにしたいと思う。

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